「主が建てる家」
2025年元旦礼拝式説教
詩編127編1、2節
主の御名を賛美します。新しい年になりました。今年も宜しくお願いいたします。
1、主が建てる家
元旦礼拝式ではここのところ、次年度の教団の聖句から御言葉を聴かせていただいています。詩編127編を含む120~134編は、1節の表題に「都に上る歌」と付いています。「都に上る歌」は都のエルサレムにある神殿に巡礼に行くときに歌われたものです。
それはレビ記23章にありますイスラエルの三大祭である過越祭(春)、七週の祭(夏)、仮庵祭(秋)です。「ソロモンの詩」とありますが、ソロモンが書いたのではなく、神殿を建てたソロモンを記念して、ソロモンに献げるための詩という意味のようです。
時代的には紀元前6世紀にイスラエルが滅ぼされて、バビロンに捕囚に連れて行かれ、その後にイスラエルへ戻って来てから書かれたもののようです。皆、異国のバビロンから自分の故郷に帰るなどして、かつての自分の家に運よく帰ることが出来た人もいたかも知れません。しかし、多くの人は労苦をして新たに自分の家を建てたことでしょう。
そのときに、「もし、主が家を建てるのでなければ それを建てる人々は空しく労苦することになる。」と言います。この個所では「空しい」という言葉を3回使って強調していますが、どのようなことが空しいことなのでしょうか。
家を建てるというのは、それなりの労苦を必要とするものです。現代でも家を建てるのは一生の内でも一大事業で、何十年というローンを組む場合が多いと聞きます。
夢である自分の家を建てて、そのローンの返済のためにも働きます。問題はその労苦が空しくなるかどうかです。
建てた家でずっと楽しく暮らせるのであれば、ローンの返済の労苦も空しくはなく、むしろ達成感を覚えるかも知れません。イスラエルの人々も労苦をして、かつては家を建てて持っていました。しかし捕囚によって労苦をして建てた家を失なってしまいました。
それはイスラエルが不信仰であったからです。イスラエルの不信仰によりイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分裂して、その後は両方の国とも滅ぼされてしまいました。イスラエルが建てた自分の家、神の家である神殿を失い、家を建てた労苦は空しくなってしまいました。
ここでいう「家」は単なる建物の家のことだけではないようです。日本語の家が意味するのと同じで、家族や家庭も含む広い意味です。神の家族である教会、所属する会社等の組織等とも考えられます。この聖書個所の内容を思い巡らしますと、いくつかの聖書箇所が思い浮かびます。
一つ目は、マタイ7:24~27の、自分の家を岩の上に建てた賢い人と砂の上に建てた愚かな人の話しです。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲うと、主イエスの言葉である岩を土台としている家は倒れません。私たちの人生には、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて襲うようなことが、大きいか小さいかは別として、誰にでも必ず起こって来ます。
そのときに、例え地味でも、主を土台として主に建てていただいた家は倒れません。主が支えてくださるからです。しかし、主イエスの言葉を土台としない砂の上の家は倒れてしまいました。いくら豪華で華やかな家庭、教会、会社等を築いても、主を土台として、主によって建てていただくのでなければ、空しい労苦になってしまいます。
もう一つは、創世記11章のバベルの塔です。当時の人々は驕り高ぶって、自分たちの力で塔を築いて、その塔の頂は天に届くようにして、自分たちの名を上げようとしました。しかし主によって言語を混乱させられ、互いの言語が理解できないようにさせられました。そして全地の面に散らされることになりました。バベルの塔を建てたことは空しい労苦になってしまいました。
2、主が守る町
また、「もし、主が町を守るのでなければ 守る人は空しく見張ることになる。」と言います。これは地域が変わって、時代が変わっても、特に現代では国が国を守るために国境の見張りを行います。米国やイスラエル等では国境の壁が良く話題になります。町を守るために見張ることは大切なことです。
イスラエルは地政学的にとても難しい場所に置かれています。当時のイスラエルは北にアッシリアという大国があり、南には大国のエジプトがあり、大国に挟まれた小国イスラエルは難しい判断が迫られます。一方の大国に敵対し過ぎると滅ぼされ、近付き過ぎると支配をされてしまう可能性があります。
現在の東アジアでは北朝鮮は北のロシアと南の中国という二つの大国の間で何とか上手く立ち回ろうとしています。韓国、台湾、日本は二つの胎大国には余り近付かず、遠く離れた米国と同盟等を組むことでバランスを取っています。
