「神の栄光を見る」 

2023年8月20日礼拝説教 
ヨハネによる福音書 11章28~44節

        

主の御名を賛美します。

1、涙を流された主イエス

マルタとマリアの兄弟であるラザロが亡くなって、恐らくこの日は四日目のことと思われます。20節で、主イエスを出迎えに行ったマルタは先に主イエスと話をしました。そしてマルタは主イエスに導かれて27節で、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」と信仰告白を行いました。

主イエスはもう一人、心に掛けておられる人がいます。それはラザロの病気を人をやって主イエスに伝えたもう一人であるマリアです。主イエスは姉のマルタと話をしたのでもうそれで妹のマリアにも伝わるだろうとするのではなく、一人一人に丁寧に直接に対応を行われます。

そこで主イエスはマルタに、マリアに話があると伝えられたようです。マルタはマリアに、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちをしました。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、主イエスのもとに行きました。

20節では主イエスが来られたと聞いても家で座っていたマリアですが、自分が呼ばれていると聞くと、すぐに立ち上がって行く、ここぞという大切な時には直ぐに行動に移す人です。私たちも主に呼ばれたら直ぐに行動するマリアと同じ姿勢でありたいものです。

主イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられました。主イエスはなぜご自分からマリアのいる村には入って行かれなかったのでしょうか。3つの理由が考えられます。1つ目は、主イエスはラザロの墓に行かれるご予定で、墓は郊外にありますので村に入る必要はないことです。

2つ目は、主イエスはマリアと静かな所で話すことを望まれて村には入らなかったと思われます。3つ目は、8節にありましたように主イエスを殺そうとしている者がいますので村に入ることによる混乱を避けられたと思われます。

マリアはすぐに立ち上がって出て行きました。マリアはマルタから耳打ちをされて聞きましたので、他のユダヤ人たちはマリアが主イエスに呼ばれたことを知りません。この当時の習慣として、墓に葬られてから1週間は、墓に行って嘆き悲しむことになっていましたので、一緒にいたユダヤ人たちはマリアが墓に行って泣くのだろうと思って後を追いました。墓に行って共に泣くためです。

マリアは主イエスのおられる所に来て、主イエスを見るなり足元にひれ伏しました。足元にひれ伏すというのは礼拝をするという意味です。マリアはここでは主イエスの足元にひれ伏し、12:3ではナルドの香油を主イエスの足に塗る、本当に謙遜に仕える人です。

マリアは主イエスに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。これは21節で姉のマルタが言ったのと全く同じ言葉です。二人の姉妹はこの言葉を何度も繰り返して言っていたのだと思われます。

マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣きました。マリアもユダヤ人も泣いたのは勿論、ラザロの死の悲しみのためですが、マリアは兎も角、一緒のユダヤ人はこの当時の儀式、習慣として泣く意味もあるようです。この当時は「泣き女」という職業もあり、葬儀等で泣くことによって悲しみを盛り上げるためのものです。しかしそれはある意味で皆が泣くべき時にきちんと泣くためのものです。

しかし主イエスはその様子をご覧になられて、憤りを覚えられて、心を騒がせられました。主イエスは何に対して憤りを覚えられて、心を騒がせられたのでしょうか。少し疑問に感じる言葉です。新改訳は原語に近く、「霊に憤りを覚え」と訳しています。この憤りはこの世のことと言うよりも霊的な憤りです。

はっきりとしたことは書かれていませんが、人は神のかたちに造られたにも関わらず、罪のために死ぬ存在になってしまったこと、そして今、その死と悲しみに支配されていることに対する憤りと考えられます。主イエスの「どこに葬ったのか」という問いに、彼らは、「主よ、来て、ご覧ください」と答えました。

主イエスは涙を流されました。主イエスの涙は死を悲しむ人と共に悲しむ涙です。私たちは葬儀等に出席し、愛する人の死の悲しみの中にある遺族と顔を合わせる時に何と言ったら良いのかと戸惑うものです。主イエスは何も言われずにただ涙を流されました。私たちも同じでも良いのではないかと思います。

