「奴隷からの贖い」

2024年1月28日礼拝説教  
申命記 24章10~22節

        

主の御名を賛美します。米国の野球のメジャーリーグにはルールには書かれていませんが、暗黙の不文律のルールがあって、それを破ると報復としてデッドボールを受けたりすると言われます。暗黙のルールとは、点数の大差が付いてほぼ勝敗が決まったら、勝っているチームは盗塁をしてはならないとか、ボールカウント3-0から打ってはならない等です。

これは格闘技でもあることで、ほぼ決着が付いたら、相手に怪我をさせる攻撃はしないようにします。これらは競技のスポーツとして勝つのが目的であって、勝敗がほぼ決まったら相手に無用なダメージは与えずに敬意を示します。

1、貸すときの担保

今日も、イスラエルの一般的な社会生活での決まりが六つの段落で四つの内容が命じられます。内容は基本的に貧しい人に対する憐れみについてです。一つ目は、隣人に何かを貸すときの担保ですが、現代でも銀行がお金を貸すときに担保を取ります。

そのようなときには、貸し主は外に立って、借り主が担保を持って出て来るのを待たなければなりません。担保を何にするかは借り主が決めることです。貸し主が借り主の家の中にずかずかと入って行って、どれを担保にしようかと選んではなりません。そして借り主が貧しい場合には、貸し主は担保を取ったままで寝てはなりません。

イスラエルの一日の区切りでもある日没にはその担保を必ず返さなければなりません。そうすれば彼は上着にくるまって寝ることができます。ここで言う上着は四角い布で、上着にしたり、風呂敷のように物を包んで運んだり、夜は布団になりました。彼にとってその上着が担保にできる唯一の財産である程に貧しいということです。

その上着を日没に返せば、布団として寝ることができて、その有難さに貸し主に感謝して祝福するでしょう。自分だけ暖かい布団で寝られればそれで良いのではなく、他の人のことを考える必要があります。それはあなたの神、主の前にあなたの義となります。義となると言いますと少し大袈裟な感じもしますが、ここでいう義というのはどのような意味なのでしょうか。

ここの義の意味の説明は6:25にありました。義というのは神の言葉を守り行うことです。神の御言葉の通りに、貧しい人に憐れみのある行いをすることは義となります。2週間前の説教題は「憐れみと聖」で、そのときには憐れみと聖のどちらを優先するのか相反する感じもありました。今日の内容は聖である者は憐れみのある行いをする、聖と憐れみが一体の内容と言えます。

2、雇い人の賃金

二つ目は、同胞であれ、寄留者であれ、貧しく苦しんでいる雇い人を虐げてはなりません。人間は罪深いもので、自分より弱い立場の人を見ると差別して虐げ易いものです。なぜ虐げるのでしょうか。それは自分が虐げられて来たからです。人は良くも悪くも自分がされて来たことを他の人に行うものです。

私が初めて行った教会の牧師が、「劣等感は腐った高慢である」と言っていました。高慢になる人は劣等感の強い人で、劣等感を抱いて来た反動として高慢となるようです。すべての人は神に造られた特別な存在ですので、神を知るなら自分を他の人と比べて劣等感を抱く必要はありません。

貧しく苦しんでいる雇い人を虐げないためにも、賃金はその日のうちに、日付の変わる日の沈む前に支払わなければなりません。彼は貧しく、その賃金で夕食を食べようと当てにしているからです。現代でも賃金を日払いにして、その日のうちに支払うのはそのようは配慮があるのでしょう。

彼があなたを主に訴えて、罪とされることのないようにします。これも罪というと大袈裟な感じもしますが、先程の、義が神の御言葉の通りに、貧しい人に憐れみのある行いをすることということを考えますと、罪とは神の御言葉に反して、貧しい人に憐れみのある行いをしないことと言えます。義と罪は神の御言葉に従うか従わないかですが、それは貧しい人に憐れみのある行いをするかしないかで現れて来ます。

3、自分の罪のゆえ

三つ目は、「父は子のゆえに殺されてはならない」ですが、話の流れからは何か少し唐突な感じもします。前の15節の終わりの、「罪とされることのないようにしなさい。」ということは、そのような罪を犯す子がいたとしても、その父が子のゆえに殺されてはならないということでしょうか。