当時のイスラエルも見張りはしていたでしょうが、自分たちの力だけで守るのは不可能です。大国のアッシリアやエジプトが本気でイスラエルを攻めて来たら一溜まりもありません。主に守っていただく必要があります。
これは現代の私たちも同じです。大国からの攻撃を見張って守るということもありますが、自然災害等の発生を見張って守る必要もあります。色々な技術の進歩等によって自然災害を予測するような見張りも行ってはいます。しかし自然災害の力は圧倒的で、人間の手だけに負えるものではありません。主に守っていただくのでなければ空しい見張りになってしまいます。
また町も前の「家」と同じに、家族、家庭、教会、会社等とも考えられます。私たちは自分の所属する組織を自分の力で守ろうとします。しかし二つの問題があります。一つは、人間は不完全で間違いやミスを犯すこともありますので、自分の力だけで見張って完全に守り切ることは不可能です。
もう一つは人間の力が及ぶ範囲は限られていますので、自分の手の離れたものには力が及びません。例えば幼い子が自分の家にいる間は、ある程度は自分が見張って守ることはできるかも知れません。しかし成長して自分の手の離れた子どもが社会に出て行ったら、見張って守るのは不可能で空しいものです。主に信頼して守っていただくのみです。
3、主は眠りをお与えになる
「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる」ような勤勉な姿勢自体は一つの美徳です。この箇所を読みますと箴言31:15~18、27の「有能な妻」を思い出します。ただここには気を付ける落とし穴のようなものがあります。
私たちは、朝早くから夜遅くまで睡眠時間を削って働き、苦労してパンを食べるときに、そのこと自体に自己満足感を覚えてしまいがちです。しかしそのようなことは、「空しいことだ」と言います。なぜなら、「主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。」です。私たちが眠りについて休んでいる間に、主は私たちに必要な作物等を成長させてくださいます。
主は、人間が必要とするものを全てご存じです。主は愛する者には、健康で長く生活し、幸せでいられるように必要な眠りを与えてくださいます。しかし、そのようなことを言ったら、「有能な妻」はどうなるのだと思われるかも知れません。有能な妻は長時間労働自体に価値を置いているのではありません。
有能な妻は箴言31:30で、主を畏れて、主の御心に従って行動しています。主の御心に従うとは、質的にも量的にも最高の奉仕を、喜びを持って主に献げられるように、主が与えてくださる必要な眠りをとることです。いつも寝不足では、長期間に渡る、良質の奉仕が反って出来なくなってしまいますし、喜びも無くなってしまいます。
いずれにしても、家を建てる労苦はありますし、町を守る見張りは必要です。パンを食べるには働きが必要です。同じことをするのであれば、いつも喜びに溢れて、実り豊かな毎日を過ごしたいものです。折角、労苦したことが空しい結果にはなりたくないですし、無意味に短時間の睡眠にはなりたくないものです。
結局、この聖書箇所を一言で纏めるとどうなるのでしょうか。箴言10:22と言えるでしょう。これは主の祝福が全てなのだから、人は何もせずに怠惰で良いという意味ではありません。家を建てるためには労苦が必要ですし、町を守るためには見張りが必要です。パンを食べるには働きが必要です。
しかし人の労苦だけでは自己満足は得られても、何にもならず空しい結果に終わります。主を土台とするときに、主が祝福してくださり、御心に適う人の労苦を豊かに用いてくださいます。
新しい年になりましたが、皆さんは、どのような抱負をお持ちでしょうか。まず初めに、私たちは主イエスの十字架によって罪を赦された者、赦される者であることを覚えましょう。その上で、主が私たち一人一人に、どのようなことをお望みであるのか主に御心を尋ねましょう。
主が与えてくださる必要な眠りを十分にとり、食べ物を楽しみ、主が建てられる家で、与えられる働きを喜びを持って担わせていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは何とか自分の力で頑張らなければと思ってしまいがちです。しかし主は、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。」(マタイ6:33)と約束されます。この新しい年も主に信頼して祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。