「王位を長く保つため」
2023年7月23日礼拝説教
申命記 17章14~20節
主の御名を賛美します。
1、王
前回の16章21節からの内容では、「正しい礼拝」の小見出しが付いていて、正しい礼拝では主の祭壇の傍らにアシェラの木像や主が憎まれる石柱を立てたり、天体等を礼拝したりするのは論外であり、また欠点のある動物を献げてはなりませんでした。
礼拝においては真の王である神だけを礼拝します。全知全能で完全なる正義である神が真の王であり神を王とするならば間違いはありません。しかし罪深い私たち人間は見えない神からは目を外し易く、見える偶像に目を奪われがちです。神は私たち人間のそのような弱い性質を良くご存じです。
イスラエルはこれから、神である主が与える地に入り、それを所有してそこに住みます。その周りにいるすべての国民は王を立てています。神はイスラエルが人間の王を立てることを望んではおられませんし命じてもおられません。しかしイスラエルが周りの国民のように王を求めるようになることをご存じです。
この要求はサムエル記上8:5でサムエルに対して行われることになります。神はイスラエルのそのような弱さを受け入れられて、ここではその準備として言われています。ただ罪深い人間を王とすることによって、人々は人間である王の奴隷となると神はサムエル記上8:17で警告されています。
初めに王となる人の条件が二つ挙げられます。しかしここでこの聖書箇所は自分とどのような関係があるのだろうかと感じるかも知れません。ここでは王になる人の条件といっても別に歴史の勉強だけをする訳ではありません。聖書はすべての人に向けて霊の糧として書かれたものです。
しかし今日の説教題にも、「王位を長く保つため」とありますと、ハリセンボンの春菜ではありませんが、「私は王じゃねーよ」と思われるかも知れません。ここでいう王は、神がその人にとって最善の祝福の立場、地位と言い換えることが出来るかもい知れません。
現代の日本には王はいませんし、王という程の大袈裟なものではなくても、家族であれば家長であったり、子どもに対する親であったり、職場での先輩等のリーダー的存在ということが出来るでしょうか。また他人をリードすることはなくても、その人にとっての祝福の地位と言えるでしょうか。
王に立つための条件の一つ目は、主が選ぶ者であることです。自分で王になりたがる者であったり、有力者の後ろ盾によってなる者であってはなりません。なぜかといいますと、王は真の王である神に遣わされて王の代理として働く者ですので、御心に適う者でなければなりません。主が選ぶ者ではなく、人の思いで王になりたがる者では自己中心的な私利私欲を目的としてしまい神の働きが出来ません。
王の二つ目の条件は同胞の中から立てなければならず、外国人は立てられません。これは人種差別ということではありません。イスラエルという神の民の全権の長となる王は、神の代理人として働く者です。そのためには王はイスラエルの神の民の歴史を良く知っていて、真の神との交わりの中で生きて来た人である必要があります。
これは全ての組織のリーダーに外国人は相応しくないという意味ではありません。20年以上前に日産が経営危機に陥った時には、外国人のカルロス・ゴーンが社長になることによって、何の柵も無く、大胆にリストラを進めて高く評価されていました。そのように外国人がリーダーになった方が良い場合もあるかも知れません。ただイスラエルという神を真の王とする国の王に外国人は立てないということです。
2、王の禁止事項
王になる者には3つのことが禁止されます。1つ目は、「王は自分のために馬を増やしてはならない。」です。馬は馬車や騎馬兵のために戦争に使われましたので軍事力を表します。馬を持ってはならないとは言っておらず、「馬を増やしてはならない」です。馬を増やすというのは軍事力に頼ることです。
エジプトを脱出したイスラエルをエジプトは大量の馬を使って追って来ましたが、イスラエルは主によって救われました。馬を増やして馬に頼ることは軍事力に頼ることであり、それは主に信頼しないことですので、そのような不信仰な姿勢を禁じます。イスラエルの三代目の王であって最大の知恵者と言われるソロモンは、この禁止を破って馬を増やしてしまいます。
「馬を増やしてはならない」には続きがあり、「馬を増やすためだと言って、民をエジプトに再び帰らせてはならない。」です。エジプトは現代でも馬の名産地のようです。これは単純に馬を増やすためにとの理由で、エジプトに行ってはならないという意味ではなさそうです。
