「互いに愛し合いなさい」

2023年4月2日礼拝説教 
ヨハネによる福音書 13章31~35節

       

主の御名を賛美します。

1、隣人を自分のように愛しなさい

今年は2月22日からレント、受難節に入りまして、今日からは受難週です。今年のカレンダーでは今週の金曜日の4月7日に、主イエスは私たちの罪の贖いのために十字架に付けられました。ヨハネによる福音書では13章からは、今日の聖書箇所を含めて受難週の木曜日のことです。

1節の小見出しには、「弟子の足を洗う」と付いていまして洗足木曜日と呼ばれて、最後の晩餐も行われた大切な日です。今日は先週に続き聖餐式も行われますが最後の晩餐のことも覚えたいと思います。今日の聖書箇所は主イエスが十字架に付けられる前の日のことですので、今年のカレンダーでは4月6日のことになります。

主イエスが弟子たちに教えを語る最後の告別説教は14章から本格的に始まって行きますが、今日の個所から始まっているとも考えられます。

主イエスは弟子たちに、「あなたがたに新しい戒めを与える。」と言われ、その新しい戒めとして、「互いに愛し合いなさい。」と命じられます。新しい戒めとして言われているということは、互いに愛し合うことは新しい戒めです。しかし新しい戒めということは、愛することについての古い戒めがあるのでしょうか。

マタイ22:37で、律法の専門家から「どの戒めが最も重要でしょうか。」と問われた主イエスは、第一は、「あなたの神である主を愛しなさい。」であり、第二は、「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われました。

第二の戒めの、「隣人を自分のように愛しなさい。」はレビ記19:18の御言葉ですので、これが古い戒めを指していると思われます。ただ主イエスがその古い戒めを全く同じ言葉で言われていますので、古い旧約の戒めが無効になった訳ではありません。

ただ旧約の「隣人を自分のように愛しなさい。」は、新約でも主イエスが言われたように全く同じ言葉ですが新しい意味と言いますか、説明が加わっています。「隣人を自分のように愛しなさい。」という戒めは新約時代に入る頃になりますと初めの御心から離れて、愛する必要のある隣人とは自分と同じ民族だけであるかのように、愛する隣人の範囲が狭められていました。

そこで主イエスは、ルカ10:25~37の「善いサマリヤ人」の譬えで、追い剝ぎに襲われた他の民族の人の世話をする善いサマリヤ人の例を上げて、隣人とは民族に関係なく心から憐れみをかけて愛する人であることを示されました。現代でも、世界中で助けを必要としている人が多くいる中で、私たちが愛して世話をする隣人とは誰であるのかを教えられます。

2、私があなたがたを愛したように

新しい戒めである、「互いに愛し合いなさい。」は大切な戒めですので、34,35節で3回言われます。私たちも大切なことは何とか理解してもらおうと思って何度も繰り返して言うものです。ただ同じことだけを繰り返しているのではなく、少しづつ新しい内容を加えて意味を深めて行きます。

2回目の、「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」には、その前に、「私があなたがたを愛したように」が加わります。「主イエスが弟子たちを愛したように」とは具体的にどのような愛し方なのでしょうか。

「新しい戒め」の小見出しが付いている今日の聖書箇所が、(ユダの)「裏切りの予告」の記事と、「ペトロの離反の予告」の記事に挟まれていることは、とても象徴的です。12弟子の内の二人であるユダの裏切りとペトロの離反を予告する主イエスの御思いはどのようだったのでしょうか。

3、ユダの裏切り

ところでユダはなぜ主イエスを裏切るのでしょうか。2節を見ますと、悪魔がユダの心に主イエスを裏切ろうとする思いを入れたのだから、人間であるユダには抵抗の仕様がなかったのではないかとも思えます。しかし問題はなぜ悪魔がユダの心に裏切ろうとする思いを入れたのかです。

悪魔は信仰的な人に突然に入って来ることは余りありません。ユダは金入れを預かっていて、その中身をごまかしていました(12:6)。悪魔は普段から悪いことをしている者の心に入って、悪魔の目的のために用いますので、悪魔に用いられないようにする必要があります。

更になぜユダはお金をごまかしていたのでしょうか。ユダは当時の多くの人々と同じように、救い主キリストはローマの支配からイスラエルを軍事的に開放する指導者と期待していたようです。自分の期待が裏切られて、主イエスはキリストではないとの思い込みから、お金をごまかすようになったと考えられています。

申命記12:8の「それぞれ自分が正しいと見なすことを行って」、自分の考えだけが絶対に正しいと思い込んでしまうと、自分の期待通りに物事が進んでいない時に、自己中心の思いになってしまい易いものです。

そうすると悪魔が悪い思いを心に入れて、悪魔の目的に用いられることがありますので注意が必要です。聖書は不完全な人間が考える正しさを追求しなさいとは言っていません。互いに愛し合いなさいと言っています。

