「主の聖なる民、宝の民」 

2023年5月14日礼拝説教
申命記 14章1~21節

        

主の御名を賛美します。宗教によって色々な食べ物や飲み物が禁じられているものがあります。物珍しさ的な好奇心で見てしまうこともあります。カフェインが禁じられているものもあったりしまして、どうしてなのだろうと思っていました。しかし、最近は夕方以降にコーヒーを飲むと眠れなくなりますので、そのようなこともあっても良いのかと思ったりしています。

1、主の聖なる民

今日からは14章ですが、12章からは律法の具体的な内容に入っています。そこで一貫して言われていることは、「それぞれ自分が正しいと見なすことを行ってはならない。」(12:8)のであって、「主の目に適う正しいことを行いなさい。」(13:19)ということです。

その理由は今日の中心聖句である2節で、原語では、「なぜなら」と理由を表す言葉から始まって、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。」からです。「聖なる」という言葉は、元々、「分離する、聖別する」という意味です。

「主の子ら」は原語では「主の息子たち」と書かれています。それは先週の「よこしまな者」の「ベリアル(無益)の息子たち」と対照になっています。主の聖なる民は、よこしまな者とは分離した違う生き方をします。よこしまな者は自分が正しいと見なす他の神々に仕えますが、主の聖なる民は主の目に適う正しいことを行います。

主の聖なる民は主の宝の民ですが、なぜ主の宝の民とされたのでしょうか。それは主の聖なる民が正しいからではありません(9:4)。ただ主が選ばれたからだけです。現代の主の聖なる民、宝の民であるクリスチャンも、クリスチャンが何か正しいからという理由で救われるのではありません。

ただ主イエスの十字架の恵みによって選ばれて救われるのですから、救いを謙遜に感謝しましょう。そして恵みによって主の聖なる民とされる者は、よこしまな者とは聖別された、主の目に適う正しい生き方をします。イスラエルはこれまでの430年間、偶像に溢れたエジプトで生活し、これから入って行くカナンの地も偶像に溢れていますので、それらとは分離した生き方を行う必要があります。

2、服喪

具体的な内容の一つ目は、「死者のために自らを傷つけたり、額をそり上げてはならない。」ことです。なぜこのようなことを行うのでしょうか。死者を悼む異教の習慣として、自らを傷つけたり、額をそり上げることがありました。主の聖なる民は異教の習慣とは聖別された生活をしなさいということです。

額をそり上げるというと、日本の侍のちょんまげ姿が浮かびます。「額」は原語では「目の間」と書かれています。額は御言葉の記章を付けるところ(11:18)であって、そり上げるところではありません。最近は見かけなくなりましたが、日本でも前は不良が額をそり上げていました。

3、食物の規定

3~21節は食物の規定についてです。このような内容を見ますと私たちは、どうしてこのようなものは食べてはならず、このようなものが食べることができるのだろうと考えがちです。時々、お話していますが、聖書は私たちに霊の糧を与えるものであって、基本的に物質的なことを教えるものではありません。

物質的なことが書かれている中に、どのような霊的な意味が含まれているのかに思いを巡らせつつ御言葉を聴く必要があります。まずは4回言われている大切な文章があります。それは、「あなたがたには汚れたものである。」(7、8、10、19節)という文章です。

食べてはならないものは、「汚れたもの」だからではありません。主の聖なる民である、あなたがたにとっては汚れたものだからです。それは裏の意味として、あなたがた以外の異教の民には汚れたものではないということです。

もしもイスラエルが食べてはならないものが物質の成分として汚れているのであれば、正義である主が、それらのものを町の中にいる寄留者に与えて食べさせるか、外国人に売りなさい等と命じられるはずがありません。

ここで食べてはならない忌むべきものの理由は物質としての食物の成分の問題ではなくて、霊的な意味の問題です。それはどのような考え方から来るものなのでしょうか。それは、12章にありましたように、血を食べることによって、その血の生き物の力に与るという考えがありました。

同じように食べ物によって、その食べ物と同じような存在になると見られます。そのような意味から主の聖なる民として相応しいものを食べるように主は命じておられます。

4、動物

イスラエルが食べてよい動物は二つの条件を満たすもので、一つ目は反芻するものです。反芻するということは一度で食べて終わりにしないことです。その意味は、神の言を、座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱え(11:19)、良く反芻して、咀嚼して消化して、しっかりと自分の身に付けることです。ただ反芻する動物を食べても、神の言を反芻しなければ意味がありません。

