「主の目に適う正しいことを行う」

2023年5月7日礼拝説教  
申命記13章7~19節

        

主の御名を賛美します。現代は色々な情報が溢れて情報化社会と言われています。情報化社会という言葉は、1990年代半ば以降に、インターネットや携帯電話の普及によって使われ始めましたので30年近く経っています。しかし溢れる情報に流されずに真実を見極めることは大変なことです。

私の印象に強く残っていることは、1991年のソ連崩壊です。その1年半後にロシアに行く前は、ロシア国民は共産党の1党支配から解放されて自由になって喜んでいるとばかり思っていました。しかし実際に現地に行って見ると、ロシアは自由になったのではなくて無法地帯となっていました。

現地の人たちはソ連時代は秩序が保たれていて良かったと昔を懐かしんでいました。日本で聞く話とは随分と違うように思いましたし、日本で聞いていた話は何だったのだろうと思うようになりました。

1、身近な者

13章には、イスラエルの中に「さあ、あなたの知らない他の神々に仕えよう」というようなことを言う3種類の人間が現れると言います(3、7、13節)。1種類目は、前回の預言者や夢占いをする者です。私たち人間は将来のことについて、とても関心を持っていますが、それらの者は人間の理性では知り得ないことを語ります。

更に、しるしや奇跡が実現しますが、それらの者は最終的には主に背くように語り、主の道から外れるように仕向けますので罠に陥らないように気をつけ、悪を取り除く必要がありました。

今日の2種類目は、同じ母から生まれた兄弟、息子か娘、愛する妻か無二の親友です。血縁的に繋がりがあったり、そうでは無くても無二の親友という自分にとってとても近い関係の人です。イスラエルという同じ信仰の共同体の中から、「知らない他の神々に仕えよう」等という不届きなことを言う者が出て来るのでしょうか。

それは現代で言うと、同じ教会の中から出て来るということです。それは異端の者たちを指しているのでしょうか。異端も含まれますが異端というと、かなり少数の者だけの特殊な例のような感じもします。自分の身近な者が、「他の神々に仕えよう」と言うような具体的な例が聖書にあるのでしょうか。

実際の例として、アダムが原罪を犯したのは、主が食べることを禁じられた善悪の知識の実を、妻のエバによって与えられて食べたことによります。アダムの肩を持つ訳ではありませんが、夫は自分の妻が用意した食べ物を信頼して食べるものです。

エバはこの時に果たして、「他の神々に仕えよう」としたのでしょうか。創世記3:6は、「女(エバ)が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また賢くなるというその木は好ましく思われた。」と言います。エバは蛇の言葉に騙されて罠に陥ってしまった可哀そうな部分は確かにあります。

しかし、エバは主の目に適う正しいことを行うのではなく、自分が正しいと見なすことを行って(12:8)しまいました。エバは結果として善悪の知識の実を食べてはいけないという主の命令よりも、賢くなるのに好ましいという自分の考えを優先してしまいました。主の命令よりも優先するものは全て偶像です。エバは主を神とするのではなく、結果として自分の考えを神としてしまいました。

聖書に他の例はあるでしょうか。他にも色々ありますが、もう一つだけ挙げます。主イエスがご自分は人々によって殺され、三日目に復活することを弟子たちに教え始められました。すると、ペトロは主イエスをいさめ始めて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」(マタイ16:22)と言いました。

それに対して主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。」(マタイ16:23)と言われました。私たちはペトロが主イエスに言った気持ちは良く分かります。しかし主の御言葉を否定して、自分の考えを優先させることは偶像礼拝です。

「あなたはその者に同調したり、耳を貸したりしてはならない。そのような者に憐れみの目を向けたり、同情してかばったりしてはならない。」のです。私たちはどんな時でも聖霊の導きを求めて、自分が正しいと見なすことを行ってはならず、いつも主の目に適う正しいことを行う必要があります。そのためには悪を取り除く必要があります。

2、よこしまな者

3種類目は、あなたの神、主が、あなたに与えて住まわせる町の一つで、あなたの中から出る、よこしまな者です。「よこしまな者」というのはどのような者のことでしょうか。「よこしまな者」は原語では、「ベリアルの息子たち(複数)」と書かれています。

「ベリアル」は「ベリ(無)」と「アル(ヤアル、益)」を合わせた言葉で「無益」の意味と考えられます。聖書でベリアルはⅡコリント6:15で、「キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信者と不信者とにどんな関係がありますか。」と出て来ます。

そしてこの、よこしまな者は何をするのでしょうか。「さあ、あなたがたが知らない他の神々に仕えよう」と言います。これまでの2種類の者たちは、「あなたの知らない」と言って、一人をターゲットにして主に背くようにしていましたが、よこしまな者は町の住民、つまり一度に複数の人を惑わせます。

惑わせるということは、無益なだけではなくて有害です。イスラエルの歴史でそのようなことはあったのでしょうか。イスラエルが2章でヘシュボンの王シホンと3章でバシャンの王オグのオグ・シホン・コンビに打ち勝って絶好調の時に、民数記25章でペオルでモアブの娘たちと淫らなことをしました。

そのようなことを始めたよこしまな者がいたということです。そのために疫病で二万四千人が死にました。やはり悪は取り除く必要があります。しかしこの時のイスラエルは悪を取り除くことの命令に葛藤を覚えたことと思います。

