「本当のことを言うことから」

2023年3月5日 礼拝説教
ヨハネによる福音書4章16~26節                                               野田栄美

  • 一番の敵

スポーツ選手がインタビューで「一番の敵は誰ですか」と聞かれて、「自分です」と答えるのを見たことがあります。他の誰でもない。自分自身が最大の敵であると言われると、共感する方もいらっしゃるのではないでしょうか。人はともすれば、他人には厳しく、自分には甘くなるものです。子どもに、好き嫌いしないで食べなさいと言いながら、自分は好きなものをつい食べてしまっていたり、どんな人とでも仲良くしなさいと言いながら、自分は苦手だと思う人と距離を置いたりします。自分自身を改めるということは一番難しいことです。

聖書は、その一番の敵である自分自身に向き合うことを語る書物です。そして、それは目を背けたいことに向き合うことでもあります。どんな人でも、自分自身は、気が付いていない心の姿があります。それを、突きつけられる時に、私たちはどうするでしょうか。

今日は、サマリアの女性と主イエスの会話から、心の姿に向き合うこと、主イエスとは何者か、また、開かれる神の真理とは何かを見せていただきましょう。

  • 本当の姿を明らかに

主イエスは、どんな方だと思いますか。それぞれ持つイメージは、多少違いはあるかもしれません。柔らかい物腰をした、温かい人柄の人物だと、イメージしておられる方が多いのではないでしょうか。しかし、以前、お読みしたヨハネによる福音書3:19~21では、主イエスが「光」に例えられています。光がなければ、そこは暗闇ですので、そこには何の姿も見えません。けれども、光が差し込む時には、そこにあるものの姿が見えるようになります。主イエスは、私たちには見えない、私たちの心の姿に光を当てる方です。それは、時に、心を突き刺されるようなことです。

私たちの心は、私たち自身の目にも見えません。それは、主イエスに触れる時に、私たちの前に、姿を現します。サマリアの女性もそうでした。彼女は、主イエスの言う、「飲んだら決して渇かない水」を欲しいと思いました。15節では「その水をください」と主イエスに願い出ています。

すると、主イエスはなんとおっしゃったでしょうか。16節「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われました。これは、彼女にとって、心を刺されるようなことでした。彼女には過去に5人の夫がいましたが、今は夫ではない人と暮らしていました。そのため、人々の目を避けるために、真昼の暑いさなかに、井戸へ水を汲みに来ていました。彼女の本当の姿は、神の律法を犯している、神に背を向けている姿でした。

自分をさげすむ様子もなく、ユダヤ人が話しかけて来て、何か聞いたこともないような素晴らしい水を与えてくれようとしている。どうしても、それが欲しいと思い始めた時に、突然、自分の心の隠されたところにある、本当の姿に光が当てられました。

  • 真実を話す

 触れられたくないと思っていることを、初めて会った人に急に指摘されたら、私たちは、どんな態度を取るでしょうか。私ならば、話を逸らすと思います。日本人は、その場の空気を察して、それ以上踏み込まないものです。主イエスに心が照らされたときに、私たちは、話を逸らすこともできますし、「すいませんが、ご理解ください」と、やんわりと断ることもできます。何と答えるかは、私たちが選ぶことができます。

この主イエスの問いに対して、サマリアの女性も、何食わぬ顔をして、同居している男性を夫と偽って、連れて来ることもできました。自分の過去の辛い体験を話して、問題を自分の周りにすり替えることもできたと思います。また、何も言わず、その場から離れてしまうこともできました。けれども、彼女は、真実を言うことを選択しました。「私には夫はいません。」17節 主イエスの光に当てられた、自分の姿を偽りませんでした。主イエスに本当のことを言いました。

  • 神から使わされた方

 本当のことを言ったことによって、何が起こったでしょうか。ここで、神の真理への道が開きました。ここから、主イエスは、ご自分が誰であるかを、少しずつ明らかにされます。17,18節「『夫はいません』というのは、もっともだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたの言ったことは本当だ。」と、彼女が語ってもいないことを、主イエスは全て言い当てられました。主イエスは、自分が普通の人ではないこと、過去を全て知っている存在であることを、明らかにされました。

それを聞いて、彼女は心から驚きました。19節「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」あなたは、神から使わされた方ですねという告白です。彼女が話す前から、彼女の過去を全て知っているのは、神以外にありません。このユダヤ人は神から使わされた預言者だと、彼女は思いました。

  • 礼拝をする場所

 そして、主イエスに、神に対してどこで礼拝を献げたらよいのかと質問します。

聖書には、人が神に出会った時のことを何度も書いています。自分の知性や力を完全に超えた存在に会うと、人は恐れを感じます。この時のサマリアの女性も、恐れを感じたのでしょう。そして、ひれ伏して、礼拝をしなければと思ったのでしょう。けれども、礼拝するには一つ解決しなければならないことがありました。それは、礼拝をどこで献げるかということです。

