「見えないものに目を注ぐ」

2023年9月10日礼拝説教  
Ⅱコリント 4章16節~5章10節

        

主の御名を賛美します。台風の大雨による洪水で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。暑さの中で片付けなど大変だと思いますが、スムーズな回復がなされますようにお祈りいたします。

今日はこの後に敬老祝福式が行われます。敬老祝福式という言葉の意味を改めて考えてみますと、敬老とは、老、老いた人を敬い、そして祝福する式です。しかし老いるということは世間一般では余り肯定的には捉えられていなように感じます。信仰は建前だけではなく、本音で考えることが大切だと思います。聖書はどのように教えているのか、御言葉を聴かせていただきましょう。

1、外なる人

使徒パウロは、「私たちの外なる人が朽ちるとしても」と言います。ここで「外なる人」というのは何を指しているのでしょうか。今日の個所には対になっている言葉が何組もありますが同じものを指しています。「外なる人」を、18節では「見えるもの」と言い、5:1では「地上の住まいである幕屋」、そして5:6でそれは「体」であると言います。

新改訳は、「外なる人は衰えても」と穏やかに訳しますが、聖書教会共同訳は、「外なる人が朽ちる」とストレートな訳です。体が朽ちると言われると、それはそうかも知れませんが、小心者の私などは、どきっとしてしまいます。外なる人である肉体が朽ちる理由はここでは二つ考えられます。

一つは8、9節にあるように苦しい状況です。具体的には、四方から苦難を受けていて普通なら行き詰まり、途方に暮れていて普通なら失望し、迫害されていて普通なら見捨てられ、倒されていて普通なら滅びるような苦しい状況です。普通なら体は徐々に弱って行くでしょう。

そしてもう一つは年齢的な理由です。この手紙を書いた時のパウロは50歳位と考えられます。現代ですと50歳はまだまだ働き盛りですが、この当時は現代よりも寿命が短くパウロも肉体的な衰えを感じていたようです。現代では肉体的なピークは20代と言われます。

スポーツ等では30代、40代でも活躍する人はいます。しかしそれは純粋な体力と言うよりも、技術や経験等が生かせる場合です。純粋な体力だけですとピークはやはり20代となるでしょうか。年齢を重ねて行くと体力、精神力共に確実に衰えて行きますので、それだけでも初めは結構なショックなものです。

更にそれまでは出来ていたことが段々と出来なくなって行くと精神的にもショックを受けます。私たちが見えるものであり、一時的であり、外なる人である体だけに目を留めているなら、ピークを迎える20代迄は満足を得られるかも知れませんが、ピークから体力的に衰えて行くその後の人生の三分の二は落胆し続けることになります。

ただいくら苦しい状況でも若さがあれば若さだけで何とか乗り切れるということはあるかも知れません。また年齢を重ねていても毎日が楽しく問題がなければそれ程の衰えは感じないかも知れません。しかし年齢を重ねて衰えを感じているところに、苦しい状況に追い込まれると、若い時以上に堪えるものです。

私たち人間は土の器であり、脆く壊れやすいものです。パウロはそのような苦しい状況と肉体の衰えという二重の苦しみの中にいます。それでもパウロは、1節の1回目の「落胆しません」に続いて、2回目の、「私たちは落胆しません」と宣言します。2回も「落胆しません」と宣言するのは、普通なら落胆するのが当然のような苦しい状況だけど、そのようなことは決して無いという力強い確信です。

2、見えないものに目を注ぐ

パウロが2回も「落胆しません」と宣言するその根拠は何でしょうか。それは、私たちの外なる人が朽ちるとしても、内なる人は、日々、新たにされていくからです。「外なる人」に対して「内なる人」です。「内なる人」は、18節では「見えないもの」と言い、5:1では「神から与えられる建物」、それは5:6の「体」に対して、「霊、霊の体」と言えます。

私たちの内なる人である霊は、肉体の衰えとは関係なく、日々、新たにされていきます。これは教会員を見ていてもそうであると教えられます。私たちが高齢者を敬うのは、体力的には衰えているかも知れませんが、内なる人が日々、新たにされているからです。私たちは見えないものである霊に目を注ぎます。見えないものは永遠に存続するからです。

