「罪人を招くため」

2024年12月29日礼拝式説教  
マルコによる福音書2章13~17節
        
主の御名を賛美します。今年はクリスマスは終わりましたが、クリスマスの飾りはそのままにしてあります。キリスト教の教会暦で今年度は、12月1日から24日はキリストのご降誕を待ち望む待降節で、12月25日から1月12日はキリストのご降誕を祝う降誕節です。茂原キリスト教会では今年度からはキリスト教会として、教会暦に倣いたいと思いますのでご理解を宜しくお願いいたします。

1、徴税人レビ
主イエスは再びガリラヤ湖のほとりに出て行かれました。その目的は何かと思いますが、主イエスは1:38で、「宣教するために出て来たのである。」と言われているとおりに、宣教する目的で、皆が集まり易いように平らで広い湖のほとりに出て行かれたようです。すると、目的のとおりに群衆が皆そばに集まって来たので、彼らを教えておられました。

そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っていました。場所はカファルナウムと思われ(1節)、カファルナウムは右上のダマスコからの通商通りに面して、ヘロデ・フィリッポスの領地からヘロデ・アンティパスの領地に入る初めの町で、そこに収税所がありました。

この収税所は日本ですと関所のようなもので、そこを通る人と荷物から通関税を取って、ヘロデ・アンティパスに収めていました。ヘロデ・アンティパスは6:27で洗礼者ヨハネを殺す人です。徴税人はユダヤ人からは嫌われ、見下されていました。それは大きく3つの理由が考えられます。

一つ目は、仕事として異邦人と関わることが多くありますが、異邦人は律法を知らない汚れた者とされていましたので、汚れた者と関わる者も汚れた者とされました。二つ目は、同胞のユダヤ人からも集める税金を異邦人の支配者に納めるために裏切者と考えられました。

三つ目は、徴税人が支配者に納める税金の総額は決まっていますが、個別に集める税金の金額は決まっていないことが多く、徴税人の裁量に委ねられていました。そのため徴税人は高い税金を取り立てて、差額を自分の懐に入れることが多くあったためです。「徴税人と罪人」と3回言われて徴税人は罪人と同列の扱いです。

マルコによる福音書と並行記事のルカによる福音書ではこの徴税人はレビと書いてあります。もう一つの並行記事であるマタイによる福音書ではこの徴税人はマタイによる福音書を書いたマタイのように書いてあります。レビは恐らくマタイと同一人物であると思われますが、はっきりとは分かりません。

今回、この徴税人の名前がレビであることに色々と考えさせられました。名前がレビであるということは明らかにイスラエルの12部族の内のレビ族であるはずです。もしかするとレビ人のマタイという人なのかも知れません。レビ族ということは祭司の家系で、主なる神を相続地とする人々です。

レビ族はイスラエルの他の部族と違って相続地を持たず、他の部族に支えられて生きて来ましたが、祭司として尊敬されていました。ユダヤ人から嫌われる徴税人が、なぜよりによって祭司の家系のレビ族の人なのでしょうか。それは考えてみますと、むしろレビ族であるが故に徴税人になったのかも知れません。この時には税金等は異邦人の支配者に納めなければなりませんが、レビ人は相続地もありません。

紀元前6世紀のバビロン捕囚から帰って来た後に、イスラエルの相続地はどうなったのかは良く分かりません。レビは決して好き好んで徴税人になったのではなく、生活の糧を得るために、仕方なく徴税人等にならざるを得なかったのかも知れません。

レビはそのような複雑な背景を抱えて収税所に座っていたのでしょう。主イエスはそのようなレビを見られました。聖書で「見る」という言葉は、どのように見るかという意味で、特別な意味があります。全能の主イエスは、そのようなレビの過去や今の思いを含めて全てを見られました。

そして、「私に従いなさい」と言われました。1:16~20で4人の漁師を弟子にしたときも同じですが、主イエスが選ばれて声を掛けられた者だけが弟子になります。レビは主イエスの評判を聞いて知っていたのでしょう。レビの名前の意味は「結ぶ」です。