当時のユダヤ人とサマリア人は、犬猿の仲でした。以前にお話した通りです。ユダヤ教の聖地はエルサレムですが、サマリア教の聖地は、(ゲリジム山先週の説教で祝福を置かれた山)です。外国の女性をめとって、ユダヤから逃げてきた一人のユダヤの祭司が、サマリア独自の神殿をそこに築いたからです。

今、目の前のユダヤ人を、神が使わされた人だと信じ始めているこの女性にとって、礼拝を献げる場所が、エルサレムかゲリジム山かという問題は、大きな問題でした。この人なら答えをくれるだろうと希望を持ちました。主イエスへの信頼が生まれていたからです。

  • 真理を明らかにされる

主イエスは、その問題になんとお答えになったでしょうか。 主イエスは「女よ」と声を掛けられました。これは、カナの結婚式の奇跡の場面で、主イエスが母マリアを呼んだときに、使った言葉と同じです。「女の方」と丁寧に、大人の女性に敬意を表して呼びかけるときに使われる言葉です。ローマ皇帝アウグストがエジプトの女王クレオパトラを呼ぶのに用いた尊称です。それまでは、主イエスはサマリアの女性に対して「あなた」と呼びかけていました。ここでは、「女よ」「女の方」と呼びかけています。これは、私はあなたに、とても大切なことを話しますよということを、伝えるためです。

続けて、21節「私を信じなさい」と、言われました。それは、この後、思いもよらない答えが語られるからです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」

 目の前に見える大きなゲリジム山か、遠くに見えるエルサレムか。サマリアの女性は、目に見えることに捕らわれて、何をするべきか分からないでいました。けれども、主イエスは、あなたが大きな問題だと思っていることは、心配することではない。この山でもエルサレムでもないところで、神をお父さんと呼び、礼拝するときが来る。それをもたらす救いは、ユダヤ人から来るとおっしゃいました。

 霊と真実による礼拝

更に、23節「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」24節「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」と言われました。

 これは、まことの礼拝の到来です。見える献げ物を、目に見える場所で献げる礼拝は、まことの礼拝の影です。救い主、メシアが来られる時、礼拝は、目に見えない霊と真実によって献げられるようになります。この真実とは、嘘に対する真実という意味ではありません。影に対する本体という意味です。旧約の時代から行われている動物の犠牲を献げて、罪を清めていただく礼拝は、影です。まことの礼拝が本体です。それは、完全な犠牲を献げる時です。その犠牲は、神の独り子ご自身が十字架に掛かかられて、成し遂げられる犠牲です。

 霊と真実をもって礼拝するとは、主イエスの光によって見せていただいた、自分の本当の姿を主イエスの前に告白すること。そして、主イエスがその私たちの本当の姿、心にある罪のための犠牲を払ってくださったことを信じること。そのことによって、いただける聖霊によって献げる礼拝です。このまことの礼拝をもたらしてくださるのが救い主です。

  • 主イエスとは誰か

主イエスこそ、(25節)その救い主(メシア)です。(25節)主イエスは、サマリヤの女性が告白しているように、神について一切のことを、私たちに知らせてくださるお方です。それは、十字架上での犠牲と復活を通して教えてくださいます。

主イエスは、負い切れない罪を抱えて、人目を避けて生きていたサマリアの女性に、自分が何者かを明らかにしてくださいました。ユダヤ人が敵対するサマリア人であり、男性とは差別されていた女性であり、5回離婚を繰り返し、今は、夫でない人と住んでいる女性。この人と関わると汚れるとユダヤのラビが考えて、避けて通るべきこの人に、主イエスは神の真理を話されました。自分が何者であるかを示してくださいました。すなわち、26節「あなたと話しているこの私が、それ(救い主)である」と、明らかにされました。

私たちは自分の力で、自分自身に勝つことはできません。一度勝てたとしても、また、負けてしまいます。けれども、救い主である主イエスは、何のためらいもなく、罪を抱えた私たちに声をかけてくださいます。私たちの心にある罪に、光を当てられます。そして、このような私たちに生ける水である聖霊をくださる方です。その聖霊こそが私たちの中にある罪に勝ってくださいます。そして、霊と真実の礼拝へ導いてくださいます。

その時は、いつ来るのでしょうか。今がその時です。自分を偽ることなく、自分の罪を認めて、本当のことを主イエスにお話しましょう。もう、主イエスはあなたの本当の姿をご存じですから、恐れる必要はありません。主イエスに本当のことを言う時に、あなたに聖霊が与えられます。今がその時です。