「復活であり、命である主イエス」 

2023年8月13日礼拝説教 
ヨハネによる福音書 11章1~27節

        

主の御名を賛美します。今日は聖書箇所が突然にヨハネによる福音書で、どうしてなのだろうと思われるかも知れません。実は先週の月曜日から水曜日迄の3日間の勧士セミナーで奉仕をして、その時に行ったことがヨハネによる福音書の11章から説教を作成することでした。これも一つの導きであると信じて私も取り組むことにしました。

1、病気

ある病人がいました。2~6節で、「病気」という言葉が繰り返し4回使われて強調されていて、この病気はとても深刻なものです。私たちはこの世の様々な深刻な病気や事故等を毎日のようにニュースで知ったり、人から聞いたりしますので、この世には深刻な病気があることを知ってはいます。

しかしそのようなことが自分の身や自分の愛する家族に起こると、まさかと思い、なぜ私にこのようなことが起こるのだろうかととても驚くものです。他の人に起こることと自分の身に起こることは全く別次元のように感じるものです。

そしてここにいるような病人は2千年前のこの時だけではなく、現代を生きる私たち一人一人の身の回りにもいます。「ある病人がいた。」ということは私たちのすべてが置かれる状況を指しています。

この時の病人はラザロという男性です。ラザロの名前はヘブル語のエルアザルのギリシャ語名で、「神は助ける」という意味です。場所はべタニアというエルサレムから南東に3キロ弱のところで、べタニアは「イチジクの家」の意味と考えられ、「貧しい家」、「主の憐れみ」等と考えられています。

ラザロの兄弟関係はどうなっているのかと、2、5節から考えますと、マルタが長女、マリアが次女、ラザロがその下の弟と考えられます。1節で、次女のマリアの名前が最初に挙げられているのは、この後の12章に記されている、主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭ったこと等によるようです。

マルタとマリアの姉妹たちは兄弟ラザロの病気のために主イエスのもとに人をやりました。主イエスは10:40によると、ヨルダンの向こう岸(東側)、ヨハネが初めに洗礼を授けていた所に滞在されていましたので、そこは1:28によるともう一つのべタニアでした。

姉妹はそこで、「あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と言わせました。主イエスはこれまでにも何度もべタニアを訪れてマルタの家に滞在していたようです。それで、「あなたの愛しておられる者が病気なのです。」と言うだけで病人はラザロであると伝わると思ったようです。

またこの言葉には主イエスに信頼する姉妹の信仰が込められています。今日の個所はルカ10:38~42の有名なマルタとマリアの話の後の出来事のようです。ルカの個所でマルタは、「もてなしを手伝わずに座って主イエスの話を聞いている妹のマリアに、私を手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と神の子である主イエスに対して指示をするという間違いを犯してしまいました。

しかし今回はそのような間違いは犯しません。主には状況だけを伝えて後は全てをお委ねするという、信仰深い対応を取りました。主が最善をなしてくださると期待していたことでしょう。主イエスはそのような信仰的な姉妹を更に導かれるために言われました。「この病気は死で終わるものではない。」と。 

この文章は直訳すると口語訳の、「この病気は死ぬほどのものではない。」です。聖書協会共同訳は、この後の話の展開を考えて意訳をしているようです。その後には、「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と付け加えました。この言葉は直ぐに姉妹に伝えられたことでしょう。

しかし17節の文章を考えると、実際にはこの言葉が言われたのとほぼ同じ頃にはラザロは亡くなったようです。マルタとマリアはどのような思いでこの言葉を聞いたことでしょうか。ラザロが病気だと聞いてから、なお二日間、主イエスは同じ所に滞在されましたが、特に急用があった訳ではないようです。

全能の主イエスはラザロが亡くなったことをご承知の上で、敢えて二日間、同じ所に滞在されたようです。その後で、主イエスは弟子たちに、「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」と言われました。

