「愛をいただいた時に」
2023年6月25日礼拝説教
ヨハネによる福音書4章27~30節 野田栄美
- 反応
赤ちゃんは言葉を話すことができません。けれども、いつもお世話をしている人、赤ちゃんが何を感じているかが分かります。何かを食べさせた時に、美味しいと思っているとか、苦手だと思っていることなどが分かります。それは、その反応を見るからです。にっこり笑っている。もっと欲しいと手を伸ばしている。顔を背ける。そのような様子を見て、美味しいのかが分かります。
私たちの日々は「反応」の繰り返しです。日々私たちは、何かを受け取っています。それは物だったり、言葉だったり、人の想いだったりします。そして、受け取る度に反応が起きます。今日は、サマリアの女性の反応から、彼女が主イエスとの出会いで何を受け取ったのかを見させていただきましょう。
- 驚きの中に
主イエスとサマリアの女性は井戸の側で話をしていました。そこへ町へ食べ物を買いに行っていた弟子たちが帰ってきます。先ず、弟子たちは驚きました。主イエスが女性と話をしていたからです。今までのメッセージでも繰り返しお話していますが、この時代、家の外で男性が女性に話かけることはタブーでした。そして、更に、ユダヤ人がサマリア人に話しかけていることは当時あり得ないことでした。ユダヤ人とサマリア人はお互いに無視するように暮らしていたからです。
それらのタブーを破って会話をしているこの2人に対して、弟子たちは何も言いませんでした。27節「『何をお求めですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」とあります。これまでも、ヨハネによる福音書には、主イエスが想像もしないような言動を取られることが何度もありました。そして、その度に神の真理が示されました。この時の弟子たちは、驚きで言葉が出ない状態にありました。けれども、そこに自分たちが想像もしていない主イエスの考えがあると期待していたかもしれません。
主イエスに対する期待、これはクリスチャンとして生きている中での醍醐味です。何でこんなことが、これはおかしいだろうと首を傾げるようなできごとは、クリスチャンにも起こります。その時に「でも、待てよ。神が何かをご計画なのかもしれない。神の力を、また、神の摂理を見ることになるかもしれない」というような思いを持つことができるのがクリスチャンです。これは、どんなときにも希望を失わないことでもあります。辛いと下を向いているのに「でも」と、神を見上げる生き方です。
- 出会い
この時、サマリアの女性は、彼女の人生を変える体験をしていました。人に後ろ指をさされるような生き方をしてきた自分は、きっと神から呪いは受けても、恵みを受けることなどないと思っていました。それなのに、この世を救うメシアだという人が、私に永遠の命となる水を与えてくださると言っている。そして、神の礼拝に招いてくださった。それも、自分の穢れた過去を全部ご存じなのに、受け入れてくださった。思ってもみない幸運が降ってきた体験です。
その興奮を28節でみることができます。サマリアの女性は、水がめをそこにおいて町に行きました。この水がめは頭の上に乗せて運ぶもので、決して軽いものではありません。彼女は急いで行きたくて、水がめを置いたのでしょう。もしかしたら、水を汲みに来たことさえ忘れてしまうほど、興奮していたのかもしれません。
その彼女が向かったのが町でした。そこは彼女が避けていた人々がいる場所です。この人たちに会いたくないから一日の一番暑い時間に、町から離れた井戸まで水を汲みに出かけていました。彼女はその人たちのいる町へ行きました。
- つながり
皆さんは「ガチャガチャ」という機械をご存じでしょうか。数百円入れてガチャガチャとレバーを回すとカプセルに入った小さなおもちゃが出てくる機械です。この「ガチャガチャ」の特徴は、自分では種類を選べないということです。何が出てくるのか分からないドキドキも楽しみの一つです。この特徴を使って「親ガチャ」という言葉が生まれました。生まれてくる子どもが自分の親を選べないことを表す言葉です。親を当たり、外れと評価する言葉でもあるので、余り良い意味では使われません。けれども、私たちは親を選ぶことができないのは事実です。そして、親だけでなく、家族、親戚、近所の人、学校の友だち、先生など、私たちは自分が選んでいないにも関わらず、様々な人に出会っていきます。そして、その人たちとつながりができていきます。
イギリスにいた時に、語学学校に通ったことがありました。15人程いるクラスの中で日本人は私を入れて2人、ほとんどがヨーロッパの国出身の方々ばかりでした。その中で、私と笑うタイミングが一緒の人がいることに気がつきました。笑いにはその人の持つ感覚や文化などが影響していきます。関東と関西では笑いに違いがあります。この語学学校で、私と笑うタイミングが一緒なのは韓国人の人でした。ヨーロッパの国の人に囲まれれば、共通点があるのはやはり同じアジア人でした。考えたこともないことでしたが、知らぬ間に私はアジア人としてのつながりを持っていました。私たちは自分が選んでいる、いないに関わらず、このように人とのつながりを築いています。