私は牧師になる前の信徒の時に、このことが良く理解出来ていませんでした。死を迎えようとしているある人の面会に何度も通っていました。その時の私の心の中にある思いは、私がここに来ていることも、もうこの人には分からない。面会に来ることは私には意味があるけれど、この人にとって私が面会に来ることにどのような意味があるのだろうかと感じていました。

私はその時にこの世の見えるものだけを見ていました。しかしある時にここの聖書箇所が思い浮かびました。そしてこの人にはもう目には見えないし、言葉も通じないかも知れない、しかし生きているのですからそこにはその人の霊が存在している。それならば霊の交わりをしようと思いいたりました。

それからは面会に行く時には、暗い雰囲気は一切出さずに、明るく交わるようにしました。自分を訪ねて来る人が暗い顔をしていたら嫌なものです。明るい顔でなければ相手に対して失礼だと思ったからです。そしてそれはこの世だけで終わるものではなく、永遠に存続する交わりです。

私は初めからこのことをもっと良く分かっていたら、暗い面会をしないで済んだのにという思いがありました。そして牧師になる思いが与えられた時には、この霊の交わりの出来ることは全ての人に伝えたいと思いました。そしてそれは私自身も母との面会に生かすことが出来ました。

母は認知症の症状もありましたし、召される前には会話が出来ないこともありました。しかしその時には見えるものに囚われずに済みました。この世で見える状況は難しい時もあります。しかしどんな状況でも霊の交わりは出来ます。これはクリスチャンに与えられた特権かも知れません。

教会員やその関係の方の訪問をする時に、目も閉じられて寝たきりになっている場合もあります。ご家族からはもう意志の疎通は出来ないと言われることもあります。残念なことではありますが、そのような状況は私は気にはしません。それは会話は出来なくても、見えないものに目を注ぎその方と霊の交わりは出来るからです。

高齢や認知症等で上手く会話が出来なくなることもあります。また病状によっては目も開けることが出来なくなり話すことが出来なくなることもあります。それはとてもショックなことであると思います。しかしそれは全ての人、誰もが通る道です。しかしもしもその状態が自分であったならどうでしょうか。

自分が感じていることや思っていることを言葉などにして表すことが出来なくなっています。その時に家族から、この人にはもう何を言っても通じないし分からないという態度を取られたらどのように感じるでしょうか。この世の人生の最後の段階で、そのようであったなら寂しいものです。

言葉で言っている内容は、文章として論理的には理解は出来ないかも知れません。しかしその言葉に込められた霊的な意味、愛などは伝わります。そしてこのような霊の交わりというのは、超高齢者になったら突然に始めるというよりも、もっと前から始めても良いと思います。

衰えが出始めたら少しづつ、見えるものではなく、見えないものである霊に目を注ぐことに移行をして行く必要があるのかも知れません。私自身も振り返って後悔することがあります。母が年を重ねて行った時に、「あれは何々だよね」のような感じで、良く「あれは」と言うようになりました。

私は母が衰えて来て、具体的な言葉が出ないので「あれは」と言っているということに気付かずに、「あれは」じゃ何のことだか分からないから、何のことかはっきりと言ってくれと責めてしまったことがありました。今になって自分が言葉が直ぐに出て来なくなって、「あれは」というようなことを良く言うるようになってその時の母の気持ちが良く分かります。

霊の交わりの前に、まず言った言葉を全てとして言葉だけに頼るのではなく、愛によって行間を読むことは大切です。また霊の交わりは衰えを感じなくても若い時から始めても良いことです。それはどのようにすれば良いのかと感じるかも知れません。何も難しいことはありません。

クリスチャンであれば聖書を読んでディボーションで神と交わりの時を持つと思います。それと同じように人と霊の交わりを持つだけのことです。しかしそのような会話が出来なくなった人と霊で交わったり、人の体が無くなった後に霊の体として存在するということが本当にあるのだろうかと思われるかも知れません。

