「レビ人と共に」

2023年4月16日礼拝説教  
申命記 12章8~19節

        

主の御名を賛美します。

1、自分が正しいと見なすこと

モーセは前回の1~7節で、主の約束のカナンの地で守り行うべき掟と法を語り始めました。まずは偶像礼拝に関わるものをことごとく破壊し、消し去り、宮きよめをします。そして主の名が置かれる場所に、いけにえと献げ物を携えて行き、共に食べ、主の祝福の手の業を楽しむことが命じられました。

今日の聖書箇所を読み、または聞いて何かお気付きになることはありますでしょうか。それは明らかに、8~12節が1段落、13~19節も1段落で、ほぼ同じ内容が繰り返されています。更に前回を振り返ると1~7節ともほぼ同じ内容です。ほぼ同じ内容を3回語りながら、段落毎に少しづつ新しい内容を加えて、しっかりと覚えるようにと考えられているようです。面白い文章であると思います。

8節の文章は少し意味の分かり難い訳です。イスラエルが今日ここで行っているのは、自分が正しいと見なすことを行っているのか、いないのか、どちらでしょうか。新改訳では、「あなたがたは、私たちが今日ここでしているようにしてはならない。それぞれが自分の目にかなうことをしている。」です。

これは今は荒れ野での移動しながらの生活で、今はまだ主の命令通りに実行出来ないことも、ある意味で仕方がない部分もあります。主が与えられる相続地にまだ入っていないからです。しかし約束の安住の地が与えられて、安らぎが与えられますので、その時にはきちんと行いなさいという意味のようです。

このことは第一段落の2、3節では、偶像礼拝に関わるものをすべて消し去ることであり、第三段落の13節では、「自分のよいと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げないように気をつける」ことです。どうして、自分のよいと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げることが起こったりするのでしょうか。

これからイスラエルはカナンの各地に散らばって行きますので、幕屋の置かれる場所は地理的に遠くなる部族もありまして、焼き尽くすいけにえを献げるために幕屋に来ることは出来なくなる部族もいます。因みに幕屋はエフライムのシロに初めは置かれます(ヨシュア18:1、地図3:F3)。

そこで、主があなたの一つの部族の中に選ばれる場所で、焼き尽くすいけにえを献げ、私が命じることをすべて行いなさい、と命じます。焼き尽くすいけにえはすべてを焼き尽くしますので、焼き尽くすいけにえを献げることは、いけにえを献げる本人のすべてを献げる献身を表します。

まだ教会に通い初めたての頃に、「罪」の元々の意味は「的外れ」であるということを聞いた時には違和感を覚えました。平均的な日本人であると自負する私は、罪とは法律に違反する悪いことをすることだと思っていたからです。しかし最近は、罪とは的外れという意味が分かるようになって来ました。

主は主の目に適う正しいことを行うことを望んでおられます(25節)。しかし主の目に適う正しいことを行うのではなく、自分が正しいと見なすことを、丸で自分が良いと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げるように、熱心に行っているようなことを見聞きすることがあります。

ローマ10:2、3は、「正しい知識に基づかない熱心さは、自分の義を求めて、神の義に従わない」と言います。熱心であることは一つの美徳であると思いますが、その熱心さの的が外れていると、それは返って罪となってしまいます。

自分の行おうとすることが、自分が正しいと見なすことではなく、主の目に適う正しいことになるように、聖霊の導きを求めましょう。私も先週の説教で、ディズニー・イースターのイベントが今年もあるとお話してしまいましたが間違いでした。午後に教えてくれた人がいました。

3月に、「ディズニ・リゾートー」で検索した時には載ってなかったのですが、先週の説教の前日に今度は、「ディズニー・イースター」で検索したところ、出て来たのでお話したのですが、後で確認したところそれは昨年の記事でした。

