「権威ある教えと汚れた霊」
2024年10月27日礼拝式説教
マルコによる福音書1章21~28節
主の御名を賛美します。
1、権威ある者のようにお教えになった
一行はカファルナウムに着きました。カファルナウムはガリラヤ湖の北西の岸にある繫栄した町でした。主イエスはガリラヤでの宣教をカファルナウムを中心に行われ、マタイ9:1は、カファルナウムを主イエスのご自分の町と呼んでいます。カファルナウムという地名は、ケファル・ナフーム(ナホム⦅慰め・慰める者⦆の村)に由来し、主イエスの町に相応しい地名です。
そして安息日にすぐ、主イエスは会堂に入って教えられました。安息日ですからこの日は土曜日です。マルコの文章の特徴として、「すぐ、すぐに」という言葉を多く使います(10、12、18、20、21、23節)。マルコはせっかちな性格なのでしょうか。そうではなく、神の時が来るときには、すぐに事が起きる、行われるとことを表しています。
多くの町の人にとっては毎週の礼拝のためにエルサレムの神殿に行くのは遠いので、それぞれの町に会堂がありました。会堂はユダヤ人の成人男子が10人いると始めることが出来ました。会堂では安息日には礼拝を行い、平日にはユダヤ教の学校として使われ、町の中心となるコミュニティーセンターです。
会堂はシナゴーグと言いますが、これは教会と同じで、「人の集まり」という意味です。安息日にはラビや教師が説教を行いますが、常駐のラビや教師のいない会堂では、会堂の管理者の許可を得た者は誰でも説教を行なうことが出来ました。そこで主イエスも教えられました。
人々は主イエスの教えに驚きました。それは律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからです。律法学者と主イエスの教えはどのように違っていたのでしょうか。律法学者は律法と「昔の人の言い伝え(口伝律法)」(7:3)に基づいて、説明を語っていたようです。
それに対して主イエスの語られるのは15節の内容です。「時は満ち、神の国は近づいた。」と現在の状況をご自身の権威によって宣言をされます。そして今すぐに救われるために、「悔い改めて、福音を信じなさい」とご自身の権威によって命じられます。
前回にお話しましたが、国とは権威による支配のあることです。神の国は近づき始まったということは、神の支配による神の国が存在することです。そしてそこには神の権威を持って支配し、命じられる方がおられます。権威ある教えがあるということは、その権威による国が存在することです。
人々はその教えの質の違いに驚いて、主イエスを権威ある者の“ように”は感じていますが、まだ主イエスがどなたであるのかその正体は、はっきりとは分かっていません。
2、汚れた霊
しかし主イエスの正体を知る者が一人います。するとすぐに、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫びました。「ナザレのイエス、構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 この汚れた霊というのは、どのようなものなのでしょうか。
汚れた霊と聞きますと何かオカルト的な感じがします。汚れた霊というのは本当に存在するものなのでしょうか。聖書に書かれていますので勿論、存在します。そして汚れた霊や悪霊の存在を抜きには説明の出来ないこともあります。それは現代でもあることです。
人を一人でも殺されれば大問題です。世界中の多くの国でも捜査がされることと思います。しかし連日、戦争で毎日、戦争と直接には関わりの無い多くの一般市民の命が犠牲になっています。このようなことは良心のある普通の人に行うことが出来ることなのでしょうか。そこには汚れた霊等の悪い働きがあるとしか思えません。
汚れた霊も霊ですので、普通の人々には、はっきりと分からない霊の世界のことが分かります。それで、主イエスの正体が神の聖者であることは分かっていると言います。ここで汚れた霊が言っている事自体は間違ってはいません。しかし主イエスは、汚れた霊が言う事は正しいとは言われずに、「黙れ」とお𠮟りになられました。
ここでは汚れた霊の言う事が正しいか、正しくないかではなく、汚れた霊が人に取りついていることが悪いことだからです。主イエスは続いて、「この人から出て行け」とお叱りになられました。汚れた霊はそのように言われるのが分かっていたので、これはまずいと思って23節で叫んだのでしょう。
主イエスは汚れた霊に取りつかれた人に、「出て行け」と言われるのではなく、あくまでも汚れた霊に対して「出て行け」と言われます。それは悪いのは汚れた霊であり、取りつかれた人とは別の存在だからです。しかしそうしますと気になることがあります。
それは自分も汚れた霊に取りつかれてしまうことがあるのではないかという心配です。しかし聖書を読みますと、信仰的な人に汚れた霊が取りつくということはありません。例外的にヨブ記のヨブにサタンの試みがある位でしょうか。
サタンが取りついて入り込むのは、イスカリオテのユダのように、会計係でありながら中身をごまかすような(ヨハネ12:6)、普段から悪を行っている者です。良くないことですが、ゴミが捨てられ易い場所は、手入れがされていない汚れた場所と言われます。
汚れた霊が取りつく人は具体的にはどのような人でしょうか。それはガラテヤ5:19~21の肉の行いを行う人です。肉の行いをする人に汚れた霊は取りつきますし、肉の行い自体が汚れた霊が人の中にある肉の思いを刺激して起こすものです。肉の行いを行うことによって汚れた霊とその人との結び付きが強くなります。
この男がなぜ汚れた霊に取りつかれたのかは分かりませんが、何らかの肉の行いがあったものと思われます。主イエスの「この人から出て行け」というお叱りに、汚れた霊はその男に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行きました。痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行くことに汚れた霊の抵抗を感じると共に、汚れた霊とこの男の人格との強い結び付きを感じます。