主イエスはお生まれになられた後に、ヘロデ王から命を狙われていましたので、マタイ2:14で両親と共にエジプトに避難されています。そうしますとエジプトに行くこと自体が禁じられている訳ではないようです。聖書でエジプトは罪の象徴となっていますので、「エジプトに帰る」ことは罪に帰ることを表していると考えられます。
そうしますと自分のために馬を増やすというのは、軍事力に頼るというエジプトに帰るような罪を犯してはならないという意味と考えられます。
禁止事項の2つ目は、「妻を多くめとって、心を惑わしてはならない。」です。妻をめとることは問題ありませんが、多くめとることは、心を惑わすことになります。ソロモン王はこの禁止も破って、「7百人の王妃と3百人の側室がいました。そしてこの女たちが彼の心を誤らせた。」と列王記上11:3は言います。
日本で複数の妻を持つことは法律で禁止されています。しかしこの御言葉によりますと心を惑わす原因は異性であるということです。有名人の既婚者のスキャンダルと言いますとその殆どは異性関係です。最近では異性に留まらず同性関係のスキャンダルも出て来る時代となりました。
一般庶民の目から見ますと、どうしてそのような異性関係のために、これまでの地位を全て捨ててしまうようなことをしてしまうのかと感じてしまうものです。しかし既婚者が他の異性に目を向けること自体が主の教えと異なることですので、それは心を惑わすことになりますので注意が必要です。
禁止事項の3つ目は、「自分のために銀と金を大量に蓄えてはならない。」です。銀と金を蓄えることは問題有りませんが、大量に蓄えてはならないです。銀と金を大量に蓄えることは、主よりも資産に頼ることになります。ソロモン王はこの禁止事項も破っていました(列王記上10:14,25,27)。
これら3つの禁止事項は適度に持つならば悪いことではありません。馬を持ち、妻をめとり、銀と金を蓄えることは、むしろ良いことかも知れません。しかし過度に持つことは、貪る罪です。
この世的な表現かも知れませんが、3つの禁止事項の内容をそれぞれ一言で言うと、馬を増やすことは「権力」、妻を多くめとることは「女」、銀と金を大量に蓄えることは「金」、と言えます。男性の誘惑になり易い欲は、権力、女、金の3つと言われていて、この3つの欲には良く注意をしなさいと言われます。
3、王への勧め
次に王に勧められることはどのようなことでしょうか。王は王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書き物に基づいて、律法の書を書き写します。この当時は勿論、印刷された聖書はありませんので書き写す必要があります。現代では聖書全文を携帯等でも無料で見れますので恵まれています。
仏教では経典を書き写すことを写経と言って功徳があることとしていますが、聖書を自分で書き写すことも意味のあることかも知れません。実際に聖書を全体ではなくても書き写している人はいます。この聖書箇所で書き写す律法の書は、当時のここまでの聖書であるモーセが書いたモーセ5書であると思われます。
書き写した物は、傍らに置いて、生涯、これを読みます。私たちも聖書を書き写してはいませんが、傍らに置いて、生涯、これを読みます。私たちが聖書を傍らに置いて、生涯、これを読む目的は何でしょうか。大きくは2つあります。
1つ目は、「王が自分の神、主を畏れ、この律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶため」です。この文章は結論だけにすると後半の、「律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶためです。」 しかしそのためには前半の、「主を畏れ」が必要になってきます。
いくら主の言葉と掟をすべて守り行うことを学ぶと言っても中々、学べないものです。そのためには主を畏れる必要があります。主を畏れ敬うことがあって初めて、真剣に主の言葉と掟を守り行うようになります。それでは具体的には、どのようにして主を畏れるようになるのでしょうか。聖書を読むことによってです。
聖書を読むことによって、主を畏れ、主の言葉と掟を守り行った自分たちの先祖が実際にどのように祝福されたか、主を畏れなかった先祖がどのような失敗を犯したのか、歴史を知ることによって私たちは主を畏れることを学ぶことが出来ます。「過去に学ばない者は、過ちを繰り返す」と言いますので、聖書を読み、学ぶことは大切です。
2つ目は、「王の心が同胞に対して高ぶることなく、この戒めから右にも左にもそれないため」です。この文章も結論は後半の、「この戒めから右にも左にもそれないため」です。しかしそのためには、前半の、「王の心が同胞に対して高ぶることなく」が必要です。
