「無実の者の血」

2023年9月3日礼拝説教  
申命記 19章1~21節

        

主の御名を賛美します。

1、逃れの町

今日の個所の前は預言者の語る主の言葉に聞き従いなさいという内容でした。今日の前半は逃れの町の内容です。少し前にも聴いたことを覚えていると思いますが、第一の説教の終わりの4:41~43にも逃れの町の内容がありました。合間合間に逃れの町の記事があることの意味を味わいつつ御言葉を聴かせていただきます。

4:41~43はヨルダン川の東側に取り分ける3つの逃れの町についてでした。今日の個所はヨルダン川の西側に取り分ける3つの逃れの町についてです。ヨルダン川の西側の領土を三つに分けて、ナフタリの山地、エフライムの山地、ユダの山地とします。

それぞれの逃れの町はヨシュア20:7で北から順番に、ケデシュ、シェケム、ヘブロンとあります。

ヨルダン川の東側と西側で場所は違いますが、逃れの町の意味は同じです。逃れの町の意味はいくつかの意味があると言うよりも、段階を追った意味があるように思えます。

譬えとして相応しいか分かりませんが、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な展開して行く意味があるようですので順を追って御言葉を聴かせていただきます。第1段階は、「人を殺した者が誰でもそこに逃げられる」ためです。人を殺した殺人者は誰でも逃れの町に逃げることは出来ます。

しかしそこで生き延びられるのは、隣人を以前から憎んでいたわけではなく、過って打ち殺した、過失の殺人の場合です。具体的な例として、「隣人を伴って木を切りに森に入り、切ろうと斧を振り上げたとき、斧の頭が柄から抜けて、隣人に当たって死んでしまったような場合」です。

私たちも同じような状況の時には、そのような事故が起こることのないようにと一応は気を付けるものです。しかし、「事実は小説よりも奇なり」と言われるように、まさかこんなことが起きるなんてと思うようなことが現実には起きるものです。一緒に森に入って木を切りに行くのですから仲が悪い訳ではないでしょう。むしろ仲は良かったのかも知れません。

私たちも仲が良いが故に一緒に行動していて、過失による事故によって命が奪われるということが起こり得ます。そのような時に過失の殺人者は、これらの町の一つに逃れて、生き延びることが出来ます。逃れの町の第1段階の意味は過失殺人者が逃げることでしたが、逃げるということは第2段階の意味として、生き延びることです。

そして過失によって殺された者の家族等の血の復讐をする者が激昂して人を殺した者の後を追い、遠い道のりを追いついて、打ち殺すことがあってはなりません。逃れの町の第2段階の意味は過失殺人者が生き延びることでしたが、生き延びることは第3段階の意味として、血の復讐者に復讐をさせないことです。

それは過失殺人者は以前から殺された人を憎んでいたのではないから、殺される理由がないからです。第3段階の血の復讐者に無実の者に復讐をさせないことは、第4段階の意味として、無実の血が流されることはないことです。それ程に、無実の血は流してはいけないということです。

そして無実の血が流されることはないことは、第5段階の意味として、あなたに血の責任が問われることはないのです。それは裏を返せば、無実の血が流されるなら、あなたに血の責任が問われるということです。

逃れの町の意味は、第1段階では過失殺人者が逃げるためのものでしたが、順を追って行くと、第5段階では、無実の血が流される血の責任をイスラエルの全ての人が問われることのないためです。逃れの町は一見すると過失殺人者が逃げるためのものであるように思われますが、実はそれはイスラエル全ての人が血の責任を問われないためのものです。

2、故意の殺人者

次は過失の殺人者ではなく、明らかに殺す意志を持って、隣人を憎んで待ち伏せし、襲い掛かって打ち殺して、逃れの町の一つに逃れた場合です。故意の殺人者の町の長老たちは人を遣わして殺人者を捕らえ、血の復讐をする者に引き渡さなければなりません。

故意の殺人者は死ななければならず、故意の殺人者に憐れみの目を向けてはなりません。そして無実の者の血を流した過ちをイスラエルから取り除きなさい、と言います。原文では、「無実の者の血をイスラエルから取り除きなさい」と書かれています。

無実の者の血を流すとその責任は故意の殺人者だけではなく、イスラエル全体のものとなります。無実の者の血を取り除くには故意の殺人者の血が必要になります。それによってイスラエルから無実の血を取り除くことになります。

ここで初めの過失の殺人の場合に、無実の血が流されないならイスラエル全体に血の責任は問われません。そして後の故意の殺人者が無実の者の血を流した血の責任は殺人者自らが負わなければなりません。

ここで過失の殺人者である無実の者の血が流されないこと、故意の殺人者が血を流すことは、共に最終的にイスラエルが幸せになるためです。逃れの町は何のためのものですかと問うなら、それはあなたが幸せになるためです。