同じように、子は父のゆえに殺されてはなりません。人は自分の罪のゆえに殺されるのであって、例え親子であっても自分以外の人のゆえに殺されてはなりません。ここでわざわざそのように命じられているということは、現実には家族は連帯責任で殺されることがあり、聖書にも書かれています。現代でも一人が犯罪者とされるとその家族も連帯責任を負う国もあります。

この御言葉は一見すると、出エジプト記20:5の、「私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問う」という御言葉と矛盾するような感じもします。罪は当人だけの責任なのでしょうか、それとも三代、四代まで責任を負うのでしょうか。

出エジプト記20:5は、親が罪を犯している姿を見て育つ子は影響を受け易く、罪の影響が及び易いので、ただそのことを問うということですので、矛盾ではありません。

4、寄留者、孤児、寡婦の権利等

四つ目の内容は、後半の三つの段落に共通で、寄留者、孤児、寡婦等の貧しい人の権利とそれに対する憐れみについてです。寄留者、孤児、寡婦等の貧しい人を虐げてはならず、その権利を侵してはなりません。特に寡婦に至っては、その衣服を質に取ってはなりません。衣服は色々な意味で寡婦を守る物で必需品です。

イスラエルはエジプトで奴隷であって、散々、酷い目に遭って来ました。それは上着にくるまって寝ることもできず、虐げられ、日の沈む前に賃金も支払われず、家族の罪のために殺され、権利も奪われて来ました。しかしイスラエルはただ主の憐れみと恵みによってエジプトから贖い出されて救われました。

それはクリスチャンがただ主の憐れみと恵みによる主イエスの十字架による贖いによって救われるのと同じです。イスラエルがエジプトから贖い出されたことは、罪人がエジプトが象徴する罪から救われてクリスチャンになることの象徴です。

主はモーセを通して、このことを思い起こしなさいと命じられます。主は9節では、主がミリアムにされたことを思い出しなさいと言っていましたが、どのようにして思い起こしたり、思い出したりするのでしょうか。5:15の十戒の中に書かれています。

イスラエルはエジプトで奴隷でしたが主に救われたこと、クリスチャンは罪の奴隷でしたが主に救われたことを思い出すのは、毎日でも勿論、良いのですが、特に安息日です。今日から十戒を告白することを始めましたがとても大切なことです。安息日は神の言葉である聖書の内容を思い出す大切な日です。

主の憐れみと恵みによって救われる者に主は憐れみのあることを行うように命じられます。それは自分が憐れみと恵みを受けたことは他の人にもすることでもあります。これは大切なことですので、中心聖句として2回命じられます。

5、3つの具体例

寄留者、孤児、寡婦の具体的な権利の一つ目として、畑で借り入れをするとき、畑に一束忘れても、それを取りに戻ってはなりません。それは彼らのものです。いやいやそれは自分のものではないのかと思われるかも知れません。しかしそれは忘れた時点で彼らのものになるということです。

そうすると年齢を重ねて行くと忘れ易くなるので損をし易くなると思われるかも知れません。しかし損をするのではありません。彼らに与える分が増えて憐れみ深くなるということです。更にそうすれば、主が、あなたの手の業をすべて祝福してくださいます。

13節で、担保の上着を日没には返せば借り主が祝福します。そして畑の借り入れを忘れて置いておけば主が祝福してくださいます。憐れみのある行いには人からの祝福と主からの祝福となって返って来ます。

彼らの権利の二つ目として、オリーブの実を落とすとき、後から枝をくまなく探してはなりません。それは彼らのものです。オリーブは実が沢山付きますので一度で全部を完全に落とし切ることは難しいでしょう。しかしまだ実が付いていないかと枝をくまなく探してはなりません。

同じように権利の三つ目は、ぶどう畑でぶどうを摘み取るとき、後で積み残しを集めてはなりません。それは彼らのものです。これらの教えは実際に行われたのでしょうか。ルツ記のルツはモアブ人の寡婦として畑で落ち穂拾いをしていたことが書かれています。画家のミレーの落穂拾いの絵は有名です。