2、いけにえと献げ物

いけにえと献げ物については、1回目は6、7節、2回目は11、12節、3回目は17、18節です。3回ともほぼ同じような内容ですが、少しづつ新しい内容が加わっています。前回の内容で、主が名を置かれる教会に、いけにえと献げ物を携えて行くことは、献身と感謝を表す礼拝であることをお話しました。

今回、いけにえと献げ物について加わっている新しい内容は2つあり、1つ目は、主に誓った最良の誓願の献げ物です(11節)。これは説明するまでもなく、主に何かを誓うのであれば、何か劣った物ではなく、最良の誓願の献げ物を献げるでしょう。

2つ目は、それらの献げ物を自分の町で食べることはできない(17節)ことです。これも当然と言えば当然のことで、焼き尽くすいけにえを、自分の良いと思う場所で献げてはいけないように、主の選ぶ場所で、それを食べなければなりません。自分が正しいと見なすことを行ってはなりません。

今日の聖書個所の書き方を見ていると色々と考えさせられます。1~7節の1度目の文章を読むと、確かに最もな内容だと思わされます。ただ最初から何から何まで全てを一度に言われると受け止めることが難しいこともあります。

しかし1度目は大まかな受け止め易い内容を伝えてまずは相手に受け止めてもらいます。そして、同じ内容を2回、3回と繰り返してゆく中で、少しづつ引っ掛かり易い内容や、細かいことを伝えてゆくことは、聞き手に受け止めてもらい易くするための一つの知恵なのかも知れません。

3、男女の奴隷も共に

教会に行く2つ目のことは、あなたがたも家族も共に食べる交わりのためです。そして3つ目は、主が祝福してくださったすべての手の業を楽しむ証しのためです。前回、その交わりと証しで言われたことは家族が共に食べて証しをすることでした。

息子と娘と共に家族が共に食べて証しをすることについては、ほとんどの人は反対意見はなく、受け止め易いと思います。しかし今日の2回目、3回目では、食べる交わりと楽しみの証しには、まずは男女の奴隷も共にです。

申命記が書かれたのは今から3千年以上も前のことで、その時に男女の奴隷も共に楽しむことが命じられていることは画期的なことだと思います。それは奴隷も神によって同じ神のかたちに造られた人間であるからです。

現代の世界では制度的には奴隷は存在しないことにはなってはいると思います。しかし実質的には多くの問題があります。経済的に貧しい国の人が先進国に出稼ぎや移民、難民のようなかたちでいる場合には、ある意味で奴隷と似たような部分がある場合があります。また発展途上国では労働者が奴隷のような状況に置かれている場合もあります。

世界中で貧富の差は増々、拡大傾向にあると言われていて、このような問題は日本国内にもあることです。日本は以前は全体としてある程度は、経済的には豊かさがあったように思われますが、段々と厳しさが増して来ているようで、それと同時に他者を思い遣る心の余裕も失われているようにも感じます。

そのような中で、順番としてはやはり初めは、主イエスが最も重要な戒めとして言われた、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」です。この最も重要な戒めの通りに、聖霊の導きによって、いけにえと献げ物を献げる礼拝を通して、まずは、すべてを尽くして主を愛します。

そして主を愛し、礼拝を通して更に聖霊の力をいただいて、第二の戒めである、現代の奴隷のような厳しい状況に置かれている、隣人を自分のように愛します。

4、レビ人と共に

そして奴隷だけではなく町の中にいるレビ人も、あなたの神、主の前で、あなたのすべての手の業を楽しみなさいと命じます。イスラエルはなぜレビ人の世話をする必要があるのでしょうか。それは、レビ人にはイスラエルの他の部族のような割り当て地や相続地がないからです。

主に仕えるレビ人の相続地は主ご自身であるからです(民数記18:20)。イスラエルが主に献げるものの内の一部は規定によってレビ人のものとなります。主が定められた規定は守る必要があります。イスラエルの霊の糧のために仕えるレビ人に対して、イスラエルは肉の糧をもって仕えます。