それはなぜかと言いますと、イスラエルはこれから巨人の先住民の住むカナンの地に入って行って、追い払う必要があります。そのためには一人でも多くの戦力が欲しいと思うもので、猫の手も借りたい気分でしょう。イスラエルにとっては、例えよこしまな者でも手元に残しておきたいのが本音でしょう。

しかし主は、「あなたは必ずその町の住民を剣で打ち殺さなければならない。その町とそこにあるすべてのもの、家畜も剣で滅ぼし尽くしなさい。」と命じられます。主はイスラエルの思いも全てご存じですので、「そうすれば、主はその燃える怒りを収め、あなたに憐れみを与え、先祖に誓われたとおり、憐れみをもってあなたの数を増やしてくださる。」と約束してくださいます。

3、サドカイ派とパリサイ派

このことは現代の問題としてどのように考えることが出来るのでしょうか。よこしまな者に教会全体が惑わされるようなことが起こるのでしょうか。確かに教会全体が異端の者に惑わされてしまうこともあります。その場合はとても深刻な問題となりますが、それはある意味で特殊な例かも知れません。

もう少し一般的な例はあるでしょうか。主イエスがこの世に遣わされた約2千年前の神の民はユダヤ人でした。当時のユダヤ社会は階層的に見ますと、一番上が神殿運営に携わるサドカイ派の人たちで、貴族や豪族が属しています。

そして二番目が会堂運営に携わるパリサイ派の人たちで、律法学者や中産階級の人たちが属しています。後は少数派を除けば庶民たちで、ユダヤ社会はサドカイ派とパリサイ派の人たちが宗教を含めて全てを牛耳っていました。宗教の知識も権威も全てをサドカイ派とパリサイ派が持っています。

彼らは宗教の権威者として、主の目に適う正しいことを行っていたのでしょうか。聖書を見ますと、とてもそのようには見えません。父なる神によってこの世に遣わされた御子イエス・キリストの言われることを全く聞こうともしません。それはなぜなのでしょうか。

それは、主の目に適う正しいことを行うよりも、自分が正しいと見なすことを行おうとするからです。サドカイ派とパリサイ派は、ユダヤ社会で権威と地位を持ち、御心よりも自分たちにとって都合の良い習慣や決まりを勝手に作り上げて来ました。

人間は残念ながら神の真実よりも、自分の既得権益や社会的地位を守ることに熱心になり易いものです。更に質の悪いことには、自分が正しいと見なすことを行うことが正義であると思い込んでしまいます。本来は神の民を導くはずの宗教の中心人物たちがよこしまな者となり、ユダヤ人社会全体がよこしまな者に完全に牛耳られてしまっていました。

それは遂には御子イエス・キリストを十字架に付けて殺すことまで行ってしまいました。本来ならば、このような者たちは滅ぼされなければなりません。しかし憐れみ深い主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)と執成されました。

御子イエス・キリストは全ての人の贖いとして十字架に付けられました。それにより主イエス・キリストを信じる者の罪を赦して救うためです。そしてクリスチャンは聖霊の導きに従うなら、主の目に適う正しいことを行う者へと変えられて行きます。

4、主の目に適う正しいことを行う

それでは現代のキリスト教会は、皆が主の目に適う正しいことを行っているのでしょうか。そのようにありたいと願いながらも、残念ながら、そのようにはなってはいない現実があります。それは主の目に適う正しいことを行っていると思いながら、自分が正しいと見なすことを行っていることがあるからです。

これは人類が誕生してからずっと続いている永遠の課題と言えます。使徒パウロも、初めはクリスチャンは異端であると信じて熱心に正義感に燃えて迫害していました。しかし使徒言行録9章で主イエスが出会ってくださり、正しい道へと導かれました。主は熱心に求める者を決して放ってはおかれません。

主は必ずお応えになってくださいます。問題はその時にパウロのように主に素直に従うかどうかです。現代のキリスト教会にとって2030年問題は影響はありますがそれ程の深刻な問題ではありません。クリスチャンが高齢化するというだけのことです。

それよりも大きな問題は、クリスチャンが主の目に適う正しいことを行うのではなく、それぞれ自分が正しいと見なすことを行うことです。それは二千年前のサドカイ派とパリサイ派と同じ行いであり、そのために十字架に付かれた主イエスの十字架を否定し、キリスト教会を否定する行いです。

教会によこしまな者が出てきたら、よこしまな行いを取り除く必要があります。そのようなことをしたら教勢に影響が出るのではないかと心配をする必要はありません。むしろよこしまな行いを取り除くことによって、主は憐れみをもってあなたの数を増やしてくださると約束してくださっています。

信仰的に、主の目に適う正しいことを行うのであれば、そこには同じ聖霊に導かれる一致が必ず生まれます。教会は主イエスを頭とする一つの体です。そのために主イエスは十字架に付かれました。主イエスの十字架に感謝し、聖霊による一致によって、主の目に適う正しいことを行わせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちに、主の目に適う正しいことを行いなさいと命じられます。しかし私たち人間は御心と思いつつ、自分が正しいと見なすことを行ってしまう愚かで罪深い者です。

そのような私たちのために主イエスが十字架に付かれ私たちを贖い、聖霊を遣わしてくださいますから有難うございます。私たちが聖霊に導かれ、聖霊と共に歩み、主の目に適う正しいことを行う者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。