また、マザーテレサは「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」と言いました。憎しみがあるところにも、人と人との関係が築かれています。この時、サマリアの女性は主イエスのことを誰に伝えたでしょうか。自分と同じ町に住む人たちでした。彼女はその人たちと仲良く暮らしていたでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。彼らは後ろ指を指してくる人たちです。そして、自分はそうされても仕方がない存在でした。ここにあるのは、ねじれてしまった人間関係、憎しみのある関係です。そこに、彼女は自分から入って行きました。
- 謙遜
サマリアの女性は町に入って、こう言いました。「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(29節) 驚くような言葉です。
- 彼女は先ず、「さあ、来て見てください。」と言いました。一緒に来て欲しいと、彼女は人々を誘います。あんなに避けていた人々をです。
- そして、「私のしたことをすべて言い当てた人がいます」と、自分の暗い過去を隠すどころか、自分からその話を持ち出しています。なぜメシアだと思ったのかを伝えることに夢中で、自分の過去の罪を人の前にさらけ出しています。ここで、彼女は自分をどう見せるのか、人が自分をどう思うのかを気にしてはいません。
- 最後に「もしかしたら、メシアかもしれません」と言いました。この言葉は不思議な言葉です。「メシアにお会いしました」とはっきり言っていません。中途半端な説明です。この言葉の中に何が表れているのでしょうか。ここに彼女の謙遜な態度が現れています。「私ははっきり分かりません。あなた方なら分かるのではないですか。」そして、その人たちに頼っています。「メシアと思われる方がそこに来ています。だから、皆さんに一緒に来て欲しい、そして確認して欲しい」と誘っています。彼女はへりくだった心を持って人々に声を掛けました。
これが、彼女の反応です。主イエスと出会った時の反応です。何を受け取ったら、このような反応が起こるのでしょうか。これは、神の愛を受け取った人に起こる反応です。
- 愛を受け取る
マタイ13:44に主イエスがくださる神の愛が、どんなに価値があるのかを教える譬えがあります。「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。」
現代の日本ではあり得ない話ですが、その当時は畑の中に宝を見つけたらその土地を買えば、その宝は自分の物になりました。もし、ある土地を耕していたら、徳川幕府の隠した埋蔵金がざくざく出てきたとしましょう。その土地を買ったら、それがあなたの物になるとしたらどうでしょうか。迷わずその土地を買うはずです。
神の愛は、そのように価値があると聖書は言います。お金はあなたの物質しか満たすことができません。けれども、神の愛はあなたの心に何億円、何兆円出しても手に入れることができない幸せを与えます。人を恐れない心が欲しいと思いませんか。自分のしてきた暗い過去に縛られなくなりたいと思いませんか。どうしようもない孤独から解放されたいと思いませんか。それらが、全て手に入ります。そして、それが永遠に続きます。更に、この世の人生が終わった後に、神ご自身がおられるところに連れて行ってくださることを約束していただけます。
- 受け取る
その神の愛を受け取る方法は一つだけです。主イエスを信じることです。主イエスは、私の命をあなたに与えるほどにあなたを愛している。あなたの犯してきた全ての罪を贖うために、私は十字架にかかろう。そして、あなたに神の愛を受け取ることができるように道を開こう。そうおっしゃいました。
この愛をあなたが受け取った時に、あなたは必ず反応します。サマリアの女性は、人を嫌うのではなく、人の前にへりくだるようになりました。謙遜になりました。更に、彼女と彼女が関わりを持っている人々との中にも変化が起きました。彼女の生活は、憎しみがあるところではなく、愛があるところへと変わっていきました。彼女と同じように、神の愛が自分を変えていくことを体験し続けるのがクリスチャンです。
「私は愛を持っていません。周りの人たちとも上手くいきません」と、思われる方もいらっしゃるかもしれません。ローマの信徒への手紙5:5にはこうあります。「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」今どうあるかではなく、神の愛は私を変えてくださるという希望を持ちましょう。そして、私たち自身ではなく、神の愛こそがその希望を実現してくださいます。その神の愛を受け取りましょう。