私が英国で日本語教会に通っていた時のことで、英語学校のクラスメートに1人の日本人の女性がいました。2人の小学生の男の子の母親で、頼まれて私は子どもの家庭教師をしていました。私が教会に通っていることを知って、その人は子どもの時に教会に通っていたことを話してくれました。

しかしその女性の幼い妹が病気で亡くなった時に、教会の人から、「おめでとう。妹さんは天国に行ったのよ。」と言われたそうです。教会の人がその女性を何とか励まそうとしたという気持ちは分かります。しかしその女性は大切な妹が亡くなった時に、「おめでとう。」と言われたことがショックで教会には行かなくなったとのことでした。

その時の私は教会のことも余り良く知らなかったので何も言うことが出来ませんでした。悲しみの中にある人を何とか慰めて励ましたいという思いは誰にでもあるものです。そして何とか言葉を考えようとするものですが、難しいものです。もしかすると何も言わなくても良い時もあるのかも知れません。

コヘレトの言葉3章は、「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある。泣くに時があり、嘆くに時がある。」と言います。そしてローマ12:15は、「泣く者と共に泣きなさい。」と言います。泣く時には泣き、泣く者と共に泣くということです。

ユダヤ教では埋葬から7日間と30日間の2種類の喪に服する期間があります。申命記34:8で、モーセが亡くなった時にモーセのために泣く喪の期間は30日間でした。私は葬儀の時にはいつも何を話したら良いのかという葛藤があります。

正直なことを言いますと、葬儀の時には亡くなられた方を偲んでただ嘆き悲しむだけで良いのではないかとも思います。泣くに時があり、嘆くに時があるからです。泣く時にきちんと泣き、嘆く時にきちんと嘆かないで無理をして我慢をしたりしてしまうと、心が次の段階に進めなくなってしまいます。

以前は仏教の49日に何の意味があるのだろうかと思っていました。しかし49日間という日数はどうかは別にしても、喪に服して悲しむ期間をきちんと設けて悲しみ、その後は日常生活に戻るという区切りをつけることにも意味があるようにも思えます。

ただ現実的には葬儀でお会いする人は、葬儀の時の1回だけでもうその後には会う機会の無い人が多くいますので、本来は悲しむ時である葬儀の中で、天国での再会の希望のことまでも語っています。本当にそれで良いのだろうか、少し先走り過ぎなのではないかということはずっと考えさせられています。

主イエスは涙を流されましたが、主イエスはこれからラザロを生き返らされます。そうであるなら涙を流される必要もないような気もしてしまいます。しかし主イエスは死の悲しみの中におられる人と共に涙を流してくださるお方です。

主イエスの涙を見たユダヤ人たちは、「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」と言いましたが、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいました。

いつの時代でもどこの世界でも、自分の限られた知識や考えが全てで丸で自分が神になったかのように他の人をさばくという罪があります。更にこのユダヤ人たちは人ではなく神をさばいていました。自分の考えを中心とするのではなく、いつも御心を求めて知る者でありたいものです。

2、神の栄光を見る

主イエスは死と罪に支配された状況に再び憤りを覚えられて、墓に来られました。墓は洞穴で、石で塞がれていました。墓は岩を掘った横穴の洞穴で、大きな丸い石で塞がれていたと考えられています。主イエスが、「その石を取りのけなさい」と命じられると、マルタが、「主よ、もう臭います。四日もたっていますから」ととても常識的な答えをしました。

普通に考えれば、ドライアイスも無く、四日も放置されていれば腐敗が進んで臭うことでしょう。姉のマルタとすれば愛する弟ラザロのそのような状態を人前に晒すのは憚られたことでしょう。しかし主イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と4節でマルタに言われたことを思い出させました。

