「主の目に適う正しいこと」

2023年4月23日礼拝説教  
申命記12章20~28節

        

主の御名を賛美します。30年位前に英国に行って、ブラック・プディングという食べ物を知った時には驚きました。ブラック・プディングは豚の血を腸詰にしたソーセージのような物で、キリスト教国である英国で、朝食のメニューとして有名です。

初めにブラック・プディングのことを知った時には、よりによって旧約聖書で禁じられている豚と血の組み合わの物をわざわざ作らなくても良いのではないかと思いました。ユダヤ教徒やイスラム教徒にとっては最悪の食べ物だと思います。しかしヨーロッパ各地のキリスト教国に似たようなソーセージがあります。

1、肉を食べることについて

12章から律法の具体的な内容に入りまして、今日は表面的な内容としては肉を食べることについてですが、それを通して大切なことを命じます。前回の15、16節にも肉を食べることについての内容がありましたが、今日の個所で詳しく語られていますので前回は触れませんでした。

モーセは初めに、「あなたの神、主があなたに告げられたとおり、あなたの領土を大きくされるとき、あなたが心行くまで肉が食べたいと思うなら、食べたいだけ肉を食べることができる。」と言います。これは決して、「そんなに肉が食べたいなら好きにして勝手に食べなさい」と投げ槍な言い方をしている訳ではありません。

先月に創世記1章から説教を取り次がせていただいたときに、アダムとエバが原罪を犯す前は人を含めた全ての動物が植物だけを食べる草食で、天国でもそのように戻ることをお話しました。そうしますと、この世で肉を食べることに何か後ろめたさのようなものをもしかすると感じさせてしまったかも知れませんが、そのような必要は全くありません。

この箇所を直訳すると、「あなたの魂が肉を食べることを欲するなら、あなたの魂のすべての欲求で肉を食べよ。」と言えます。肉の好きな方はご安心ください。主は人間の好みを良くご存じですので、そのとおりに食べて大丈夫です。18、19節の、「食べて、あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、町の中にいるレビ人も楽しむ」ためには、食べたい肉を心行くまで食べて魂を満たして大丈夫です。

肉は、どこで、どの肉を、誰が、どのように食べることが出来るのでしょうか。まずは場所についてですが、「あなたの神、主がその名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、主が与えられた牛や羊を屠り、自分の町で、心行くまで食べることができ」ます。

主に献げる物は、主がその名を置かれる場所に持って行きますが、そうでない物は自分の町で食べることができます。ガゼルや鹿は主への献げ物にはなりませんが食べ物としては食べられますので、牛や羊も同じように自分の町で食べられます。

食べることができる人は、清くない者も清い者も共にです。ここで清いというのは倫理的、道徳的な意味ではありません。倫理的、道徳的に、あなたは清くないので食べられない、あなたは清いので食べられるとしたら、大変な問題になってしまいます。

ここの清い、清くないは儀式的な意味で、清くない者はレビ記7:21で、「人の汚れ、汚れた動物、あるいは汚れた忌むべきものなどの汚れに触れた者」と定義されています。ここで言っている肉は主に献げられた会食のいけにえではなく、ただの食べ物ですので誰でも食べられます。

2、血

肉は心行くまで食べることができますが一つだけ条件があります。それは、ただ、その血は決して食べてはならないことです。その理由は血は命であるからです。血は命というのはどのような意味でしょうか。「血」という言葉は聖書に約460回出て来ますが、その内の約360回は旧約聖書です。

旧約聖書で血は2つの意味で使われて、1つ目は「暴力による死」を表します。

創世記9:5で神は、「あなたがたの命である血が流された場合、その血の償いを求める。」と言われます。血は命ですから、血を流すことは命を落とすことで死を意味します。命は神が与えられるものですから、神が与えられた命を人が奪う殺人は禁止されます。

血の2つ目の意味は「神聖な命」です。そのために罪を犯した人の身代わりとして、動物の血はいけにえとして用いられます。命は神に献げられますので、人は肉は食べられますが、命である血は食べられません。26、27節にあるとおりです。

血は液体ですので普通であれば、「飲んではならない」と言うと思いますが、ここでは、「食べてはならない」と言うのは少し奇妙な感じがします。恐らくこれは血を飲むということを想定はしていなくて、肉を食べる時に血も一緒に取ることを考えて、「食べてはならない」と言っているようです。

命である血は肉と共に食べてはなりませんと、23~25節で4回言って強調しています。では血はどうするのかと言いますと、水のように地に注ぎ出さなければなりません。このことは16節でも言われています。ユダヤ教徒は現在もカシュルートという食べ物の規定に従って処理をした物を食べています。