肉の行いを行う者が肉の行いから離れるのは本当に至難の業です。それはその人の人格とほぼ一体になっているような部分があるからです。しかし全能の神に不可能なことは何一つありません。この男から汚れた霊が出て行くように、肉の行いから離れることは可能です。
人々は皆、驚いて、論じ合って、「これは一体何事だ。権威ある新しい教えだ。」と言いました。22節では、権威ある者の“ように”お教えになったと思っていました。しかし人々は今や“ように”ではなく、権威ある新しい教えであるとの確信を得ました。
それはなぜかと言いますと、「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聞く。」からです。権威はその人に賛成する人だけが従うものではありません。汚れた霊は主イエスの味方ではなく敵です。しかし敵である汚れた霊も主イエスの命令には従わざるを得ない、権威ある新しい教えです。
権威とは賛成、反対に関わらずに従わせる強制力を持ちます。権威とは、「光あれ」と言われれば、そこに光があるように、言が出来事となる力です。主イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。
3、権威ある教え
汚れた霊に取りつかれないためには、肉の行いをしないこととお話しましたが、それはある意味で、「~をしない」という消極的な面です。もっと積極的な生き方をするにはどうしたら良いのでしょうか。私たちはどうしても、目に見えるものに囚われてしまいがちです。
しかし私たちの世界には目に見える世界と見えない世界があります。エフェソ6:12は、「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊に対するもの」と言います。私たちの世界には、私たちの目に見えるこの世の世界と目に見えない霊の世界があります。
霊の世界では肉の行いをするように汚れた霊が誘惑をしてきます。汚れた霊に対して罪深い人間の力だけで対抗するのは難しいものがあります。そのために天の父なる神は、神の国の権威を持つ御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。
神の国の権威を持つ主イエスの教えに従うなら、汚れた霊に対する勝利は約束されています。それは汚れた霊に対抗するためにも、主イエスを信じることによって、神の霊である聖霊が与えられるからです。聖霊は8節にありますように、洗礼によって授けられます。
汚れた霊に対して、聖霊の力をいただかずに人間の力で対抗するのは、武器を持つ敵に対して素手で立ち向かうようなものです。そのような無謀なことはしないように、エフェソ6:11は、「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるように、神の武具を身に付けなさい。」と命じます。そのためにも洗礼を受けて聖霊を授かる必要があります。
教会には色々な電話が掛かって来ます。私に対して初めに、「先生は霊感力は強いですか。悪魔祓いは得意ですか。」といったことを聞いてくる方もいます。何か映画の世界のような感じもしますが、本人はいたって真面目に質問をしています。
そのような時には直接に質問に答えるというよりも、どのような事情があって、そのような質問をされるのかをまず聞きます。それによって、どのように対応をしたら良いかを考えてお話をします。出来る限りは、電話をして来る方の期待にお応えをしたいとは思いつつも、キリスト教について誤解を与えないように次のようにお話をしています。
私自身に何か特別な力がある訳ではありません。ただ全能の神の御用に立てられていますので、願い事を神にお伝えし神の力と助けを祈り求めることは出来ます。そのことが御心に適うならそのようになりますと言っています。牧師が言えば何でもその通りになるのではないかと期待している人にとっては期待外れな答えかも知れません。
しかし世界の全てを造られた神の権威に従うことは、最高権威者に守られることですので、これ程に安心なことはありません。権威ある教えに従うことによる一つ目のことは、聖霊のお守りによって汚れた霊に取りつかれずに、肉の行いをしないように導かれることです。
二つ目のことは、もっと積極的に聖霊を授かってガラテヤ5:22,23の霊の実を結ぶことです。改めて、この霊の結ぶ実のリストを見て、本当に良いなと思いますし、毎日、霊の結ぶ実の世界で生きていたいと願います。肉の行いは15個もあるのに、霊の結ぶ実は9個と少ないのは気になりますが。
私たちの人生は、主イエスの権威ある教えに従って聖霊を授かり、霊の実を結ぶか、汚れた霊に取りつかれて肉の行いを行うかのどちらかになります。現在行われている戦争の一つは聖書を知っているはずの東方教会というキリスト教国同士で行っています。
もう一つは、ユダヤ教とイスラム教というキリスト教とは兄弟とも言える宗教国で戦争を行っています。それらの国ではキリスト教で使っている聖書と同じような考えを持っています。それでも戦争を行っています。
しかしそのようなことを言う日本の教会でも、教会の中や一人一人のクリスチャンも霊の結ぶ実だけで、肉の行いは無いのかと問われれば、他の国等を批判している場合ではありません。ただ今、現在に、完璧である必要はありません。
大切なのは15節で主イエスが言われたように、もし肉の行い等があるのなら、今すぐに「悔い改める」ことです。安井聖先生が言われたように、毎週の礼拝は悔い改める時です。既に主イエスは十字架に付かれていますので、悔い改めるなら肉の行いの罪は赦されます。
毎週の礼拝で悔い改めて、福音を信じて、献身を新たにさせていただきましょう。そして聖霊に満たされて霊の実を結び、喜びに溢れる一週間を歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちを救うために権威ある新しい教えを持って御子イエス・キリストをこの世に遣わせてくださいました。私たちが権威ある教えにすぐに従って、悔い改め、福音を信じ、聖霊の力によって霊の実を結び続ける者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。