3、偽りの証人

ただここで、過失の殺人者は隣人を以前から憎んでいたわけではなく、故意の殺人者は隣人を憎んでいたと言いますが、それはどのように判断されるのかという問題が出て来ます。そこで、どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはありません。

人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければなりません。これは聖書で何度も繰り返される決まりです。ただここで問題があります。それは悪意のある証人が立ち、相手に対して不利な証言をする場合です。確かにこのようなことは起こり得ます。

そのような場合には、裁き人は子細に調査し、その証人が偽りの証人であり、同胞に対して偽証したのであれば、その者が同胞にたくらんだことである悪を彼自身に行わなければなりません。それは神の民の中から悪を取り除くためです。

この箇所を読むとエステル記を思い出します。大臣のハマンは自分にひざまずいてひれ伏さないユダヤ人のモルデカイに憤って、ユダヤ人を滅ぼす策略を立てます。しかしその策略は王の知ることとなり、ハマンはモルデカイをつるすために立てた柱に結局は自分自身がつるされることとなります。

13節では無実の者の血をイスラエルから取り除きなさいとあり、18、19節では、偽りの証人にたくらんだことを行って悪を取り除きなさいと言います。悪を取り除く時には、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足です。これは同害報復法と言われます。

しかし同害報復法には誤解があるようで、目には目というのは、目に危害を加えられたら同じように目に危害を加え返さなければならないということではありません。これは報復の上限を決めたもので、目に危害を加えられたら、報復をしても良いのは目迄であって、それ以上の報復は行ってはならないという意味です。

神の民は聖なる共同体ですから、無実の者の血や悪を曖昧にして放置をしてはなりません。無実の者の血や悪を取り除くことによって、他の者たちはこれを聞いて恐れ、あなたの中でこうした悪事が二度と繰り返されることはなくなります。そこに神の祝福があり幸せになります。それが聖なる神の共同体の姿です。

4、無実の者の血

しかしここで問題も残ります。過失の殺人者は殺意があった訳ではありませんので、逃れの町で生き延びることはできます。しかしいくら殺意が無かったとはいえ、人を殺してしまったという良心の呵責は残ります。

また過失で殺されてしまった遺族としては、いくら過失とは言え、家族が殺されてしまったその悲しみと怒りの持って行く先がありません。故意の殺人でも同じです。いくら故意の殺人者が復讐者に殺されても被害者の遺族には何の慰めにもなりません。

この問題は当時は大祭司の死により終わることになっていました。大祭司の死によってすべてを水に流して無かったことにするということです。また逃れの町の大原則は、無実の者の血を流さないということです。そして無実の者の血が流されたなら必ず血によって過ちを取り除くことです。

私たちは罪を犯そうという意図はなくても、過失によって罪を犯してしまう罪人です。そして時には感情的になってしまい、故意の罪を犯してしまうこともあるものです。しかし私たちの大祭司であり、完全に無実である主イエスが私たちの贖いとして十字架で無実の血を流してくださいました。

現代にも逃れの町があるのかと問われるならあります。それは主イエス・キリストです。現代の逃れの町である主イエスに元に逃れるならすべての罪は赦されます。どんな過失の罪、また故意の罪であっても、悔い改めるなら赦されます。主イエスは全ての罪から逃げるために、私の元に来なさいと招いておられます。

教会というのは主イエスを頭とする体ですので、逃れの町は主イエスご自身であると共に教会と言えます。私たち夫婦が以前に通っていた教会に中村穣先生がおられて、今は逃れの街ミニストリーというミニストリーを主催されています。

私たちの茂原キリスト教会も逃れの町です。逃れの町であるキリスト教会には色々な事情を抱えた方が来られます。色々な事情を抱えていて良いのです。元々、逃れの町は色々な事情を抱えた方が来られるところだからです。それをあれこれと人が詮索する必要はありません。

色々な事情を抱えた方がその重荷をただ主イエスの元に置けるように手助けをするのが教会の役割です。自分が犯してしまった罪、人から犯された罪、それらすべてを逃れの町である主イエスに委ねます。主イエスはそれらすべてのために既に十字架に付かれました。

それは私たちが幸せになるためです。逃れの町である主イエスの元に行って、聖霊の導きの中で、私たちの中にある過ちと悪を悔い改めて取り除いていただきましょう。そして主が私たちに望まれるように幸せにならせていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは過失の罪を犯してしまった人が逃げるために逃れの町を設けられました。私たちは過失の罪、故意の罪も犯してしまう弱い罪人です。しかしそのような私たちのために主イエスが十字架で無実の血を流してくださり、信じる者の過ちと悪を取り除き幸せにしてくださいますから有難うございます。

何が罪、悪であるかは聖なる神のみが決められることであり、私たち人間には例え良かれと思っていても計り知ることのできないことです。聖霊の導きの中で私たちがいつも自分を探り、謙虚に謙り、悔い改めさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。