神はその保証として霊を与えてくださいました。ここでいう霊とは聖霊のことです。私たちは神が与えてくださった神の霊である聖霊と交わることが出来ます。それは私たちが霊の体として生きることの保証です。それでパウロたちはいつも安心しています。

なぜなら見えるものであるこの世のことは一時的であり、見えないものである霊は永遠に存続するからです。それでパウロは4:8、9のことのことを、このしばらくの軽い苦難と言えるのでしょう。それらの苦難は本来は決して、このしばらくの軽い苦難等とは言えるような軽いものではないでしょう。

しかしクリスチャンは4:7にありますように、弱い土の器の中にイエス・キリストという宝を納めています。そしてクリスチャンが軽い苦難を受けると、比べものにならないほど重みのある宝であるイエス・キリストが永遠の栄光をもたらしてくれます。

3、この世での呻き

パウロは2節と4節で2回、「この地上の幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています」と言います。この地上で肉体を持って生きることは、神から与えられた恵みを楽しむ楽しいことも多くあります。しかし外には4:8、9のような苦しい状況があって、更に年齢的な肉体の衰えも感じています。

パウロは更に12:7で、体に棘が与えられていて、三度主に願っても取り去られませんでした。更に肉体を持つと言うことは自分の外の問題だけではありません。自分の内側の問題として、ローマ7:15でパウロは、「私は自分が望むことを行わず、かえって憎んでいることをしている」と罪を持っている苦しみを告白します。

ですから、この世でこの体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。そこでパウロの本音としては、願わくは、この体という住みかから離れて、主のもとに住みたいと思っています、と言います。この御言葉の影響か、高齢で体が思うように動かなくなった方が、冗談半分に、早く主のもとに行きたいと言われる方もいます。冗談半分でもそのように言えるということは、天国の確信を持っていることなので信仰的と言えるのか良く分かりませんが。

パウロは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいると言います。主を信じる信仰によって歩む者にとって、この世で体を住みかとしていようと、体を離れていようと、それは大きなことではありません。その時を決められるのは主だけだからです。私たち自身がどちらが良いと選ぶものではありません。

4、主に喜ばれる者

主が私たちにこの世に役割があるとされれば体を住みかとしますし、役割を終えたとされれば体を離れることになるだけのことです。それよりもパウロを初めとするすべてのクリスチャンが願うことは主に喜ばれる者であることです。

なぜなら私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされます。人を誤魔化すことは出来てもキリストの前ではどんな隠し事も出来ずにすべて明らかにされます。そして善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。

主イエスが私たちの贖いとして十字架に付かれましたので、主イエスを信じる者は天国には入れます。しかしこの世で行った善悪の仕業に応じての報いはあります。最後の審判は私は牧師として自分のことよりも教会員のことが気になります。

教会員が善を行った報いを受けるなら大きな喜びです。しかし自分が関わった教会員がもし悪の悔い改めをしていないことがあればそれは私の責任でもあります。そのようなことがあれば、それは私は牧師として教会員に悔い改めの機会を提供したかと問われることでしょう。

このことはいつも頭の中にありますので、決して自分の責任逃れのためではありませんが、色々なことを振り返る時には必ず悔い改めの機会も作りたいと思っています。せっかく主イエスの十字架の贖いによって天国に入りながら悪の報いでは空しいものです。私たちは一時的なこの世のことでなく、永遠に存続する天国に目を注ぎます。

高齢者が体力や精神力が衰えを感じても落胆しないですむのは、神から与えられる聖霊によって内なる人が日々、新たにされるからです。年齢を重ねるというのは、見えるものから見えないものに目を注ぐ割合をどんどんと高くして行くことによって安心することが出来ます。私たちはそのような人生の質的変化の歩みをされている信仰、人生の先輩を敬い祝福を祈ります。その歩みは後に続く者への手本になるためのものでもあります。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは年齢を重ねて衰えを感じると不安を感じ、この世の見えるものに囚われ落胆し易い弱い者です。しかしあなたは、内なる人は日々、新たにされていくと言われます。

あなたは主イエスの十字架により信じる者を救い、その保証として聖霊を与えてくださりましたから有難うございます。与えられた聖霊の力によって見えないものに目を注ぎ続け安心して信仰によって歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。