「共におられる神」

2024年12月22日礼拝式説教  
マタイによる福音書1章18~25節
        
メリークリスマス。

1、身ごもっているマリア
今日の聖書箇所は主イエス・キリストの誕生の次第についてです。誕生は「ゲネシス」という言葉で、英語では「ジェネシス」で創世記のことです。主イエスのお誕生は創世記の内容に良く似ています。旧約聖書の初めは世界の誕生、創造から始まりましたが、新約聖書は主イエス・キリストの誕生から始まります。それは、主イエス・キリストの誕生は世界の創造と同じような新しい世界の始まりということです。

主イエスの母マリアはヨセフと婚約していましたが、まだ生活は一緒にはしていません。婚約中は不安もあるかも知れませんが、人生の中でも特に大きな幸せのときだと思います。ユダヤの婚約は結婚と同じ重みのあるもので、婚約中のときからもう既に夫、妻と呼ばれます。

マリアが身ごもっていることが分かったといいますが、そのことが分かって夫ヨセフに伝えられたのは、いつのことだったのでしょうか。ルカによる福音書を見ますと、1:31で天使ガブリエルから受胎告知を受けていますが、まだ身ごもってはいません。

その後にマリアは1:36で身ごもった親類のエリサベトのことを聞いて、1:39、40でエリサベトを訪ねてユダの町に行き、1:56で三か月ほどエリサベトと暮らしてから家に帰りました。マリアが遠く離れたユダの町に突然に三か月も行ってしまって、やっと帰って来たと思ったときに、身ごもっているとヨセフは聞かされたと思われます。

ヨセフにとっては思いも寄らない青天の霹靂です。ヨセフには全く身に覚えのないことだからです。ヨセフは幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされました。ユダヤの社会は男女の関りにとても厳しい社会です。婚約者同士でも二人で会って話をすることは出来る環境ではなかったでしょう。

ましてやマリアが身ごもった今では更に問題になりかねません。ユダヤの社会では婚約期間中の妊娠は決して許されませんでした。マリアはヨセフが自分のことを誤解しないように、人づてに、これは聖霊によるものだとヨセフに伝えたのでしょう。しかし、ヨセフにはそれがどういう意味であるのか分かりませんでした。

2、正しい人
夫ヨセフは正しい人であったと言います。今日は、「正しい人」とはどのような人であるのかをテーマに御言葉を聴かせていただきたいと思います。正しい人についてルカ1:6は、洗礼者ヨハネの両親について、「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落度なく守って生活していた。」と言います。

正しい人は一つ目のこととして、主の戒めと定めを守って生活する、信仰深い生き方をする人です。ヨセフは正しい人として主の戒めと定めを守って、マリアと離縁しようと決心しました。婚約でも結婚と同じ重みがありますので、婚約を解消することは離縁と言います。

これは正しい人ではなくても、自分が関わらないで身ごもった女性との婚約は解消することが多いでしょう。ましてやヨセフは主の戒めと定めとを守って生活する正しい人ですから、尚更、マリアと結婚することは考えられません。

離縁をするにあたって、それをどのようにするかを考える必要があります。それは離縁を表沙汰にするか、しないかです。離縁を表沙汰にして、その理由がマリアが身ごもったためであることを明らかにすれば、マリアは姦淫の罪で、申命記22:23,24の規定によって石打の刑になります。

ヨセフが自分の考えだけが全て正しいと考えていたら、感情的になってマリアのことを表沙汰にすることを選んだかも知れません。しかしヨセフはマリアのことを表沙汰にするのを望まず、ひそかに離縁しようと決心しました。

正しい人は二つ目のこととして、自己の正しさだけを主張するのではなく、自分の言動によって影響を受ける人をあわれみ、配慮を行います。主イエスも9:13で、「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」と言われます。ヨセフの決心した、表沙汰にはしないで、ひそかに離縁をすることが、正しい人が出来る精一杯のことでしょう。

ヨセフは離縁を決心した後もこのことを考えていました。色々なことを考えずにはいられなかったことでしょう。何でこんなことになってしまったのだろう、自分は正しく歩んで来たはずなのに、どこで、何を間違ったのだろうと思い悩んだことでしょう。

マリアのお腹の中の子の父親は一体、誰なんだろう、マリアがユダに行っていた三か月の間に何があったのだろうという思いもあったのかも知れません。主はあわれみのある正しい人が悩み苦しむのを、そのままにされるお方ではありません。

5:7に、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たち憐れみを受ける。」の御言葉がありますが、それが成就します。ヨセフの決心したひそかな離縁は間違ってはいませんし、人間の力で出来る最善の決心です。しかしそれは主の御心ではありません。

3、主の天使
主の時が来ると、主はこの世に介入を始められます。主の天使が夢に現れて言いました。まず「ダビデの子ヨセフ」と名前を呼びます。名前を呼ぶことは、あなたのことを決して忘れてはいません。覚えていますというメッセージです。私たちも「あのー」と言われるより、名前で呼ばれると嬉しいものです。

ダビデの子というのは、この時から千年位前のダビデ王の子孫から救い主が生まれるという神の約束の称号です。ヨセフはダビデの家系で、そのことを知っていて、救い主の到来を待ち望んでいたことでしょう。

しかし今日の聖書箇所の前に書かれている系図でも、ダビデの子孫は言い方は悪いですが、段々と衰えて行っているような感じがします。13節のアビウドより後の人は名前が書いてあるだけで旧約聖書に記事はありません。