二つ目は、ひづめが割れ、二つに完全に分かれているものです。ひづめが分かれていると険しい道を歩いたり、岩場のような滑る所でも歩けます。ひづめが割れてないと険しい道を歩けません。主の聖なる民は、自分の十字架を背負って、ひづめが割れている動物のように険しい道を歩む者です。それで、ひづめが割れている動物が食べ物として相応しいのです。

この二つの条件を満たすものが食べて良い動物で、具体的な名前は、牛、羊、山羊、鹿、ガゼル、のろじか、野山羊、羚羊(牛科の動物)、かもしか、野羊です。二つの条件の内、一つだけしか満たさないものは、食べてはならないものです。

反芻はするけれど、ひづめが割れていない、らくだ、野兎、岩狸は食べてはならないものです。またひづめは割れているけれど、反芻をしない豚も食べてはなりません。食べることのできる動物自体の意味を考えることが大切ですが、他の理由も考えられます。

豚はこれからイスラエルが進んで行くカナンを含む中東の地域では、聖なるものとされていて、献げものにもされて、食べることもできました。異教の民と異なる食物の規定を持つということは、食事を共にする交わり等をしない、関りを持たないことです。

この当時のイスラエルは主の聖なる民、宝の民として相応しく、異教の影響を断つために、異教の民とは別れる必要がありました。食べてはならない動物は、死骸にふれてもなりません。しかし、生きているものに触れたり、育てることは問題はないようで、らくだやロバは家畜として育てられて仕事に使われました。主イエスもエルサレムへの入城にロバに乗られました。

5、水の中に住むもの

水の中に住むものについては余り詳しくは言われていません。これは荒れ野で語られていますので、水の中に住むものを食べる機会が少なかったからだと思われます。食べることのできるものの条件も二つで、一つ目はひれのあるものです。

魚のひれの役割はどのようなものでしょうか。ひれの一番の役割は身体のバランスを保つことと言われます。水槽で魚を見ているとひれを動かして身体のバランスを取っていることが分かります。その他にも泳いで進んで行く時にひれは舵の役割をして向きを変えたりします。

またひれを使って泳ぐスピードをアップしたり、後ろにバックすることもします。ひれがあることはバランスが良く、また状況に応じて方向転換を巧みに行ったりもすることです。

うろこの役割は外敵から身体を守ることです。これはエフェソ6:11にあります、悪魔の策略に対して神の武具を身に着けることです。私たちの戦いは、人間に対するものではなく、悪の諸霊に対するものだからです。

主の聖なる民は、ひれがあるようにバランスを保ち、うろこのように神の武具を身に着ける意味で、ひれとうろこのあるものだけを食べます。この御言葉の影響で、ユダヤ教徒以外でも、キリスト教の国では、ひれとうろこのない、うなぎ、なまず、たこ、いか、えび、かに、うに、なまこ、貝等は余り食べません。

キリスト教の国でも、海に囲まれたイタリアや海に近い地域ではひれとうろこの無いものも食べることが多いようです。ひれとうろこの無いものは日本人が大好きなものばかりですので、外国人には食べていただかなくても良いのではないかと個人的には思っています。

6、鳥と昆虫

11~18節は鳥についてです。鳥については食べてはならないものの条件は言われませんが、具体的な鳥の種類が21種類挙げられます。食べられない鳥の多くは猛禽類といって他の鳥を食べるものや死んだものを食べる鳥です。

主の聖なる民は、仲間である他の鳥を食べたり、死んだものを食べる鳥を食べるのは相応しくないということです。これらの鳥はわざわざ食べてはならないと言われなくても、何となく食べたくないようなイメージの鳥ばかりです。

清い鳥はすべて食べることができますが、具体的にはどのような鳥でしょうか。出エジプト記でイスラエルが荒れ野で肉を食べたいと言った時に、神はうずらを贈って食べました。また献げ物として、はととすずめが売られていますので、これらは食べられます。

19節は鳥の記事の間に入っていますが、書かれている文章の内容からいって昆虫を指しています。昆虫は地を跳ねるための足のある、ばったといなご等は例外として食べることができます(レビ11:21)。跳ねることは高みに向かって歩むという意味でしょうか。しかし、それ以外は食べられません。