弟子たちは主イエスご自身から「この病気は死ぬほどのものではない。」と聞いていましたので、「ラザロが眠っている」というのは、きっと病気が良くなって今はぐっすりと眠っていることと思ったようです。そこで弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と最もなことを言いました。

敢えて起こしに行く必要などは無いのではということです。主イエスはラザロの永遠の眠りである死について話されたのですが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思いました。そこで主イエスははっきりと、「ラザロは死んだのだ。」と言われました。弟子たちは一体、何が起こっているのだろうか、また主イエスは何を言われているのだろうかと思ったことでしょう。

更に主イエスは、「私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。」と言われますが、何がよかったのでしょうか。また、「あなたがたが信じるようになるためである。」と言われますが、何を信じるようになるためなのでしょうか。

2、マルタの信仰告白

主イエスがヨルダン川の東側のべタニアから西側のべタニアに行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られてすでに四日もたっていました。ラザロは亡くなって直ぐに墓に葬られたようです。マルタは、主イエスが来られたと聞いて迎えに行きましたが、それに対してマリアは家で座っていました。

やはり、マルタはもてなしを大切にする行動的な人で、マリアは内省的な人です。マルタの名前の意味は「婦人」です。マルタは主イエスに言いました。「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」この言葉は真実です。憐れみ深い主イエスがラザロが亡くなりそうな時におられたのなら、そうはならなかったことでしょう。

だからこそ、マルタとマリアは主イエスのもとに人をやって知らせました。しかしこの言葉は、ただ事実を述べるだけで、それなのにどうして直ぐに来てくれなかったのかというような責める感じはしません。更にマルタはこのような状況にあっても、「しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」ととても信仰深い告白をします。

マルタの信仰告白に応えられるように主イエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。それに対してマルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言いました。この当時、祭司等を中心としたサドカイ派は死者の復活を否定していましたが、ファリサイ派は認めていました(使徒23:8)。

マルタの答えは当時の信仰者としては普通の答えであり、現代のクリスチャンにとっても普通の答えと言えます。しかしそれは主イエスが求めておられた理解ではありませんでした。そこで主イエスは更に言われました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

かなり難しいことを言っているように感じます。本来は、死ぬことと生きることは真逆のことで、「死んでも生きる」ということはどういうことなのだろうかと思いますし、「決して死ぬことはない」などということがあり得るのだろうかとも思います。しかし主イエスは「このことが分かるか」とは聞いていません。

「このことを信じるか。」です。「信じる」というのは自分が分かるか分からないかではありません。自分には分からなくても、信仰によって受け入れるということです。39節のマルタの言葉を見ると、マルタはこの時の主イエスの言葉の意味を理解はしていなかったと思われます。

しかし、「このことを信じるか。」と問われたマルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」と素晴らしい信仰告白を行いました。主イエスが25、26節で言われた今日の中心聖句の意味をマルタは良くは分かりませんでした。

しかし主イエスが来られるはずの神の子、メシアであると信じています。だから神の子の言われることは良く分からなくても信じるということです。私たちも良く分からないことでも自分が信じる信頼する人が言うことは信じるものです。信仰とはそのようなものです。

3、復活であり、命である主イエス

これまでに今日のラザロの死と生き返りの聖書個所から私は礼拝説教をしたことはありませんでした。一つの理由は、福音書は以前にマタイによる福音書から説教を行いましたが、マタイによる福音書にはこのラザロの記事がないからです。そしてもう一つは、この箇所から何を説教をすることが出来るのかという戸惑いがありました。

東京聖書学院で修養生をしていた時に、遣わされていたミッション先の教会で葬儀がありました。亡くなられた方は私が中高科で担当していた生徒のお母さんで、車で撥ねられた突然の事故死でした。葬儀の最中、中学生の生徒はお母さんの足を擦りながら祈っているように見えました。

明らかにこのラザロの記事等を思い出して最後の望みを掛けて生き返りを祈ったのだと思います。来週の内容になりますがラザロは聖書に書かれているとおりに実際に生き返ったと私は信じています。しかし現代においては、この世で一度死んだ人がラザロのように生き返ることはありません。

