「聞き従う祝福」

2023年2月26日説教  申命記 11章26~32節

        

主の御名を賛美します。

1、今日

今日の個所は5章から始まった基本的な戒めの纏めの部分です。モーセは初めに、「見よ」と言い、大切なことなので、注意して良く見なさいと言います。そして、「私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く。」と言います。ここで語っている「私」はモーセですが、実際に「祝福と呪いを置」かれるのは主であり、モーセは預言者として主の言葉を預かって語っています。

26~28節では、「今日」という言葉が3回使われています。モーセを通して今日、語られる言葉は今日から直ちに適用されますので直ぐに対応する必要のある、今日、現在のことです。後回しにして、その内に対応すれば良いことではありません。

祝福と呪いを、「置く」と訳されている言葉の意味は、「与える」です。主は祝福と呪いを与えますが、どちらを与えるかはこの後の条件次第です。まず27節で、「もし、今日私が命じる、あなたがたの神、主の戒めに聞き従うならば祝福」です。祝福の内容は、直近では14、15節です。

ユダヤ人は主の祝福を得るために、18~20節の、ありとあらゆる手段を用いて、人間の努力によって、主の戒めに聞き従おうとしました。新約の現代では、主が私たちの心に書き記してくださる律法に聖霊の導きによって聞き従えば祝福されますので恵まれています。

逆に28節で、「もし、あなたがたの神、主の戒めに聞き従わず、私が今日あなたがたに命じる道を外れ、あなたがたが知らなかった他の神々に従うならば呪い」です。呪いの内容は直近では17節です。26~28節は今日、現在のことです。

2、ゲリジム山とエバル山

それに対して29~32節は将来のことで、「あなたが入って所有する地に、あなたの神、主があなたを導き入れるとき」のことです。そのときに、「あなたは祝福をゲリジム山の上に、呪いをエバル山の上に置きなさい。」と言います。ここの「置きなさい」も「与えよ」という意味です。

その二つの山の位置の説明として、「ヨルダン川の向こう側、アラバに住むカナン人の地の、日の沈む方角のかなた、ギルガルに向かい合うモレの樫の木の傍らにあるではないか。」と言われても私たちには良く分かりません。簡単には後ろの「9」の地図の「Eの3」の左上にあります。

ゲリジム山は標高881mで谷を挟んだエバル山は938mの山です。エバル山は日本語的にも何となく呪いの山という気もしないではありません。この二つの山に祝福と呪いを置くというのは具体的にどのようにすることなのでしょうか。27章に具体的な内容が書かれています。

27:11~13。イスラエルの12部族は半分の6部族は祝福するためにゲリジム山の側に立って、残りの6部族は呪うためにエバル山の側に立ちます。そこでレビ人が大声で宣言します。このことが実際に実行されるのは、ヨシュア記8:34でヨシュアによってです。

祝福は28:1~14で、内容はここでは詳しくはお話しませんが、大まかに纏めると主の戒めに聞き従う者への五穀豊穣と子孫繁栄等の約束です。祝福に対して、呪いの方が祝福の前後に量が多く、詳しく書かれています。

まず呪われる者は15~26節の12の者で、ここも大まかに纏めると、偶像礼拝を行う者、父母を敬わない者、隣人愛の無い者、性的不品行を行う者、不義を行う者と言えます。これらが申命記11:28の、他の神々に従うことです。

呪われる者への呪いの内容は長く、28:15~68になりますが、一言で言えば、あらゆる災いによって滅びに至るということです。ただ27、28章は中心構造で大切なのは真ん中の、従順に対する祝福です。

3、祝福と呪い

26節からの小見出しには「祝福と呪い」とありまして内容を良く表していると思います。そして一見するとそのまま説教題にしても良さそうな感じもします。しかしこれは祝福と呪いという2つの選択肢が置かれていて、あなたはそのどちらを選びますかといったような選択の問題ではありません。