レビ族は祭司の家系として神と人を結ぶ役割を担って来ました。レビは座っていましたが、立ち上がって主イエスに従いました。聖書で「立ち上がる」という言葉は、単に体の動きとして座っていたところから立ち上がるということだけではなく、霊的に立ち上がるという意味があります。

レビは祭司の家系の者として、神と人を結ぶ本来の役割を担いたいという思いを起こされたようです。私たちは座っているところから立ち上がりますと目の高さが変わりますので、自分が座っていた場所や周りの景色が違って見えるようになります。

座っている時には余り気付かなかったけれど、自分が座っていた場所が散らかっていることに気付いて片付けをしたりします。同じように霊的に立ち上がるとものの見え方が変わって来ます。

2、レビの食卓
主イエスはレビの家で食卓に着いておられました。多くの徴税人や罪人も主イエスや弟子たちと同席していて、大勢の人が主イエスに従っていました。14節で主イエスは、「従いなさい」と言われ、レビと大勢の人は従い、「従う」という言葉が3回使われて強調されます。

霊的に立ち上がったレビは早速、主イエスと他の人たちを結ぶ働きとして、食事会を始めました。それはレビが徴税人であった時には考えられない働きであったことでしょう。罪人は犯罪人も含まれるかも知れませんが、それは宗教的な意味の罪人で、律法を知らない人や守らない人たち、宗教的に汚れているとされている人たちです。

そこでファリサイ派の律法学者たちは、主イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見ました。どのように見たのでしょうか。ファリサイ派という名前は、「分離された者」という意味です。彼らは基本的には真面目な人たちです。

律法を大切にして、律法を完全に守るために、自分たちで独自のルールを作って行きました。律法学者はその律法の専門家です。そしてそのルールを守らない人々からは分離していました。それ自体は悪いことではないと思います。「君子危うきに近寄らず」は聖書も教える知恵です。

しかし彼らの間違いは、自分たちだけは他の人たちと違って、絶対に正しいと思い込んで高ぶり、高慢になっていたことです。その高慢さは神である主イエスよりも自分たちの方が正しいと思っているほどです。霊的に立ち上がったレビと、この世的に高ぶる律法学者は対照的です。
律法学者たちは弟子たちに言いました。律法学者たちは6節では、主イエスに対する不満があっても心の中で考えただけでした。しかし高ぶって高慢になっている者の行動は収まることなく、どんどんとエスカレートして行きます。罪の恐ろしさを覚えます。

それでも主イエスは多くの人に慕われていて言い難いので、律法学者たちは弟子たちに言います。「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。これは単なる質問というよりも明らかに、どうしてそんなことをするのかと非難をする言葉です。

自分が理解出来ないことをまず理解しようとするのではなく、自分の考えを絶対化して非難することはとても愚かなことです。そもそも正しく見て判断を出来るのは神のみであり、人間はレビや大勢の人たちのようにただ従うのみです。

自分の見方が正しいと思い込んで、神である主イエスを非難するというのは大きな的外れの罪です。しかし的外れの罪を犯しているときは本人は気付きませんので恐ろしいものです。

3、罪人を招くため
主イエスは律法学者たちが弟子たちに言った声を聞かれました。これは律法学者たちが主イエスにも敢えて聞こえるように言ったのか、それとも主イエスが大勢の人の中で律法学者の声を聞き取られたのかは分かりません。ただ主イエスは8節で、律法学者たちが心の中で考えたことでさえ見抜かれていますので、全てをご存じです。

主イエスはまず、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と言われました。これは誰にでも分かり易い最もなことです。しかし色々と考えさせられる言葉であり、次の言葉の意味を考えるためにも大切な言葉です。確かに、丈夫な人は医者を必要とはせず、病人は医者を必要としますので、この文章は正しいものです。

しかし現実に、全ての病人が医者を必要とするかというと、実はそうではありません。本当に医者を必要とするには二つの条件があります。一つ目は自分が病人であることを知ることです。本当は病人であっても、自分が病人であることを知らない人は医者を必要とは思わないものです。