それはある意味で、マルタが24節で言った、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」という理解です。そうであるなら主イエスが25、26節で言われた御言葉はどのような意味があるのでしょうか。特に、「死んでも生きる、決して死ぬことはない」という御言葉です。

一つ目の意味は文字通りに、この世で肉体的な意味でラザロのように生き返ることです。主イエスが15節で、「あなたがたにとってよかった。信じるようになるためである。」と言われたのは、ラザロの生き返りをとおして、弟子たちが主イエスが神の子であり、復活であり命であることを信じるようになるためによかったということです。

しかしラザロはこの世において生き返りましたが、そのようなことは現代においてはもう起こりません。またラザロはこの世において一度は生き返りますが、やはりこの世の死を迎えます。ラザロの生き返りは将来に皆が生き返ることの保証です。

二つ目はこの世での霊的な意味です。この世で肉体的には生きていても霊的には死んでいるような、生きる屍のような人生もあります。しかし例えどんなに酷い状態でも、復活であり、命である主イエスを信じる者は、主イエスの復活の命に与り、生き生きと生きる者と生き返されて決して死ぬことはありません。

三つ目はこの世での肉体的な意味での死と霊的な意味での生です。この世で生きているすべての人は遅かれ早かれ必ずこの世の死を迎える時が来ます。しかし主イエスを信じる者が死を迎える時には、主イエスが共にいてくださり、この世からパラダイスへと導いてくださいます。

「死んでも生きる。決して死ぬことはない。」というのは肉体的には死んでも、滅びるのではなく、霊的に生き続けるということです。神学者のブルトマンは、「信仰者に究極的な意味における死は存在しない。死ぬということが、そのひとにとっては、非本質的なこととなってしまったのである。」とまで言っています。慰めに満ちた励ましの言葉だと思います。

四つ目は、愛する人の死を迎える者にとっての霊的な意味です。神学的に例えどのような説明をされても、愛する人の死を迎えることは大きな痛みです。以前に米国で人生最大のストレスの調査が行われ、その答えは「伴侶の死」でした。「家族の死」も同様とのことでした。

そのような大きな痛みの中にある人にとって、「死んでも生きる、決して死ぬことはない」という御言葉はどのように受け止めることが出来るのでしょうか。この世で生きている人は自分の外側に存在しています。しかしこの世の死を迎えることによって自分の外側にいた存在はいなくなります。

自分の外側にいた存在がいなくなるとその人はいなくなるのでしょうか。そうではないように感じます。今度は自分の内側に存在するように感じます。私の人生で私のことを「のぶ」と呼ぶのは、亡くなった両親と兄の3人だけでした。今でもはっきりとその声と共に覚えていて思い出します。

これはただの思い出ということではありません。今は直接には会えないけれど天国で会えるという希望と共に私の中で3人と次男は生きています。生きてはいるけど今は電波の届かない地域にいるようなものです。母と兄は受洗しており父は受洗していませんが細かいことは気にしません。

「私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す。」(申命記5:10)と言われる憐れみ深い神に信頼するのみです。この世の死を決して軽く考えることは出来ません。ましてや死の悲しみの中にある方には慰めのあることを祈りのみであり、軽々しい言葉は控えるべきです。

しかし、私たちの救いのために十字架に付かれた主イエスは、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と私たちに問われます。良く分からないこともあるかも知れません。しかしマルタのように聖霊の導きによって信仰によって、「はい、主よ」と応えて信じて歩ませていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。決して死ぬことはない。」と言われます。私たちには良く分からないこともあります。しかし主の言葉を信仰によって受け入れることが、死の悲しみを癒す唯一の希望であると信じます。

今、病気で悩んでおられる方、また愛する病人を抱えておられる方に主の慰めと励ましがありますようにお祈りします。どんな時にも聖霊の導きに従って、復活であり命である主イエスを見上げて歩めますようにお導きお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。