「御名を置く場所」

2023年3月26日礼拝説教  
申命記 12章1~7節

        

主の御名を賛美します。

1、掟と法を守り行う

一か月振りの申命記からの説教になります。今日の個所から律法の具体的な内容に入って行きます。主はモーセを通して神の民であるイスラエルに対して、これから掟と法を示されます。主がイスラエルに掟と法を示される目的は何でしょうか。

主が示される掟と法は、主がイスラエルに所有させる主の約束の良い地で、命あるかぎり、守り行うべきものです。直前の11:31、32も読んでみましょう。イスラエルはこれから良い地を所有しますが、一度、所有すればそれで良いという訳ではありません。

良い地を所有して幸せであり続けるためには、掟と法を守り行い続ける必要があります。現代の神の民であり、霊的なイスラエルであるクリスチャンは、この世にありながら、主が所有させる地である、神の支配される神の国にすでに生きる者とされます。

しかしそれはイスラエルにとって主の良い地と同じで、一度、神の国を体験したらそれで終わりではありません。神の国に生き続けるためには、主の掟と法を守り行い続ける必要があります。そのためには一番初めにまず何を行うのでしょうか。

2、宮きよめ

イスラエルはこれから主が所有させてくださるカナンの地に入って行きます。皆さんが新しい場所に行って新しい生活を始めるときに、一番初めに行うことはどのようなことでしょうか。引っ越しを経験しことのある方は、引っ越し先で一番初めに行うことはどのようなことでしょうか。

引っ越し先が新築のピカピカな綺麗な家であれば、自分の持ってきた家具等を直ぐに置いて行くかも知れません。しかし自分の引っ越し先に、前の住民の所有物で、しかも汚れていて使えない物が沢山置いてあったらどうするでしょうか。まずそれらの物を処分することから始めることでしょう。

11:28の終りには、「他の神々に従うならば、呪いを置く。」とありましたが、そのような悪い影響を与えるような物はまず初めに取り除く必要があります。今はレント、受難節ですが、受難週の月曜日に、主イエスがエルサレムに入城されて、一番初めに行われたことは、神殿で商売をしていた人等を追い出す、宮きよめです。

何か新しいことを始めるには、まず悪いものを取り除いてきよめる必要があります。悪いものを残したままでは、きよいことを行うことが出来ません。

そこでまず、「あなたがたが追い払おうとしている諸国民が、高い山の上や丘の上、茂った木の下で彼らの神々に仕えてきた場所は、必ずことごとく破壊しなければな」りません。

高い山の上や丘の上は神の住まいと考えられていました。確かにモーセもシナイ山の上で神と話しています。その影響か、日本でも高い山の上は大抵は神社等になっていたりします。神社だけでも困りものですが、更に登山をするにも強制ではありませんが、お賽銭が求められていたりと困ったものです。

茂った木は、水分の乏しいカナンの地では豊穣、多産のシンボルとなっていて、茂った木の下では豊穣祈願を口実に淫らなことが行われていました。それらの場所には、異教の祭壇、石柱、アシェラ像、神々の彫像が建てられていました。アシェラ像は女性の豊穣の神のシンボルですので、石柱はそれに対応する男性の豊穣の神のシンボルのようです。

祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像は木製ですので火で焼き、神々の彫像を切り倒し、必ずことごとく破壊し、彼らの名をその場所から消し去ります。名というのはその実体ですから、悪いものをすべてをことごとく消し去ります。

現代の教会には流石に、異教の祭壇、石柱、アシェラ像、神々の彫像等は置いていないと思います。しかしいつの間にか様々な偶像が入り込んで来ます。偶像の最大のものは8節の、「それぞれ自分が正しいと見なすことを行う」ことです。誰かが偶像を作るのではありません。自分自身が偶像になって行きます。

聖霊に探っていただいて、定期的に皆で振り返り、この最大の偶像が入り込んでいないかの確認が必要です。偶像があるかないかが問題なのではありません。入り込んでくる偶像を有耶無耶にして放置することが問題です。

偶像をそのままにしておくと必ず問題を引き起こし、主の所有させる地を失うことになります。偶像を有耶無耶にするのではなく、偶像を偶像としてきちんと認めて、ことごとく破壊して消し去ることが大切です。レントのこの時期に聖霊に偶像を追い払い消し去っていただいて、イースターを迎えたいと願います。

3、御名を置く場所

あなたがたの神、主には勿論、同じようにしてはなりません。むしろ、あなたがたの神、主が、その名を置くためにすべての部族の中から選ぶ場所、その住まいを尋ね求めます。そしてあなたはそこへ行きなさい、と命じます。イスラエルのこれまでの荒れ野の時代は主がその名を置かれる場所は移動式の幕屋でした。