どうしたら王の心が同胞に対して高ぶることがなくなるのでしょうか。逆に考えますと、なぜ王の心が同胞に対して高ぶるのでしょうか。それは自分が一番偉いと思い込んでいるからです。自分が一番偉いと思い込む者は高ぶって、主の戒めからそれて、自分勝手なことを行うようになります。
しかし聖書を読めば、この世のすべてを造られて支配されておられるのは主であることが分かります。主が真の王であり、この世の王は主から管理を委ねられていることを知ることによって、謙遜を身に付けて、同胞に対して高ぶることなく、主の戒めから右にも左にもそれなくなります。
律法の書である聖書を読む目的は2つあると言いましたが同じ内容です。それは主の律法の言葉と掟をすべて守り行うことを学び、主の戒めから右にも左にもそれないためです。それは先週もお話しました5:32にも書かれているとおりです。
4、王位を長く保つため
主の命令や勧めの後には、いつもそれを守る者に伴う約束が続きます。この箇所の約束は、「そうすれば王もその子孫も、イスラエルの中で王位を長く保つことができる。」というものです。この文章も味わい深いものです。
「イスラエルの中で王位を長く保つ」ということは、王が主の戒めを守り行い正しく生きることによってイスラエルという神の民の国が保たれるということです。逆に言うと、王が主の戒めからそれてしまうとイスラエルという神の民の国は保たれなくなってしまいます。また仮に国は保たれたとしても王の家系は王位を長く保つことができなくなります。
ソロモン王の時代にイスラエルは最大と言って良い程に発展し、栄華を極めたソロモンとまで言われました。しかし先程の3つの禁止事項を破って2つの勧めを聞かないソロモン王の行動は、ソロモン王個人だけの問題に留まりませんでした。主に戒めに従わないソロモン王の行動は、子どもたちに悪い影響を及ぼして主の戒めから大きくそれることになります。
そしてそれは後にイスラエル王国の分裂を引き起こすことになります。いくら自分の時代に栄華を極めたとしても、自分が主の禁止事項を破り、それによって自分の愛する子孫が不幸に陥って行くとしたら何と辛いことでしょう。祝福は自分だけの一代で終わってしまっては空しいものです。
国や子孫を不幸に陥れた人が変な人なら仕方がないかも知れません。しかしイスラエルという神の民の国を分裂に陥れ、子孫を不幸に陥れたのは、イスラエルの歴史上で最大の知恵者と言われるソロモンです。ソロモンは聖書の中の、箴言、コヘレトの言葉、雅歌の記者と言われます。
ソロモンはイスラエルの王として今日の聖書箇所にあるように、聖書を書き写し、生涯、これを読んでいなかったのでしょうか。ソロモンに限らず今日の御言葉を実践していたという王は残念ながら書かれていないようです。ヨシヤ王は書き写してはいませんが、主の神殿で見つかった契約の書の言葉を実行することを誓ったと言います(列王記下23:3)。
そうすると不安になって来ます。ソロモン王というイスラエルの歴史上で最大の知恵者と言われる人が守り行えなかった主の戒めを、異邦人の私たちに果たして守り行うことが出来るのでしょうか。私たちはソロモンの知恵には及ばないでしょう。しかし心配には及びません。
主イエスはマタイ12:42で、「ここに、ソロモンにまさるものがある。」と言われました。ソロモンの知恵より遥かに勝る神の知恵によって、私たちの罪の赦しのために十字架に付かれた主イエスを信じる者は救われます。そして主イエスを信じる者には遣わされる聖霊によってソロモンでさえ守り行うことのできなかった、主の戒めを守り行う者へと変えられて行きます。
そして本人もその子孫も、神の民の中で、その人にとって最善である王位のような地位を長く保ち、ソロモン王にまさる祝福の道を歩むようになります。主は、「主を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す」(5:10)お方です。聖霊の導きの中で、主イエスの十字架の贖いと主の祝福の約束を信じて歩ませていただきましょう。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは主の戒めを守り行うなら王位を長く保つことができると約束されます。私たちは誰でも自分も家族もあなたの祝福の中を歩んで行きたいと願うものです。あなたは私たちの祝福を願い、主イエスの十字架により私たちを贖い、聖霊をお遣わしになり主の戒めを守り行う者とさせてくださいますから有難うございます。どうぞ私たちが祝福の道を歩み続けることができますようにお導きお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。