「神に造られた人」

2023年3月12日説教  
創世記 1章26~31節

主の御名を賛美します。

1、召天者記念礼拝

今日は召天者記念礼拝です。ご覧のように、召天者記念礼拝に先に召された方々の写真を置いて行ってはという提案がありました。確かに、このように写真を前に置いて召された方々を偲びつつ召天者記念礼拝を行う教会も多くありますので、茂原教会も役員会で話し合い行ってみることにしました。

そこで1つ考えることがありました。それは写真を置く対象者の範囲をどうするのかということです。

「死」ということについて、同じキリスト教でも呼び方は異なります。東方教会(正教会)では永眠と言います。西方教会では、カトリックは帰天、聖公会は逝去、プロテスタントは召天と言います。

東方教会の永眠と、聖公会の逝去は、人の死を指す一般的な用語ですので誰にでも使えます。しかしカトリックの帰天とプロテスタントの召天は信者向けの用語です。しかし誰が天国に入るということを決められるのは神のみであり、私たち人間には与り知らぬことです。

信仰を持って普通に歩まれ、召された方をプロテスタントは召天者と呼ぶことは出来ます。しかし、この人は召天者ではないと人間が断言出来る人は誰一人としていません。それを決められるのは神のみだからです。そのことを私たちは謙虚に受け止める必要があります。その意味で召天者記念礼拝は、この世の生涯を先に終えられた全ての方を覚えて記念する時です。

2、神のかたち

そもそも神は私たち人間をどのようなものとして造られたのでしょうか。御言葉を聴かせていただきましょう。神はこの世の初めの第六の日に人を造られましたが、その前に人が生きて行くために必要なものをすべて造られました。神はそれ以前の日もすべて、先に造られたものがあって初めてその後のものが存在出来るようにと造られていることが分かります。

神は人に必要なすべてのものを造られて、何不自由無くすべてが整った最後に、創造の冠として人を造られます。神は言われました。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。」 この御言葉に私たちは2つの疑問を覚えます。

1つ目は、神の言われる複数の「我々」とはどなたのことなのだろうかということです。信仰的には、「我々」とは父、子、聖霊の三位一体の神を指していると考えられます。しかしヘブル語の文法的には、威厳、尊厳を表す複数や、思案、熟慮を表す複数と考えられています。

2つ目の疑問は、神のかたち、姿とはどのような意味であるのかということです。「かたち」と訳されている言葉には、「外形」という意味もありますので1つは肉体的な形の意味もあるでしょう。しかし、「かたち」が外形だけだとすると、髭を剃るのは神のかたちを損なうことになるから良くないという考えになってしまいます。

26~28節は平行法で書かれていて、段違い平行棒のような感じでしょうか。27節でもう一度、「神は人を自分のかたちに創造された。」と言って強調されて、「神のかたちにこれを創造し男と女に創造された。」と言います。男と女は外形が異なりますが双方ともに神のかたちであることは、外形以外の意味もあるということです。

2:7で、「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者とな」りました。「息」という言葉は「霊」と同じです。その意味で人は神の霊を吹き込まれて生きる者となることです。ヨハネ4:24は、「神は霊である。」と言いますので、神のかたちとは、神の霊によって生きることです。

これは他の生き物と決定的に異なることです。人は肉体的には他の生き物と似ている部分もあります。しかし人だけが神の霊を持って生きて、他の生き物は持ちません。ですから時間が経てば他の生き物が進化して人になるということは有り得ません。

また神のかたちとして、神が男と女とを創造されたことは、神のかたちとは男と女のいる共同体であることです。共同体は色々なかたちが考えられて、まずは夫婦、親子、家族、親戚等です。共同体は婚姻関係や血縁関係に限らずに、神の家族である教会、友人、近所の方、何かのグループの方であったりします。

私たちは何重にも神のかたちに生きることを求められています。まず初めに1人1人は、神のかたちに生きることを求められています。次に神のかたちである共同体の中で1人1人が神のかたちに生きます。そして共同体そのものが神のかたちに生きることが求められます。

その意味では私たち1人1人は、1人で生きることを大切にすると共に、共同体に参加して共同体の中で生きることも大切にする必要があります。

3、神のかたちの行い

神のかたちに造られた人を神は祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。祝福の結果として数量的に増えるということです。日本を含む先進国では人口減少が深刻な課題になっています。しかし発展途上国では人口の増加というより過剰の問題がありますが、これは人間の罪の問題が関わっています。

祝福の3つ目の、「地に満ちよ」は、地に満ちることによって、4つ目の「地を従わせよ」に繋がります。「地を従わせよ」とは具体的には、5つ目の、「海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆる生き物を治めよ」ということです。これも大切なことですので、26節と28節で2回繰り返します。