二つ目の条件は自分の病気を医者に癒してもらうことを願うことです。自分が病人であることを知ってはいても、医者に癒してもらうことを願わない人も時にはいて、そのような人は医者を必要としません。ヨハネによる福音書5章のベトザタの池で、38年間病気で苦しんでいる人に主イエスが初めに、「良くなりたいか」と声を掛けられたのは印象的です。

次に主イエスは、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われます。この言葉はこの前の、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と似ている部分があります。主イエスは実際に病人の病を癒やし、10節にありますように、罪を赦す権威をお持ちです。

そのどちらに重点を置いておられるかと言えば、1:38で、「私は宣教するために出て来たのである。」と言われています。それは最終的な目的は罪の赦しによる救いです。そのために罪人を招いて、悔い改めに導いて、福音を宣べ伝えるために食事を一緒にしています。

17節の二つの文章は似てはいますが違うところもあります。医者を必要としていない丈夫な人はこの世にいます。しかし主イエスに招かれる必要のない正しい人というのは果たしてこの世に存在するのでしょうか。ローマの信徒への手紙3:10は、「正しい者はいない。一人もいない。」と言います。
全ての人は原罪を犯したアダムとエバの子孫ですので原罪を持つ罪人です。全ての人は罪人ですから、全ての人は主イエスから招かれています。主イエスは全ての罪人の罪の赦しのために後で十字架に付かれます。しかし主イエスの招きに応じるためには、先程の医者を必要とする病人と全く同じ意味で条件が二つあります。

一つ目は自分が罪人であることを知ることです。これは現代では聖書の知識がある程度広まっている国では理解され易い部分があるようです。しかし聖書の知識が知られていない国で罪人というと、私は犯罪等を犯していないのに、どうして罪人なのかと引っ掛かってしまいます。

私は英英辞典で初めて、罪(sin)と調べたときに、「神の掟を破ること」と書いてあったことに驚きを覚えました。初めから自分が罪人であることを知っている必要はありません。ただ時間が掛かっても自分が罪人であることを理解する必要があります。

二つ目の条件は自分の罪を主イエスに赦してもらうことを願うことです。自分が罪人であることを本当に知るならば罪の赦しを願うものです。そのために主イエスが既に十字架に付いてくださっているのですから、ただその事実を受け入れるだけです。

主イエスは全ての人の罪の赦しのために十字架に付かれました。それで全ての人は主イエスに招かれています。しかし主イエスの招きには応じない人がいるのが分かります。それは二つの条件を受け入れない人です。この聖書箇所でいいますと律法学者たちです。

律法学者は聖書の知識が無いのではなく聖書のエキスパートであり、誰よりも聖書の知識はあります。知識はあるのですが高ぶって高慢になっているために的外れになっています。そのために自分がまさか罪人であるとは思っておらず、自分は正しい人であると思い込んでいます。

主イエスが「正しい人を招くためではなく」と言われる「正しい人」というのは、律法学者のような自称正しい人を指します。自分で自分を正しいと思っていて、罪人であることを認めない人は残念ながら招かれていません。何も書かれていませんが、律法学者はこの言葉をどのように受け止めたのでしょうか。

誰でも自分は罪人ではなく正しい人であると思いたいものです。しかし自分が正しい人であると思うことは、主イエスがこの世に来られて十字架に付かれたことは無意味であると否定することです。私たちは罪人です。だからこそ、主イエスはこの世に来られて十字架に付いてくださいました。そして私たちはその恵みに与る者です。

私たちは聖霊の導きの中でその事実をただ受け入れて信じるだけです。主イエスは4:9の、「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉を何度も繰り返されます。3日後から新しい年が始まります。主イエスに招きに素直に従って霊的に立ち上がって、新しい年を歩ませていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あと二日で今年も終わります。この礼拝に参加されている皆さんにも今年も色々なことがあったことと思います。ここまでお守りくださり有難うございます。全ての人が主イエスの十字架の恵みに与り、新しい年も霊的に立ち上がって歩めますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。