「主の言葉を授ける預言者」

2023年8月6日礼拝説教  
申命記 18章9~22節

        

主の御名を賛美します。今日は私がコロナウィルスに感染してしまったためにユーチューブによる礼拝となってしまい済みません。感染対策を疎かにしていた訳ではないのですが、どこかで感染をせずに済むのではないのかという思いがあったように感じます。

しかし現在の感染者状況を改めて見ましたら1医療機関当たりの感染者数が千葉県は関東では1番多く、統計は確かだと感じます。症状が軽度の人もいると聞いていましたが、私は一昨日は38度以上の熱が出て結構、大変でした。皆さんが感染から守られますようにお祈りしています。

1、忌むべき慣習

イスラエルがこれから入って行くカナンの地には、色々な忌むべき異教の慣習があります。一つ目は、自分の息子や娘を火にくぐらせる者で、これは自分の子どもを異教の神に捧げることをする者です。その後に8種類の者が挙げられていますが正確な内容は不明です。

大体の意味として、占い師と卜占する者は、人の心の中や将来等の普通は知ることの出来ないことを知ろうとする者です。まじない師、呪術師、呪文を唱える者は、色々なまじないや言葉を使って、災いを取り除いたりする等の将来をコントロールしようとする者です。

口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者は、色々な霊等と関わることによって普通は知ることの出来ないことを知ろうとする者です。これらは普通は知ることの出来ないことを知ろうとしたり、普通はコントロールの出来ない将来をコントロールしようとする者です。

普通では出来ないことをしようとするのですから、多くの人が関心を持ち易いものです。この8種類の者はこの時から約3千4百年後の現代にもいますので注意が必要です。普段は宗教と関わっていない人でも、おみくじを引いて占ったりすることを普通にしたりします。

主は、これらのことを行う者をすべて嫌われ、そのために先住の諸国民を追い出されます。しかし神の民であるイスラエルは主と共にあって、全き者でなければなりません。主は神の民がそうすることをお許しになりません。お許しにならないということは、到底、そのようなことの出来ない状況に置かれるということです。

何か恐ろしい感じもします。しかし主が禁じられているのですから行わなければ何も問題はありません。主がそこまで強く禁じられているということは、神の民に取って悪い影響を与える良くないことということです。そのようなものに敢えて関わる必要はありません。

2、主の言葉を授ける預言者

主は異教の忌むべき慣習に見習うことを禁じられます。しかしその背後にある全ての人の心の中には、自分が知らないことを知りたい、将来に起こることを知りたい、将来をコントロールしたいという気持ちがあることを良くご存じです。そこで禁じられだけではなく、どうすれば良いのかを伝えます。

「主は、あなたの中から、あなたの同胞の中から、私、モーセのような預言者をあなたのために立てられる。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。」 これはイスラエルの民自身が求めたことに対する主の答えでした。16節の「」の言葉は出エジプト記20:19で、主の臨在を恐れた民が願った言った言葉でした。

その時、主はモーセに言われました。「彼らの言うことはもっともである。私は彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立て、その口に私の言葉を授ける。彼は私が命じるすべてのことを彼らに告げる。」 預言とは、神の言葉を授かって告げることです。

全能の神の言葉に聞き従うなら、細かい具体的な何がどうなるということは分からなくても、祝福されて、憐れみ深い全能の神の御心がなることが分かります。そこまで分かれば十分であり、神の言葉以上のことを知る必要はないということが御心です。「言葉」が申命記の原語であるヘブル語の題名です。

モーセはもう少しで自分が天に召されることを知っています。そこで自分の後に立てられる預言者にも聞き従うよう命じています。この預言者は直後ではヨシュアですが究極的には主イエス・キリストを指すと思われます。現代においては、神の言葉を授かって語る説教者を初めとするクリスチャンと言えます。

預言者が主の名によって語る主の言葉に聞き従わない者がいれば、主はその責任を追及されます。責任を追及するというのは具体的にはどういうことなのだろうかと思いますが、17:13にあるように、「民は皆、聞いて恐れ、二度と傲慢な振る舞いをすることはないであろう。」ということになるのでしょう。

ただし、預言者が傲慢にも、主の命じていないことを主の名によって語ったり、他の神々の名によって語ったりするならば、その預言者は死ななければなりません。預言者は主の言葉を預かって語る大切な働きを担う者ですから、主の言葉から外れたことを語ったりするなら、その報いは死です。

ですから自分が思ったことを何でも「主に示された」と軽率に他の人に言うことは控える必要があります。「主の命じていないことを主の名によって語る者は死ななければならない。」という言葉の重みを受け止める必要があります。

私自身も説教を準備する時にはとても慎重になります。準備している説教は本当に御言葉に従った物であるのかということです。ただ聖書は良く分からない部分が多くありますので、そこを全部飛ばしてしまうと疑問が残ったままになってしまいます。

そこで聖書からはっきりと分かることと、はっきりとは分からないけれどこのように考えられるということは使い分けて語るようにしています。今日の10、11節の8種類の者は、はっきりとは分からないことの例です。

そうしますと、私たちは心の中で、どの人の、どの言葉が主の語られた言葉ではないことを、どのように知りえようかと考えることになるでしょう。聞いて直ぐに分かることもあります。それは聖書が教えている内容と違っている場合です。そして聖書からずれたことを語る者は、たまたま一度だけずれるのではなく大抵いつもずれるので分かります。

逆に聖書に忠実に語る者でもミスをすることがあります。調べ間違いや勘違い等です。しかしここで問題となっているのは、傲慢さゆえに主の命じていないことを主の名によって語ることですので、人間的なミスは問題にはならないでしょう。

そして最終的にはその預言者が主の名によって語っていても、その言葉が起こらず、実現しないならば、それは主が語られた言葉ではありません。主の言葉は必ず出来事となります。別の言い方では、出来事にならない言葉は主のものではありません。

そのような預言は預言者が傲慢さのゆえに語ったもので、恐れることはありません。なぜならそのような預言者は死ななければならないからです。また気を付けることは13:3にありましたように、例え語ったことが実現したとしても、「他の神々に従い、仕えよう」という者は偽預言者ですので注意が必要です。

誰でも自分が知らないことを知りたい、祝福の道を歩みたい、自分が将来にどのようになるのかを知りたいという思いはあります。しかし神の言葉が書かれた聖書を読めば、私たちが知り得る以上のことが書かれています。そして私たちの罪の贖いのために十字架に付かれた主イエスを信じれば、罪が赦されて祝福され、永遠の命が与えられるという確実な将来を表す福音が書かれています。

福音は最大の預言であって、福音以上の預言はありませんし、自分の将来を変えるものもありません。私たちには王道とも言えるである福音が与えられています。敢えて怪しげな胡散臭いものに手を出す必要は全くありません。聖霊の導きに素直に従って神の言葉である預言に聞き従い祝福の道を歩ませていただきましょう。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。約3千4百年前のイスラエルも現代を生きる私たちも自分の知らないことを知りたいという思いがあります。そして時に怪しげなものに心を引かれてしまう弱い者です。しかし聖書にはこの世の何よりも素晴らしい全知全能の神の言葉が書かれています。

私たちが聖霊の導きに従って怪しげなものに惑わされずに、全知全能の神の知恵である福音を信じて祝福の道を歩んで行くことができますようにお導きお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。