全ての人は神によって造られ、全ての人は本来は神の子とされ、天の父を、「主の祈り」にあるように、「天にまします我らの父よ」と呼ぶべき存在です。父なる神は私たち人間に対してどのような御思いを持っておられるでしょうか。勿論、全知全能の神のお考えの全てを私たち人間には計り知ることは出来ません。

しかし祝福と呪いということで言いますと、人間の親子の思いと良く似ていると思います。親であれば誰でも子どもの祝福を願うもので、そして祝福の道のど真ん中だけを歩んで行って欲しいと願います。神も私たちに祝福だけを与えたいと本当は願っておられます。

そうは言っても最近は必ずしもそうとも言い切れないような事件も起こったりはしていますが、例外であると思いたいものです。また親は親なりに考えて子どもの祝福に繋がるようにと色々と考えるものです。ただそこには知恵も必要となって来ることもあります。

ただ甘やかせておけば良いというものでもありません。子どもの将来の祝福に繋がるようにと願って、時に厳しくした方が良いと思ったり、子どもの考えとは違っても良かれと思って、子どもの考えとは違う道を進めることもあり得ます。

しかし、「親の心子知らず」です。なぜ自分の親は自分の思いを分かってくれないのだろうと思う子どもは結構いるものです。そして後になって親の愛に気付くものですが、「親孝行したい時には親はなし」とは良く言ったものです。私も父親に親孝行をもう少ししたかったという後悔があります。

いずれにせよ、私たちを愛する天の父は私たちが祝福の道だけを歩むようにと願っておられます。そのためにお独り子であるイエス・キリストを十字架に付け私たちに救いの道を与えてくださいました。先週の水曜日からレント、受難節に入りました。

レントは四旬節とも呼ばれるように、イースター前の主日を除いた40日間です。この期間はマタイ6章にある、天に宝を積むことである、施し、祈り、断食を通して悔い改める期間です。隣人への施し、神への祈り、断食が象徴する悔い改めを行い、本当のレントの期間を過ごさせていただきましょう。

主が私たちの祝福を願われるのであれば、なぜ祝福だけではなく呪いも置かれたのでしょうか。それは警告だと思います。信号機には青だけではなく、黄、赤によって止まるように命令を出して、進んだら危険と警告します。

呪われる者と呪いの内容は、これに該当するならいずれ滅びに至ってしまうという警告です。私たち人間は罪深いので、黄色信号でもまあいいかと進んでしまい易いものです。呪いのリストはその時に直ぐに気付くためのリストと言えます。また呪いの内容を知って、呪われることを恐れるためでもあります。

祝福は、神の愛によって恵みを与えられることです。神は人に多くの祝福を与えたいと願っておられますので、主の良い地は天の雨で潤っています。それに対して呪いは、罪がもたらす滅びです。呪いは神がもたらすというよりも、人の罪が自らの手で、主が恵みを与えてくださる天を閉ざすことです。その結果滅びるというのは、自業自得です。

4、呪い

「呪い」ということで思い浮かぶのは、旧約聖書の出エジプト記7~12章に書かれている、エジプトに下された10の災いです。10の災いには、血、蛙、ぶよ、あぶ、疫病、腫れ物、雹、ばった、暗闇、初子がありました。これらは明らかに全て超自然的な出来事で呪いであることは明白です。

一つ一つの災いの時に、これは呪いを受けていると気付いて悔い改める機会はありました。実際に、エジプトの王ファラオは多少は悔い改めることはありましたが、直ぐにかたくなになり最後は初子の死を迎えてしまいました。そしてエジプトを脱出したイスラエルを更にしつこく追いかけて、その結果、紅海でエジプトの全軍が壊滅させられるという滅びを招いてしまいました。

しかしここで戸惑いを覚えることもあるかも知れません。ファラオの心をかたくなにしたのは主であり、全能の主により心をかたくなにされたファラオは、自分では抵抗の仕様が無いので可哀そうではないかという思いです。