3、主の目に適う正しいこと

「血を食べてはならない」という禁止事項には、「そうすれば、あなたとあなたの後に続く子孫は幸せになる。」という約束が付いています。25~28節は中心構造になっていて前後の内容が対称になっています。更に、「必ず主の目に適う正しいことを行いなさい。」と命じます。なぜこのようなことを命じる必要があったのでしょうか。

イスラエルはエジプトに430年間、滞在していました。テレビ等でエジプトの番組を見ると、太陽神であるとか、色々な動物の姿をした神々といった偶像の神が沢山出て来ます。イスラエルも色々な影響を受けていたと思われます。そしてこれから進んで行くカナンの地にも2、3節にありましたように偶像の痕跡が沢山あります。

それらの中には血に関わるものもありました。血は命であるという考え方はある意味で同じですが、そこから血を食べることによって、その血の動物の霊が宿ってその力に与れると考えたようです。例えば、ライオンの血を食べれば、ライオンの霊が宿って強い力に与れるといったような意味でしょう。

日本でも同じ発想からかスッポンやまむしの生き血を飲むことがあります。何か栄養学的な意味があるのかも知れません。しかしその血の生き物の力に与るという発想は明らかに偶像であって主は禁止されます。やはり人間が考えて正しいと見なすことを行うのではなく、主の目に適う正しいことを行う必要があります。

自分が正しいと見なすことを行うときには、自分の思いを遂げることが出来るというある種の満足感は得られるかも知れません。しかしそれは主にある本当の幸せにはなりません。主にある本当の幸せになりたいと願うなら、主の目に適う正しいことを行う必要があります。

自分が今、得ようとしているものは単なる自己中心的な自己満足であるのか、主にある本当の幸せであるかは聖霊が示してくださいますので、聖霊に素直に従いたいものです。自己満足だけを求め続けていると聖霊の示される感覚も分からなくなって行ってしまいますので注意が必要です。

そして幸せは自分だけのことではなく自分の後に続く子孫の幸せのためです。まず自分が主の目に適う正しいことである、聖書の御言葉の忠実に歩むことによって、幸せになっている姿を子孫に見せて証しをします。

そうすれば、子孫はやはり御言葉は真実であるという強い確信を持って、主の目に適う正しいことを行ってゆくでしょう。主の目に適う正しいことを行うのではなく、自分が正しいと見なすことを行うことを子孫に見せることは、子孫を間違った方向に導き、不幸せに陥れることになります。自分の生き方は子孫にも大きな影響を与えます。子孫に対して敢えて自分が反面教師の姿を見せる必要はありません。正しい良い見本だけを見せれば良いのです。

4、聖餐式

今日の聖書箇所では、「血を食べてはならない」と繰り返されていましたが、皆さんは血を食べることについて、どのようにお考えでしょうか。実はクリスチャンにはなると、血を食べる必要が出て来ます。それは私たちの救い主、イエス・キリストがマタイ26:27、28で命じておられるからです。

「また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与え、言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くに人のために流される、私の契約の血である。』」 聖餐式において、私たちは主イエス・キリストの血に与ります。それはどのような意味があるのでしょうか。

先程、血は暴力による死を表すとお話しました。私たちが聖餐式で主イエスの血に与ることは、主イエスが私たちの罪のために十字架に付けられて死なれた、その十字架の死に与ることです。罪に死ぬことです。しかしそこで終わりではありません。主イエスは十字架の死から3日目に甦られました。

主イエスの血に与ることは、主イエスの血であり命である、甦りの命、永遠の命に与ることです。私たちは主イエスが十字架で血を流されて、3日目に甦られたことを知っています。そしてそのことを記念して聖餐式を行うことを2千年間、続けて来られたことを知っていますので、キリスト教の伝統としての聖餐式を受け入れ易い部分もあると思います。

しかしユダヤ人にとってはどうだったでしょうか。今日の聖書箇所のように、「血は決して食べてはならない。」と旧約聖書では繰り返されています。ヨハネ6:55で主イエスが、「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」と言われたことに対して、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。』」(ヨハネ6:60)

その結果、弟子たちの多くが主イエスにつまずき、離れ去り、共に歩まなくなりました(ヨハネ6:66)。その時の弟子たちの気持ちも分からないではありません。普通に考えると、「血は食べてはならない。」と先祖代々からずっと聞かされて来たのに、いきなり「私の血はまことの飲み物」と言われたら、何を言っているのだろう、ひどい話だ、と言ってしまいそうです。