4、栄光

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われました。「今や、人の子は栄光を受け、神は人の子によって栄光をお受けになった。」 この文章には戸惑いを感じます。普通は栄光というと、褒めたたえられて、高く上げられて、栄誉に輝くことです。しかしユダは主イエスを裏切るために出て行きました。

裏切られることがなぜ主イエスの栄光なのでしょうか。このことを12:23、24が説明していますのでお読みいたします。「イエスはお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。よくよく言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』」 

主イエスの言われる栄光とはご自分が死なれて多くの人に命をお与えになることです。父なる神もお独り子である主イエスを十字架に付けられて死に渡され、多くの人を救われますので人の子によって栄光をお受けになります。「しかも、すぐにお与えになる。」と言われた通りに翌日に実現します。

古い戒めは、隣人を自分のように愛することを求めましたが、新しい戒めはそれ以上とも言えます。それは愛する人に裏切られることを知っていても、尚も愛し通してその人のために自分の命を捨てて犠牲にし合うことです。

このことを15:12、13は説明して、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛は無い。」と言います。

主イエスの弟子たちの愛し方はご自分を犠牲にされてご自分の命を捨てることです。他にも主イエスが愛したように互いに愛し合うと言われる例はあるでしょうか。

5、足を洗い合う

「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と同じような文章が14節にありました。「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」です。「互いに足を洗い合う」というのはどういうことでしょうか。この当時の履物はサンダルのような物ですので、外を歩くと足は泥だらけになります。

私たちは泥だらけの足の人がいたらどうするでしょうか。あなたは足が汚れてますよと教えてあげるでしょうか。それとも、洗って綺麗にしてくださいと言って、せいぜい水を用意してあげる位でしょうか。主イエスは、互いに足を洗い合うべきであると言います。

それは日本的な言い方をすれば、「尻拭いをし合う」と言うようなことでしょうか。他の人の失敗や不始末を指摘して責め合うのではなくて、自分の手を汚して、自分を犠牲にして後始末をします。互いに愛し合うとは、互いに足を洗い合うことです。互いに足を洗い合うことの大切さを名前にして、洗足学園と学校名にしているとこともあります。

主イエスはユダもペトロもご自分を裏切ることをご存じでした。それでも最後まで愛し抜かれました(1節)。それが主イエスがあなたがたを愛したようにということです。しかし私たち人間としては、自分を裏切ろうとしている人や、過去に自分を裏切った人をどうして愛する等ということが出来るのだろうかと感じます。

しかし、「正しい者はいない。1人もいない。」(ローマ3:10)とありますように、すべての人は罪人で正しい人は1人もいません。もしも自分を裏切る人を憎んでいたら、すべての人を憎んで誰も愛せなくなってしまいます。私たちは罪自体は憎みますが、罪を犯してしまう人は愛します。

罪自体とそれを犯す人は分けて考える必要があります。それは、「罪を憎んで人を憎まず」ということです。罪を犯してしまう人は愛して、罪を犯す人を愛することによって悔い改めへと導きます。ただこのことは、いくら理屈として理解して願ったとしても人の思いだけで出来ることではありません。

それは私たちが罪を持つ罪人であるからです。しかし主イエスはすべての人の罪を背負って、今週の金曜日に十字架に付かれて私たちを贖い、主イエスを信じる者をその罪の力から解放してくださいます。マタイ22:37で主イエスが最も重要な戒めの第一は、「あなたの神である主を愛しなさい。」と言われた通りに、第一に私たちを救ってくださる主を愛する必要があります。

6、私の弟子であることを皆が知る

3回目の、互に愛し合うことについて、「それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。」と言われます。主イエスは、なぜこのようなことを言われたのでしょうか。それは、7:34でユダヤ人たちに言われたように、『私が行く所にあなたがたは来ることができない』からです。

その理由は、7:33の、主イエスはご自分を遣わした方のもとへ帰られるからです。主イエスはこの世では見えなくなりますが、主イエスの戒めを守ることによって皆が主イエスの弟子であることを知るようになります。

主イエスは天に帰られて神の右に座しておられます。しかし主イエスは14:18で、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。」と約束された通りに私たちを独りぼっちにはさせません。14:16の今年度の御言葉の通りに、父なる神にお願いをしてくださり、主イエスを信じる者には聖霊を遣わしてくださいます。そして聖霊によって私たちを互いに愛し合う者とされます。

私たちは互いに愛し合うことによって、主イエスの弟子であることを証しし続けていただきたいと願います。私たちは聖霊の力によって互いに愛し合う者とされます。主イエスを信じて、主イエスが私たちを愛されたように、聖霊によってお互いの罪を赦し合い、仕え合い、愛し合って、主イエスの弟子であることを証しさせていただきましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。新しい戒めとして、互いに愛し合いなさいと言われます。

そのように願いつつも私たちの中には愛はありません。しかしあなたが私たちを愛し、主イエスの十字架の贖いによって私たちの罪を赦し、愛を与えてくださいますから有難うございます。

あなたが遣わしてくださる聖霊によって私たちが互いに愛し合い、主イエスの弟子であることを証しさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。