そのようなときに主の天使に、ダビデの子と呼ばれることは、神の救いの約束を思い起こす嬉しいことだったでしょう。主の天使は続けて、「恐れずマリアを妻に迎えなさい。」と言います。ヨセフには思いも寄らなかった新たな選択肢です。ヨセフは正しい人として自分が関わらないで身ごもったマリアを妻に迎えることなどは有り得ないと思っていました。しかしそんなことは恐れなくて良いと主の天使は言います。

自分が知らないところでマリアが身ごもったことや、婚約中に身ごもったことなど、何も恐れるなと言います。恐れなくて良い理由として、「マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」と言います。ヨセフはこのときに人づてにマリアが、これは聖霊によるものであると言っていたことを思い出したのではないでしょうか。

ヨセフは、マリアが言っていたことと、主の天使が言ったことが同じであることで、これは聖霊の働きによるのであるということが真実であると確信を得たことでしょう。創世記1章では、神の霊が水の面を動いていたところに世界が造られました。主イエス・キリストのお誕生も世界の創造と同じように、聖霊の働きによりお生まれになられます。

ヨセフは離縁をしなければならないのは仕方の無いことと思っていたでしょう。しかしマリアを愛する思いは変わっていなかったのではないでしょうか。そこに主の天使が来て、マリアを妻に迎えるという、それまでは有り得ない道が開かれました。それは誰も傷付くことのない、全ての人が幸せになる道です。

主の天使は更に預言をします。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 イエスの名前は、「主は救い」という意味です。正に名前の意味の通りに救い主になられるということです。

ヨセフは自分の系図から見ても、自分の先祖がいかに罪深い人たちであるかということを良く知っていたでしょう。初めのアブラハムは自分の命を守るために奥さんのサラを妹と言ったり、中々子どもが与えられないと、女奴隷のハガルによってイシュマエルをもうけるという失敗をしました。

ヤコブはお父さんのイサクを騙して祝福を奪って、ハランに逃亡生活をしました。ダビデはウリヤを殺してウリヤの妻を奪って自分のものにしました。これらの罪はすべて主イエスの十字架によって赦される必要があります。

ヨセフ自身は正しい人ではありますが、今回のことで自分の正しさの限界を思い知ったことでしょう。正しい人とはいっても、自分ではマリアをひそかに離縁する決心しか出来ませんでした。そのまま進んでいれば、全ての人が傷付く結果をもたらしました。しかし主の御心はヨセフの正しさを遥かに超えた素晴らしいものです。

4、共におられる神
主の御心はそれによってヨセフとマリアとその家族が幸せになるだけではありません。生まれて来る子は、全ての人がダビデ以来、約千年間待ち望んでいた救い主です。救い主を信じる民をあらゆる罪から救う者となります。

罪から人を救う救い主ですから、普通の生まれ方では罪を持った人間であって、救い主には成り得ません。聖霊によってお生まれになる必要がありました。このことは約7百年前の預言者イザヤによって預言されていました。23節はイザヤ7:14の引用です。

「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 「インマヌエルは神は私たちと共におられる」という意味です。主イエスは、神ご自身がイエス・キリストという人間となってくださり、神が人間と共にいてくださることを現わしてくださいます。インマヌエルの神です。

それはまた、主イエスを信じる全ての人と共にいてくださるためです。私たちのインマヌエルのためです。これまでも神はおられました。しかし人間は罪に塗れた暗黒の地に、神と離れて住んでいました。人間は一人で罪に立ち向かって行くには余りに無力です。

私たちが正しい人として歩むためには、ヨセフが主の天使に導かれたように、神と共に歩んで神に導いていただく必要があります。クリスマスはインマヌエルの神がお生まれになられた日です。

ヨセフは眠りからさめた後に、直ぐに主の天使が命じたとおりに、マリアを妻に迎えました。ヨセフに迷いはありませんでした。正しい人とは三つ目に、主が命じられたとおりに御心を行う人です。主の天使は現代では私たちに御心を示してくださる聖霊です。

正しい人とは、第一に主の戒めと定めを守って生活し、信仰深い生き方をします。第二に自分の正しさだけを主張するのではなく、他の人をあわれみ、配慮を行います。第三に、主の天使が命じられたとおりに御心を行います。よりレベルアップして行くと言えるでしょうか。

ヨセフに主から与えられた役割はマリアを妻に迎えて、その子をイエスと名づけることです。ヨセフは主の天使が命じたとおりに行いました。ヨセフに主から与えられた役割は他の普通の人とは違うもので、色々な悩みや苦しみもあったことと思います。

しかしダビデの子として生まれたヨセフに、救い主の父となるというのは、大きな特権と喜びです。神が私たち一人一人に与えられる役割は他の人とは全く違うものかも知れません。もしかすると色々な悩みや苦しみを伴なうことがあるかも知れません。

しかしそのような私たちを慰め、励ますために、神は私たちと共におられるというインマヌエルの神をクリスマスに贈ってくださいました。インマヌエルの神を感謝し、自分に与えられる役割を喜びを持って果たさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ヨセフの生き方を通して、正しい人とは何よりも主の御心を行う人であることを教えていただきました。しかし私たち人間は御心を行う力のない無力な存在です。そのために私たちを導くために共にいてくださるインマヌエルの神をクリスマスにお贈りくださり有難うございます。私たちがインマヌエルの神を信じ、正しい人として、喜びに溢れる歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。