「主が相続地」

2023年7月30日礼拝説教  
申命記 18章1~8節

        

主の御名を賛美します。思い出話をしたいと思いますが、約14年前に東京聖書学院に入学した時に、それまで得ていた給与の収入が無くなり、逆に授業料等の支払いをしますので、3人の子どもを抱えて家計は厳しい状況でした。

東京聖書学院に入学する前に住んでいた睦沢では庭で妻が野菜を作ったりしていました。東京聖書学院での私たちの住まいの寮の前に少しの本当に猫の額程ですが地面がありましたので、少しでも家計の助けになるようにと思い野菜を植えました。

しかし東京聖書学院は割とゆったりとした土地があるのですが、花は植えても良いが野菜はいけないとのことでした。当時はその意味が良く分かりませんでしたが、今日の聖書の御言葉等から来ていたようです。当時は授業で、羊は目が悪く臆病な性格であるということを学んだりしていました。

しかし、「百聞は一見にしかず」ですので、言葉で学ぶよりも実際に東京聖書学院で羊を飼えば良いのではないかと思いました。また牧師は野菜の作り方等も学んで生活の足しに出来るようにしておいた方が良いのではないかとも思いました。しかしそれは御言葉とは違っていたようです。

1、相続地がない

前回の内容で、イスラエルが王を立てて、16章18節で王が王座に着いたら、レビ人である祭司のもとにある書物に基づいて、律法の書を書き写しなさいとありました。レビ族というのは、ヤコブの12人の息子の3男のレビの子孫です。

レビの名前は、お母さんのレアがレビを産んだ時に、「今度こそ、夫は私に固く結び付いてくれるでしょう。」(創世記29:34)と言って付けた名前で、「結ぶ、結ばれる」という意味です。妻のレアが夫のヤコブが自分に固く結び付くことを願いつつ叶わない、何か切ない思いのする名前です。

レビ人である祭司は、そのように神である主と人を結ぶための働きをします。レビ人である祭司という表現は、祭司は全員レビ人ですが、レビ人の全員がずっと祭司であるとは限らず、主の御言葉を教える役割や、つかさやさばきつかさ等の色々な役割がありました。

主と人を結ぶ働きをするレビ人にはイスラエルの他の部族のような割り当て地や相続地がありません。割り当て地と相続地は何か別々の物という訳ではなく同じで、新改訳は「相続地の割り当て」と訳しています。レビ人はなぜ相続地がないのでしょうか。そのことを考える前に、そもそも相続地は何のための物なのでしょうか。

イスラエルの食べ物を見ると、牧畜による肉類や農産物を食べています。しかし今までの荒れ野での生活では、植物は余り育ちませんし、移動していたら植物が育つのを待っている訳にも行きません。ただ、これからはカナンの豊かな地での定住の生活に移って行きますと農産物の耕作が増えて行くと考えられます。

相続地はそこで牧畜や耕作を行うための土地で、イスラエルの他の部族は自分の割り当て地での産物を食べて生活します。しかしレビ人には相続地がありません。1節と2節は強調するための平行法で書かれていて同じ内容を少し変えて繰り返します。同胞の中には、彼の相続地はないのです。

なぜないのかといいますとレビ人は牧畜や耕作を専業の仕事としては行わないからです。それは主がイスラエルの全部族の中からレビ人を選ばれました。そしてレビ人とその子らを主の名によっていつまでも仕えるようにと立てられたからです。「主の名」という表現は聖書に良く出て来ます。

「名」は聖書では、本性や本質等を意味してその意味を強調します。レビ人は主の名、主に仕える働きをしますので、割り当て地を持つ専業の農作業者にはなりません。それは現代のレビ人とも言える牧師も同じで、農作業が本業ではありませんので、東京聖書学院でも余り野菜作りに関わることは望まなかったのだと思います。

因みに東京聖書学院にいた時には、背に腹は代えられませんので、野菜を作るのが目的ではなく、野菜の花を観賞するためとして理解をいただいたように記憶しています。

2、レビ人の割り当て

レビ人は自分で食物を作りませんが食べ物はどうするのでしょうか。レビ人は主に仕えますので、主への火による献げ物を相続分として食べることができます。主への火による献げ物の内で、主に焼き尽くすいけにえは、焼き尽くして無くなってしまいますので、それ以外の残りという意味です。

主に献げられるものは主に仕えるレビ人のものとなります。それは、主がレビ人の相続地であるからです。これは10:9でも言われていました。祭司が民から受け取ることのできるものは、牛や羊では肩と両頬と胃で、他に穀物、新しいぶどう酒、新しいオリーブ油の初物、および羊毛の初物等です。主に献げられるものは初物の最上の物です。

ユダヤ教では宗教上の成人式を済ませた13歳以上の男性信者が10人集まると、キリスト教の教会にあたるシナゴグの設立が認められます。シナゴグは教会と同じ、「人の集まり」という意味で会堂を建てるかどうかは別です。これは経済的な面から考えますと、10人が収入の10分の1づつを献げると祭司職の人も10分の1を献げて、全員が平等の10分の9の割合の収入になると考えられます。

ここまでの内容を見て来ますと、主が相続地であるのは牧師だけのことであって信徒には関係がないのでしょうか。そうではありません。特にプロテスタントは万人祭司です。万人祭司であるということは、神を信じる全の者は、主が相続地であるということです。

主が相続地ということを考えますと、まず相続というのは普通は亡くなった人の財産を伴侶や子ども等の家族がもらって引き継ぐことです。主がレビ人の相続地となったのは、過ぎ越しの小羊によって主がイスラエルをエジプトから贖い出し、レビ人を選び、主に仕えるようにと立てられたからです。