これはどちらが上下ということよりも、それぞれが自分に与えられた役割を果たします。モーセ自身もレビ人ですが、イスラエルは神がモーセを通して語ることにも従いません。それぞれが自分が正しいと見なすことを行って、モーセにはつぶやいてばかりいます。

それは同じレビ人でモーセの兄弟であるミリアムとアロンも時には同じでした。モーセはイスラエルが

レビ人に仕えることが如何に難しいかを身をもって良く知っていました。そこで、「あなたは、この地で生きているかぎり、レビ人を見捨てないように気をつけなさい。」と命じます。主が立てたレビ人に仕えることは主に仕えることと同じことです。

茂原キリスト教会は昨年度に70周年を迎えて、その内の一つとして記念誌を発行しました。千葉教区の中の他の教会でも同じように、何十周年という年数は違いますが同じように十年単位の記念の年を迎える時に記念誌の発行等をすることが多いようです。

千葉教区には15の教会がありますので、平均すれば毎年1つ以上の教会が記念の年を迎えることになります。そうしますと記念誌に載せますお祝いの文章の依頼が来ます。私は信徒の時代を含めれば2000年から一応は千葉教区にいますが、信徒の時代は他の教会のことは全くと言って良いほどに知りませんでした。

その教会がどのようなところを通って来たのかといった過去の歩みを知らずに、記念のお祝いの言葉を無責任に書く訳にはゆきませんので、書き始める前にその教会の歩みを知るために過去の記念誌を読んだりします。幸いなことに、これまでに書いてきた教会へのお祝いの言葉は、自分の気持ちに素直に心から祝う気持ちで書ける、書き易いものでした。

それはそれらの教会は、開拓から始められた牧師が隠退するまで奉仕を続けてこられた教会であったからです。隠退が近付きつつある頃には、牧師の年齢による衰えや弱さによる難しい問題もあるようなことを聞くことがありました。果たしてどうなって行くのだろうかと考え込んでしまうこともありました。

しかしそれらの教会は現代のレビ人とも言える牧師を見捨てることなく、隠退するまで最後まで支え続けました。私自身も自分の両親の高齢による衰えや弱さが出て来た時に、本当にこれは綺麗ごとだけでは済まない大変なことであると痛感しました。

それらの教会は人の思いを越えた信仰によって牧師を支え、教会が一致して協力する歩みをしているように感じました。そこには皆が主イエスの十字架の贖いによって救われて、主イエスを頭とする一つの体であり、互いに配慮し合うキリスト教会という信仰を感じました。

ある意味で忍耐を必要とするような期間を歩む教会は、教勢等の数量的な意味での成長は見られないかも知れません。しかし冬のような期間を通ることによって教会は質的に成長して成熟します。弱い人を受け入れて支えて、皆で協力することを学びます。

そこを通らなければ学べないことがあり、そこを通って初めて次の成長が出来ることがあります。それらの教会が今、御言葉の約束のとおりに祝福されていることを本当に嬉しく思います。それはまた御言葉に忠実に従う者を主は祝福されるという御言葉の真実です。

「主が祝福してくださったすべての手の業を楽しみなさい」というのは、主の業を証しすることです。千葉教区の教会が御言葉に忠実に歩み祝福され、御言葉に忠実に歩む者は祝福されることを証しする教会であることを祈ります。

男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も共に楽しむことは、そのこと自体をとおして証しをすることです。主イエスは、「最も小さい者の1人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:40)と言われます。主が命じられた人と共に歩むことは主と共に歩むことです。聖霊の導きによって、主と共に歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはイスラエルに対して家族は勿論、男女の奴隷もレビ人も共に楽しみなさい、と命じられます。私たちは理屈では分かっていても、隣人に対して思い遣りの足りない者です。私たちがあなたの愛を覚え、あなたの愛に応えて聖霊の導きによってあなたを愛し、隣人を愛する者とさせてください。

そして御言葉に従う喜びと祝福に与り、御言葉を証しする者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。