「従わせる、治める」とは具体的にはどうすることでしょうか。2:15は、「神である主は、エデンの園に人を連れて来て、そこに住まわせた。そこを耕し、守るためで」した。「耕す」という言葉は、「仕える」という意味ですので、「従わせる、治める」とは、「仕えて守る」ことです。

人は、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆる生き物に仕えて守る、善い管理者になる必要があります。人の都合や利益を優先して、他の生き物を取り尽くして絶滅をさせたり、自然破壊等はしてはならないことです。自然に仕えて守ることが神のかたちに生きることです。

クリスチャンは、神を信じるクリスチャンとクリスチャンでない人を時に応じて区別はしますが差別はしません。神を信じる信仰を持つことは大切なことです。しかしクリスチャンであってもなくても、すべての人は神に造られてこの世に生まれ、神のかたちに生きることを求められていることの重大な意味を覚えたいと思います。

4、食物

人を含む、あらゆる生き物の食べ物は何でしょうか。まずは神のかたちである人の食べ物です。「神は言われた。『私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。』」

神は第三の日に11節で、「種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を」造られました。それが人の食物です。私たちが講解説教で聴いています申命記には、主が約束された良い地は、天の雨で潤っていて、あなたは穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油を収穫して食べて満足するだろうとありましたが、正にそのようです。

ここから分かることは、神のかたちに造られて原罪を犯す前の人は、草、種、果樹だけを食べるベジタリアンであったことです。他の生き物の食べ物はどうだったのでしょうか。「また、地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与え」ました。

ということは他の生き物もすべて草食でした。初めは人が動物を食べたり、動物が他の動物を食べることはありませんでした。平和な楽園でした。それでは人や動物はいつから肉食になったのでしょうか。それは3章で、初めの人であるアダムとエバが神が食べてはいけないと禁じられた善悪の知識の木の実を食べる原罪を犯した後です。

しかし主イエスが再びこの世に来られる時には、イザヤ11:6の、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み小さな子どもがそれを導く」ようになります。それは肉食の動物は草食に戻り、人間もベジタリアンに戻ることです。

5、神のかたちの回復

聖書を内容的に二つの分けるとすると、主イエスがこの世に来られる前と後の旧約と新約に分けるのが一般的です。

もう一つは創世記1章と2章が一つのグループで、もう一つは創世記3章から後に分ける方法があります。分量的には大きな隔たりがありますが、私はこの分け方が好きです。

創世記1章と2章は神がこの世を造られた完全なる姿、人が神のかたちである世界です。Perfect world です。世界の理想の姿を知るには創世記1章と2章を読めば分かります。しかしその完全な世界は創世記3章のアダムとエバの原罪によって壊されました。

創世記3章から後は、人が神のかたちを回復し、創世記1章と2章の完全なる世界を回復するための物語です。創世記3章から後は長いですが、どのようにしたら人は神のかたちを回復することが出来るのでしょうか。人は色々な努力を行ってみましたが、結局は人の力によって神のかたちを回復することは出来ませんでした。

その結果として、父なる神はお独り子である主イエス・キリストを十字架に付けられて、人を贖うこととされました。人が神のかたちを回復する方法はただ一つだけで、それは主イエスを信じることです。人の第一の創造においては、創世記2:7で、神は人の鼻に命の息(霊)を吹き込まれました。

しかし原罪によって神のかたちは毀損されました。そして第二の創造では、ヨハネ20:22で、主イエスは彼ら(弟子たち)に息(霊)を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい。」 私たちは主イエスを信じて、聖霊を受けることによって、神のかたちを回復させられます。

今日の召天者記念礼拝において、既に召された方々のすべてが神の御手の中でこの世に生まれ、この世での生涯を終えられました。私たちはその事実を厳粛に受け止めたいと思います。今、悲しみの中にあるご遺族に慰めが与えられますようにお祈りしています。

元々、すべての人は神のかたちに生きるべく造られました。この世の生涯を既に終えられた方々には主の豊かな憐れみある御心がなることを信じます。

アダムとエバの原罪によって人の神のかたちは毀損されています、しかし回復の道は主イエスの十字架によって既に備えられています。この世において救いの機会に恵まれているすべての方々が、聖霊の導きによって救いに与ることが出来ますように祈ると共に、信仰を持っている方々が信仰を守られますようにお祈りいたします。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。すべての人は神の御手の中でこの世に生まれ、神のかたちに生きることが求められています。あなたは私たちが神のかたちを回復するために、御子イエス・キリストを十字架に付けられ私たちを贖ってくださいますから有難うございます。

この世の生涯を既に終えられた方々にあなたの憐れみある豊かな御心がなることを信じます。まだ救いに与っておられない方々に聖霊が豊かに働いてくださり救いに与らせてください。また既に救われている方々の信仰も聖霊の働きによってお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。