同じように主は主イエスの十字架によってクリスチャンを贖い出し、選び、神の子とされて主に仕えるように立てられます。子どもは親のものを相続するものですが、神の子は父なる神ご自身を相続地とされます。すべてのクリスチャンにとって主が相続地です。

主が相続地であるクリスチャンには、もしかするとレビ人のように、この世の割り当て地や相続地がないかも知れません。この世の割り当て地や相続地というのは単に土地に限ったことではありません。この世では前回の内容の王に禁じられた17:16、17の馬の象徴する権力、妻、銀と金である資産を過度に持つことはないでしょう。

主が相続地であるクリスチャンはこの世の物質的な物を多く持つのではなく、主に仕えることによる霊的な祝福の中を生きる者です。そしてマタイ6:33に、「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」の御言葉のとおりに必要なものは備えられます。

3、レビ人の異動

レビ人は望むままに、彼が寄留している、イスラエルのすべての人々のどの町からもやって来て、主が選ぶ場所に移ることができます。レビ人の異動の権利についてです。カナンの約束の地にはレビ人の町として48の町が指定されます。

そして場所を移るレビ人は、その場所に以前から主の前に立っているレビ人、すなわち自分のすべての兄弟と同じように、彼の神、主の名によって仕えることができます。「レビ人は望むままに、主が選ぶ場所に移ることができる。」という文章は二通りの意味に考えられます。

一つ目は、主が選ぶ場所の町であればどこでも、レビ人は望むままに移ることができるということです。ここではその場所に以前から主の前に立っているレビ人がいますので、この意味であると考えられます。この御言葉をそのまま現在の教会に適用して、牧師は既に牧師のいる教会でもどこでも、自分の望む教会に移ることができるとしたら大混乱になりそうです。

ただこの当時のレビ人は、民数記26:62で男子は2万3千人と人数は多く、その働きも現代の牧師職だけではなくて、主の御言葉を教える教師やさばき人、賛美等の多くの働きがありましたので、場所を移ることを望むレビ人が自由に移っても問題はなかったと思われます。

二つ目の意味としては、主が選ぶ場所は48の町がありますが、そのレビ人に主が選ぶただ1か所の御心の任命先の場所に移ることができるということです。現代では任命制でも招聘制でもこの意味で使われています。どこに異動しても主の名によって仕える同じ働きをします。

信徒として考えますと、主が選ぶ場所である教会でしたら望むままに移ることはできますが、やはり主がその信徒に選ぶただ1か所の御心の場所に移ると考えられます。そしてやはり、主の名によって仕える同じ働きをします。

4、レビ人の取り分

レビ人は他の部族のような相続地はありませんが財産は持っています。それで先祖の財産を売って得たお金を持っている場合もあります。そのような場合にも、取り分は取り分として、彼らは食べることができます。

聖書協会共同訳は直訳に近い感じですが、新改訳は意訳で、「相続財産を売った分は別として、彼らが食べる取り分と同じである。」と分かり易い感じもします。相続財産を売って得たお金を持っていてもいなくても、取り分は変わらないということです。

これを現代に適用すると、先祖の財産を売って得たお金を持っている牧師には謝儀を払わなくて良いということはなく、お金を持っているかいないかに関わらず、謝儀は同じということです。また例えば年金を貰っている牧師には謝儀を払わなくて良いということもないということです。

主の名によって仕えることに対して取り分はあるということです。これは信徒でも同じです。先祖の財産を売って得たお金を持っている人には、それ以上の物が与えられないということはなく、主の名によって仕えることに対して主から取り分が与えられます。

また労働者の仕事の対価は給与と言います。給与は雇用契約に基づいて仕事の対価として支払われる金銭で、雇用契約のない場合は報酬と言います。牧師の場合は給与ではなく謝儀ですが、これは雇用契約のあるなしではありません。

クリスチャンは神から与えられている恵みへの感謝として献金を献げます。献金は神の御用のために用いられますが、主に仕えるように立てられ、主が相続地である牧師の奉仕に感謝を含めて謝儀としても用いられます。

5、主が相続地

クリスチャンにとって主が相続地であることは大きな恵みです。罪を犯してしまう人間にとってこの世の割り当て地や相続地をいくら得ても、この世の人生の終わりと共に全てを失ってしまいます。この世に宝を積んでいては、いくら積んでも意味がありません。

しかし憐れみに富む主は、私たちの罪の身代わりとして御子イエス・キリストを十字架に付けられ、主イエスを信じる者の罪を赦されて神の子としてくださいます。そして神の子とされる者には父なる神、主ご自身が相続地となります。主が相続地になるということは、主の永遠の命も相続して引き継ぎます。

主が相続地となることは17:16、17で王に禁じられた、この世の宝である、多くの権力、妻、資産を継ぐことはないかも知れません。しかし一時的な繁栄ではなくて、17:20の約束のように、本人もその子孫も主の祝福を受けて王位を長く保つことができます。その方が遥かに幸せです。

そしてこの世の後には、天に積んだ宝が待っています。主イエスの十字架の恵みによって、私たちは主を相続地とすることができます。喜んで相続させていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは主イエスの十字架の恵みによって、主ご自身を相続地とする道を作ってくださいました。私たちは誰もが幸せを望んでいます。本当の幸せはこの世の宝にあるのではなく、あなたを相続地とすることであることを、私たちが聖霊の導きの中でしっかりと覚えて歩んで行くことができますようにお導きお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。