この箇所を読んでいて、「臭い物に蓋をする」ということわざが思い浮かびましたが、この聖書箇所から出来たのでしょうか。私たちは自分の罪や失敗等の臭い物には蓋をして隠そうとしてしまうことがあります。しかし蓋をして隠そうとすればする程に腐敗が進み、臭いが広がって返って多くの人に気付かれるものです。

しかし主を信じて主の前にすべてを曝け出せば、万事を共に働かせて益としてくださる主が神の栄光へと変えてくださいます。この箇所では、「石」という言葉が3回使われて強調されていますがどのような意味があるのでしょうか。全能の神である主イエスにとって、人々に石をわざわざ取りのけてもらう必要は特にありません。

しかし主イエスは人々が自らの手で臭い物に蓋をしている石を取りのけることを望まれました。それは一つは、自らの手で石を取りのけることによって、その洞穴の中に葬られていたのはラザロであることの証人となります。そしてもう一つは、人々が不信仰という心の石を取りのけて欲しいという願いでしょう。

人々は主イエスのご命令の通りに石を取りのけました。その様子をご覧になられた主イエスは目を上げて、「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」と言われました。

 

ラザロの生き返りのしるしは、ヨハネによる福音書で7番目の最後の主イエスのしるしです。それはこの後にラザロと同じように生き返る主イエスの復活の予型です。そしてしるしの目的は人々が心の石を取りのけて、父なる神が主イエスをお遣わしになったことを信じるためです。神の栄光とはラザロが生き返ること自体ではありません。ラザロの生き返りはしるしであり、神の栄光とはしるしをとおして人々が主イエスを信じることです。

主イエスが、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。ここで死んでいた人が出て来たというのは、それはラザロだけのことではなく、死んだ人は皆、主イエスに一人一人の名前を大声で呼ばれて出て来る時が来るということです。

顔は覆いで包まれていましたので、もしかするとその時点では、出て来た人がラザロであるかは不確かであったかも知れません。しかし四日も石で塞がれていた後に、ラザロと名前を呼ばれて出て来て、布の様子からもラザロであったことは確かだったことでしょう。

そこでラザロ本人を確認するためではなく、布が巻かれていて歩き辛いからだと思いますが、主イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われました。マルタとマリアの願いは自分たちの期待していたかたちとは違いましたが、神の時に十分に叶えられました。そして主イエスを信じる信仰も強められたことでしょう。

ラザロの死は主イエスの預言のとおりに神の栄光のためとなり、ユダヤ人の多くが主イエスを信じました(45節)。しかし全く同じしるしを知った祭司長たちとファリサイ派の人々は主イエスを妬んで殺すことを決意します。神を信じ神に仕えると言っている人々が、自分たちの立場を守るために、父なる神がお遣わしになった神の子を殺すという、正に神をも恐れぬ恐ろしいことを行います。

人の罪は恐ろしいもので、残念ながら似たような罪はいつの時代でもどこの世界でも行われています。聖霊の導きを求めて、自分の考えを捨てて、神の御心を求めて従うなら、神の栄光を見ることが出来ます。そして信仰は強められて行きます。しかし同じ神の栄光を見ながら罪を犯す決意を行う者もいます。

私たちにはラザロの生き返りよりも大きな、主イエスの十字架と復活のしるしが与えられています。

それは私たちが神の栄光を見て、信じて、永遠の命を得るためです。神の栄光を見ながら罪を犯す決意をし滅びに至るのは余りに愚かなことです。間違った方向に進むことがないように、御心を求め、聖霊に導かれ、聖霊と共に歩ませていただきましょう。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。「もし信じるなら、神の栄光を見る」と言われ、私たちは誰でも信じ続けて、神の栄光を見たいと願うものです。しかし、自分の兄弟が亡くなるというような極限の状態で、常識を超えて主の言葉を信じ続けることは何と難しく感じることでしょうか。

とても人の思いで出来ることではありません。どうぞ聖霊の力によって私たちの心にある不信仰の石を取りのけさせてください。そして神の栄光を見て主を賛美し更に信仰を強めてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。