跳ねる足の無い昆虫が食べられない理由は、地を這うことにあるようです。地を這うことは地の汚れを身に纏うことです。創世記3章で、蛇がアダムとエバを騙して罪を犯させた時に、神は蛇を呪われました。そして地を這いずり回り塵を食べることになりました。地を這うことは忌むことですので、地を這う昆虫は汚れたものであり、主の聖なる民は食べられません。

最後に動物に戻りますが、子山羊をその母の乳で煮てはなりません。このことの詳しい意味は良く分かっていませんが、何か異教の習慣と結びついたもののようです。個人的にはホワイトシチューも好きなので残念な気もします。しかし憐みの心で考えると意味が分かるような気もします。

母の乳は本来は子山羊を育てるものです。その本来は育てるものを使って、子山羊を煮るというのは、とても残酷な気がします。そのような行為を避けるというのは主の聖なる民に相応しい気がします。

7、新約時代の考え方

では私たちクリスチャンにはこの食物の規定はどの様な意味があるのでしょうか。申命記が書かれた時のイスラエルは罪を象徴するエジプトに430年住んだ後に解放されてまだ40年です。そのために主の聖なる民として相応しくなるための訓練が必要でした。

イスラエルは主がアブラハムに約束された様に祝福の基となる予定でした。そのために周りの異教の民から分かれて聖別される必要がありました。しかしイスラエルは神に正しく従うことから外れ出して祝福の基となる役割から離れて行ってしまいました。

そこで主イエスが、イスラエルの民のためだけではなくて、全ての人の罪のために十字架に付かれました。それは異邦人を含めて主イエスを信じる全ての人を救うためです。旧約聖書で異邦人というのは神を知らない民です。

しかし新約に入ってユダヤ人もギリシャ人もなく、キリスト・イエスにあって一つとなりました(ガラテヤ3:28、29)。そして主イエスはマルコ7:15で、「外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」と言われました。

主イエスが言われたことは何を食べても食べ物によって人は汚れないので、何を食べても良いということです。その通りに使徒言行録10章でペトロには幻で示され、そこでは旧約で汚れたと言われたものを神が清めたので、清くないとは言ってはならないと言われました。

使徒パウロもⅠテモテ4:4で、「神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。」と言います。何を食べても良いのですが、今日の聖書個所で忌むべきものと書かれているものを敢えて食べる必要はありません。

食べても良いと言われても、からすとかは出来れば食べたくはないと思います。ただこのことは他の問題でも同じですが、食べるのが正しいか正しくないかという問題ではありません。ローマ14:15は「食べ物のために、きょうだいが心を痛めているなら、あなたはもはや愛に従って歩んではいません。」と言います。

何となく豚肉を食べることに抵抗がある人に、聖書は何を食べても良いと言っているのだから、食べなさいと勧めるのは愛のない行いです。12:16に、「血を食べてはならない。」とありましたが、新約の時代に入って、物質としての血は食べても良いのかも知れませんが、それによって人を躓かせるのであれば食べるのを避けた方が良いと思います。

新約の時代に入って食べ物は何を食べても良いことになりました。しかし主の聖なる民として、今日の食べることができると言われた食べ物の教えの霊的な意味は変わりません。聖なる民は、地上の動物では、反芻するものである御言を食む者、ひずめが割れたものである険しい道を歩む者です。

水の中に住むものでは、ひれのあるバランスの取れた者、うろこのある神の武具で身を固める者、鳥では、猛禽類の様に仲間を食い物にしない者、死んだ物を食べない者、昆虫では、地の汚れの中を這わないで、高みを目指して高く跳ぶ者です。

これらは自分の力で行うのではありません。主イエスが十字架によって私たちを救い、与えてくださる聖霊の力によって主の聖なる民として行うことです。主が聖なる者であるように、私たちも主の聖なる民、宝の民として歩ませていただきましょう。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは神の民を主の聖なる民、宝の民とされて、霊的に相応しいものを食べるように命じられました。しかし主イエスの十字架の恵みによって物質としての食物は何でも食べられるようになりました。

しかし聖霊の導きの中で、食物に限らずにすべてのことを通して、主の聖なる民、宝の民として相応しく歩み、神を証しする者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。