しかしこれからイスラエルは約束の地に入って定住することになります。そこで主が名を置かれる場所へ行きます。それは主の名、主の元を尋ね求めて、主の前へ行くことです。それは神殿ということになって行き、また各地域に作られてシナゴグと呼ばれる会堂になって行きます。

それは現代においては教会ということになります。教会を尋ね求め、行きます。今は落ち着きつつありますが、コロナウィルスの感染予防の観点からは教会には行かないことも考えられました。

今もコロナウィルスが収束した訳ではありませんので無理をする必要はありませんが、無理の無い範囲で教会に行きます。またコロナウィルスとは関係なく、体調も考えて無理のない範囲で教会に行きます。

4、いけにえと献げ物

ところで教会には何を目的に、何をしに行くのでしょうか。三つのことが命じられています。一つ目は6節を大きく纏めると、「いけにえと献げ物を携えて行きなさい。」です。いけにえは、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえです。

焼き尽くすいけにえの内容はレビ記1章にありました。焼き尽くすいけにえは、文字通りに携えてきた、牛、羊、鳥をすべて焼き尽くして主に献げます。これは焼き尽くすいけにえを携えて来た本人をすべて主に献げる献身を表します。

教会に来て礼拝を行うことは、自分自身をすべて主に明け渡して献げて聖別することです。私たちも教会に来て礼拝を行うことは、自分を聖別することです。教会には来るけれど、自分を明け渡して献げず聖別しないことは礼拝ではありません。礼拝には聖別が伴います。

聖別が起こらずに、自分が正しいと見なすことを行っていては、教会に来る意味がなくなってしまいます。逆に言えば、例え教会には来ることが出来ないとしても、その場所で自分を完全に献げているならば、それは正しい礼拝です。

会食のいけにえについては、レビ記3章にありました。会食のいけにえは、いけにえの一部は献げて、残りを献げた人が食べるいけにえです。これはこの後のことに繋がって行きます。献げ物は、十分の一の献げ物、手ずからの献納物、誓願の献げ物、自発の献げ物、牛や羊の初子です。

献げ物をなぜ献げるかと言いますと、それは献げ物を通してそれぞれが各自の信仰を表します。十分の一の献げ物、手ずからの献納物、自発の献げ物、牛や羊の初子等を献げる理由は、神が自分に与えてくださったことへの感謝のしるしです。

誓願の献げ物を献げる理由は、神が願いを叶えてくださることの信仰の表われです。いけにえと献げ物を携えて教会に行くことは礼拝を表します。

5、共に食べ、手の業を楽しむ

教会に行く二つ目のことは、「あなたがたの神、主の前で、あなたがたも家族も共に食べなさい。」です。一般的にも共に食べることはとても楽しいことであり、共に食べることは食べる人同士の親交を深めます。共に食べることはなぜ親交を深めるのでしょうか。

食欲は三大欲求の一つで、その強い欲求を満たす喜びを共にすることで親交を深めると言われます。デートで共に食べたり、接待でも共に食べます。一般的にもそうですが更に主に献げられた聖なる物を共に食べることは、主にある交わりとなります。これは聖餐式にも関わることになります。

今はまだコロナウィルスの問題があって愛餐会を行えない状況にありますが、共に食べる時が回復することを願います。共に食べることは主にある交わりを表します。

教会に行く三つ目のことは、「あなたの神、主が祝福してくださったすべての手の業を楽しみなさい。」です。「手の業」は申命記に多く使われている言葉で、仕事を含む広い意味で使われています。「楽しみなさい」と訳されている言葉は、「喜び祝え」という意味もあります。

教会で、すべての手の業を喜び祝えというのは、決して自分の仕事の成果を自慢するのではありません。主が祝福してくださったすべての手の業を喜び祝います。手の業を主が祝福してくださったとありますように、手の業が順調に進むのは主の祝福によります。

それを丸で自分の手柄のように自慢することはクリスチャンのすることではありません。主が祝福してくださったことを喜び祝えとは、主の業の証しを行うことです。子ども礼拝では毎週、証しの時間を持っていますが、教会は主がこのように祝福してくださったと証しをし合い、喜び祝う場所です。

支障が無い限りは主が御名をおかれる場所である教会を尋ね求めて来ましょう。そして聖霊に満たされて、心からの礼拝を献げ、主にある交わりをし、主の祝福の証しをしましょう。それが主が所有させる地で幸せに住み続けるために守り行い続けることです。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。今年度の歩みもここまでお守りくださり有難うございます。レントのこの時期に私たちがこれまでの歩みを振り返り、もしも偶像が入り込んでいることがあるなら、ことごとく破壊し消し去ってください。

そして御名がおかれる場所である教会で、聖霊による礼拝、交わり、証しを、守り行い、祝福の道を歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。