6、憐れみのある行い

この当時も貧富の格差がありました。良く、「資本主義社会は最悪のシステムである。しかし資本主義以上のシステムは存在しない。」と言われます。資本主義ではそのシステムの本質上、多くの資本があった方が多く稼げますので、貧富の差は拡大するようになっています。

しかし1991年のソ連の崩壊する前は、貧富の差が拡大すると社会主義革命が起こることを恐れて、資本主義の国は貧富の差を余り拡大させないようにしていたと言われます。しかし実際には社会主義の国の方が人が決めることが多く、貧富の差は資本主義の国より大きくなったことが分かり、今更、社会主義を目指す人は殆どいなくなったようです。

それで今や資本主義では社会主義革命の心配をすること無く貧富の格差は拡大して、貧富の格差拡大は世界中で大きな問題になっています。主イエスはマタイ25:29で、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」と言われました。豊かな人は与えられて豊かになります。与えられるということは、与える方がおられ、それは神である主です。豊かな人は主に与えられて豊かになりますが、与えられたものをすべて自分の自由にして良いのではなく、与えて下さった主の御心に従って使う必要があります。

与えられるものは、与えられた人、個人のものになるというよりも、管理を委ねられているということです。先週の8節の中心聖句にもありましたように、主が命じたように守り行い、貧しい人に憐れみのあることを行う必要があります。そのために豊かな人に与えられています。

7、奴隷からの贖い

聖書は一見しますと、表面的にはこの世の行いを命じているようにも思えます。今日の個所も貧しい人への憐れみのある行いが命じられています。しかしいつもお話していますが、聖書の教えの基本はこの世の行いではなく、霊的なものです。

今日の個所でも貧しい人に憐れみのある行いをする理由は、それはあなたがエジプトの地で奴隷であり、そこから贖い出されたからです。このときのイスラエルは20歳以上の男だけで60万人以上の自由の民となりましたが、エジプトに行った当初は僅か70人でした。

そしてエジプトでの滞在の約4百年間の後半は奴隷で、虐げられていました。エジプトから贖い出されたのはイスラエルが何か良かったからではなく、ただ主の憐れみと恵みです。自分たちもかつては、奴隷として虐げられていたのですから、そのことを思い起こして、今、かつての自分たちと同じ境遇の人たちに、主が行って下さったように、憐れみのあることを行いなさいと命じます。

このことはクリスチャンも同じです。今はクリスチャンとして信仰を持って、主の祝福の豊かな道を歩んでいるかも知れません。しかしクリスチャンになる前の、エジプトが象徴する罪の中にいたときはどうだったでしょうか。その罪から贖い出されて救われるのは、自分の功績ではなくて、ただ主イエスの十字架による私たちの罪の赦しのみです。

それはクリスチャンになった後も同じです。意図的では無くても間違いや罪を犯してしまうものです。しかし心から悔い改めることによってすべての罪は赦されます。クリスチャンはそのことを知っていますので、主に悔い改めて、罪から解放されて生きることができます。

しかし神を知らない人は、罪の苦しみの中から抜け出す方法が分かりません。罪に苦しんでいるのは自業自得ではないのかというのは憐れみの無い考えです。私たち自身もかつては罪の中で苦しんでいたものです。またクリスチャンになった後でも先週のミリアムのように自己中心の罪に陥って苦しむこともあります。

そこからただ主の憐れみによって贖い出されたこと、悔い改めによって罪を赦されることを、聖霊の導きの中で、十戒を通して、また毎週の礼拝を通して思い起こしましょう。そして今、苦しんでいる人に憐れみのあることを行い、また罪の奴隷から解放される道を伝える者とさせていただきましょう。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちに、「罪の奴隷であったが、主が贖い出されたことを思い起こしなさい」と命じられます。私たちは知識としては分かっていても、そのことを忘れてしまいがちです。私たちの贖いのために主イエスが十字架に付かれたことを毎週の礼拝を通して聖霊によって私たちの心に深く思い起こさせてください。

そして私たちが経験した同じ苦しみの中に今おられる方々に逃れ道を伝える者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。