しかし問題はなぜ主はファラオの心をかたくなにされたのかです。主がファラオの心をかたくなにされたのは、6番目の腫れ物の災いが初めです。それより前の5つの災いに対しては、ファラオは悔い改める機会は何度もありました。5つの災いの間は赤信号になっていました。

そもそもエジプトに災いが下された原因はイスラエルを虐待する等の悪を行っていたために、イスラエルを解放させるためです。しかしファラオは完全数の5つの災いに対して心をかたくなにして、完全に心をかたくなにしてしまいました。

その結果、呪いを招いて悔い改める機会を完全に失い、赤信号で飛び出して滅びへと進んでしまいました。ファラオの運転の車には本人だけではなく同乗者もいます。呪いは本人を滅びに至らすだけではなく、周囲の者をも滅びに巻き込んで行く恐ろしいものです。

11:6でルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムはコラたちと組んでモーセとアロンに逆らいました。複数の人がいるのだから誰かが神に立てられたモーセとアロンに逆らうことは間違っているのではないかと気付いても良かったのかも知れません。

しかし返って逆効果で、お互いに悪を煽ってしまったようです。結果はマタイ15:14で主イエスが、「放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人である。盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」の御言葉の通りになってしまました。

エジプトに下された災い等の例を聞くと呪いに対して恐れを感じるかも知れません。健全に主を畏れ敬うことは正しいことです。しかし無暗に怖がる必要は全くありません。主に聞き従っているならば呪われることはなく、祝福されるだけです。呪いは主に聞き従わない者をさばき、主に聞き従う者を守るための、正義のためでもあります。

自分や他の人が祝福されるのか呪われるのかは簡単に見極めることが出来ます。それはガラテヤ5:19~23の肉の行いと霊の結ぶ実のリストを見れば、肉の行いは呪われ、霊の結ぶ実は祝福されることが明白です。「そこに愛はあるんか」がキーワードです。

5、聞き従う祝福

イスラエルはヨルダン川を渡って、主が与える地に入って、それを所有しようとしています。主が与える地は天の雨で潤っている地です。聖書は、単に「主が与える地に入って」というだけではなく、わざわざ、「ヨルダン川を渡って」と12:10でも言って繰り返して強調します。

当時、水は清めの儀式に使われていました。ヨルダン川を渡ると言うことは、その清めに与るということです。主の与える地に入って、それを所有し続けるためには、清めに与り続ける必要があります。それは悔い改め続けることです。

5章から始まった基本的な戒めの結論は、「主が与える地を所有して、そこに住むときには、今日私があなたがたに与える掟と法を、すべて守り行わなければならない。」のです。この結論は中心構造として5:1の内容と同じです。

現代では、掟と法をすべて守り行うために、主ご自身が私たちの心に律法を書き記し、聖霊が思い起こさせてくださいますから感謝なことです。聖霊は自分が主に戒めに聞き従って祝福を受けているのか、それとも主の戒めに聞き従わず呪いを受けているのかを、はっきりと示してくださいます。

しかしそれもいつまでも続くことではありません。エジプトの王ファラオの例で言えば、7つ目までの災いで心をかたくなにせず悔い改めていれば最後までは行かずに済んだはずです。しかしいつの間にかそのような悪にも良心が麻痺してしまったのでしょう。

聖霊は私たちが進むべきではない道ははっきりと示してくださいます。ですからマタイ12:32の、「聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない。」のです。私たちは道路を通行するときに、わざわざぎりぎりの黄色信号を進む必要はありません。

主の導きを信じて青信号を通って行くのが安心です。人生も全く同じです。そのようなところでスリルを味わう必要は全くありません。聖霊が導いてくださる主の戒めに聞き従って祝福の道を歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちの祝福を願い、御子イエス・キリストを十字架に付けられ私たちの罪を赦し贖ってくださいますから有難うございます。あなたは私たちが間違った方向に進むことがないように、呪いについても詳しく教えてくださり有難うございます。

聖霊の導きによって私たちがあなたの愛に応答して、あなたの戒めに聞き従い祝福の道を歩めますようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。