自分がもしその時の弟子であったとしたら、どうだったのだろうかと思うと考えさせられます。つまずかなかったという自信はありません。本当にいつでも、自分が考えて正しいと見なすことを行うのではなく、聖霊の導きを求めて、主の目に適う正しいことは何であるのかを慎重に見極めて行く必要があります。

5、血を食べること

今日の聖書箇所を読むと単純な疑問が浮かびます。それはこの当時は明らかに血を食べてはならないことは分かりますが、現代においてはどうなのでしょうか。しかしこの疑問は果たして1週間の説教の準備でお話出来るようなことなのだろうかとも考えました。

それは少なくとも数週間位は掛けて、色々な資料等を調べて書く論文レベルの話のようにも思えました。しかし今日の聖書箇所が与えられたことも一つの導きと信じて少しお話させていただきたいと思います。注解書やネットの記事でもこのことについて書いてある物はほとんどありませんでした。

まず聖書は原則として、物質的なことを教えているのではなく、霊の糧を与えるものです。先程、聖餐式では主イエスの血に与ることをお話しました。しかし聖餐式では霊的な意味で主イエスの血に与りますが、物質的には明らかに葡萄液です。

ただ血は命であるので、私たちは他の血の命に与ってはならず、私たちが血の命に与って良いのは永遠の命である主イエスの血だけです。聖餐式の葡萄液は物質としてはただの葡萄液ですが、霊的な意味では主イエスの血であって、そこには霊的な祝福が伴ないます。

では物質としての他の動物の血を食べることはどうなのでしょうか。これは他の食べ物の規定等も同じですが、禁じられる食べ物は食べるための物質として何か良くないという理由ではないようです。霊的な意味として神の民に相応しくないという理由です。

また他の民と異なる食べ物の規定を作ることによって、食事を共にする等の交わりを持たせずに、宗教的な純粋さを保たせて、異教の影響を断つのが目的だったようです。旧約の時代には、まずは祝福の基として選ばれたイスラエルだけの救いに焦点が当たっていましたが、主イエスの十字架の贖いによって救いは全ての人々のためとなりました。

それに伴って他の民族と交わるためにも、使徒言行録10:15で食物規定が廃止されて全ての物が食べられるようになりました。私が知る限り日本を含めてほとんどの国で、食肉を解体する時には基本的に血抜きをします。そうでないと肉に臭いが付いたり、鮮度が落ち易くなってしまうからです。

肉にも細い血管等がありますので多少の血は付いているかも知れませんが、それは当時と比べても問題にならないレベルだと思います。日本人は刺身も食べますが、刺身にする魚も基本的には血抜きをしています。更に聖書で血を食べてはならないと命じているのは基本的に動物と鳥の血であって、そもそも魚は対象になっていません。

ですので刺身を食べる時には何も気にする必要はありません。ステーキを食べる時に、血を気にしてレアではなく、ウエルダンにして良く焼こうという考えもあるかもしれませんが、血は焼けば良いとは言われてはいないので、焼き方は全く関係が無いようです。

色々と考える中で、聖餐式で主イエスの血を飲むことを命じられたことも合わせて考えると、動物の「血をたべてはならない」という規定も廃止されたのではないかと考えられます。しかしレビ記3:17の、「これはあなたがたがどこに住もうとも、代々にわたって守るべきとこしえの掟である。脂肪も血も決して食べてはならない。」は気になるものです。

ただこのこともⅠコリント8章の、偶像に献げた肉を食べることの問題と同じで、血を食べるのが正しいか正しくないかではなく、同じ信仰を持つ者でもそれぞれの感覚によって違いますので、それぞれの立場を尊重する必要があります。

北極地方に住むエスキモーのエスキモーという名前は生肉を食べる人という意味で、血を含めて生肉を食べることで植物の少ない北極地方でビタミンを補給していると言われています。初めにお話ししたブラック・プディングは後になって考えると、神から与えられた動物の命を犠牲にしたのなら、血の一滴迄も無駄にしないという逆にクリスチャンらしい精神を感じます。いずれにしても自分が正しいと見なすことを行うのではなく、聖霊の導きによって、主の目に適う正しいことを求める必要があります。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たち人間の知識や考えでは、あなたの御言葉をすべて理解するのは時に難しいことがあります。そのような時にも、私たちが聖霊の導きに従って、自分が正しいと見なすことを行うのではなく、主の目に適う良いこと、正しいことを求め、行う者とさせてください。

そして私たちも後に続く子孫もいつまでも幸せになることが出来ますようにお導きください。

主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。