「神を畏れる」

2024年2月11日礼拝説教  
申命記 25章11~19節

        

主の御名を賛美します。

1、つかみ合い

今日も3つの話があります。1つ目は、二人の男が争っているとき、一方の妻が殴る者の手から夫を救おうと、手を伸ばして相手の隠し所をつかんだ場合です。一般論として女は男より腕力においては劣るものです。それで愛する夫が殴られているので、夫を救おうと手を出すというのは、ある意味で勇気のいる行為であり、一見、美談のようにも思えます。

しかしそのようなことをしたなら、彼女の手を切り落とさなければならないと言います。何がそれ程に悪いことなのでしょうか。格闘技的な視点からは相手の急所を攻撃することは最も効果的です。しかし公平さの視点から考えると1対2の争いになり、しかも急所を攻撃するというのは卑怯な感じもします。

割礼を施し神との契約のしるしのある男の急所をつかむというのは、女に取って恥知らずな行いなのでしょう。「隠し所」と訳されている言葉は、「恥をかく」という言葉と関連があり、そこをつかむことは相手に恥をかかせる意味もあるでしょうか。

また前の段落の内容との繋がりを考えますと、そのようなことをすることによって相手が子孫を残すことが出来なくなる可能性も考えられます。そのようなことをする者に憐れみの目を向けてはなりません。夫を救おうとする思い自体は悪いものではありませんが、間違った方法を選ばないようにする必要があります。

2、正確な量り石と升

2つ目は、あなたは袋に大小二つの量り石を入れておいてはなりません。これは何か物を買うときには、大きい量り石を使って、本来の重さより多く取って、売るときには小さい量り石を使って本来の重さより少なく渡す不正です。

同じように、あなたは家に大小二つの升を置いてはなりません。升も量り石と同じように買うときと売るときで使い分ける不正のためのものです。升はエファという言葉が使われていますので約23リットルで、結構、多い量ですので多少は誤魔化しても分かり難いのかも知れません。

しかしそのような2種類の計量の道具を使うのは明らかな不正です。そのようなことはせずに、全く正確なただ一つの量り石と升を持たなければなりません。このような不正は人は誤魔化すことは出来ても、全知全能の神だけは誤魔化すことは出来ず、神は全てをご存じです。

不正を行わない者には、あなたの神、主があなたに与える土地で、あなたは長く生きることができるという約束が伴ないます。長く生きるとは、この世での意味もありますし、永遠の命に繋がることです。しかし不正を働いた者をすべて、あなたの神、主は忌み嫌われます。主が忌み嫌われるということは何らかの報いがあります。

ここで言う不正とは多少違いますが、現代でもコンビニの弁当の上げ底の問題等もあります。また計量に2種類の道具を使うのと似ているのが、話す相手によって言う内容を変える二枚舌があります。二枚舌は、Aさんには自分が良く思われるように事実を曲げてAさんに話して、Bさんには自分が良く思われるように事実を曲げてBさんに話します。

AさんとBさんの間の揉め事の原因を探って行くと、二人の間にいるCさんがAさんには丸でAさんの味方のように悪いのはBさんだと言って、同じCさんがBさんには悪いのはAさんだと言っていたためだということがあります。Cさんにはそれ程の悪気は無く、ただAさんとBさんの両方から気に入られたいためのようです。しかし事実を曲げることは不正であって揉め事を作る原因となり、主は忌み嫌われます。

3、アマレク(人)

3つ目は、アマレク(人)についてです。あなたがエジプトを出て来たとき、その途上で、アマレクが行ったことを、あなたは思い起こしなさいと命じます。アマレクとはどんな人だったかなと思われるかも知れません。出エジプト記17:8~16に「アマレクとの戦い」の小見出しで書かれています。

アマレクのことは覚えていなくても、アマレクとの戦いでモーセが手を上げているとイスラエルが強くなり、手を下げているとアマレクが強くなりました。そこでアロンとフルがモーセの両手を支えたという話は、子ども向けにも良く話されますので覚えておられるかも知れません。

そのときに、アマレクは道でイスラエルと出会い、イスラエルが疲れ切っていたとき、イスラエルの後方にいる、疲れ切ったすべての者たちに背後から襲いかかりました。イスラエルの先祖の一人にヤコブがいますが、アマレクはヤコブのお兄さんであるエサウの子孫です(歴代誌上1:36)。イスラエルにとっては親戚です。

しかしイスラエルがエジプトをやっとの思いで脱出して疲れ切っていたときに、アマレクは後方にいる者たちに襲いかかりました。「後方にいる者」を新改訳では「落伍者」と訳していて、もう疲れ切って皆から離れてしまった者たちです。そのような者を襲うのは弱い者に対して全く憐れみの欠片も無い、情け容赦の無い仕打ちです。

憐れみの無い卑怯なことをする者は、自分がその行いをする相手を恐れていないだけではありません。すべての人を造られた神を畏れていません。神を畏れず、極悪非道なことを行う悪を放置しておくことは出来ません。これまでも何度も命じられているように、悪を取り除く必要があります。

しかしコヘレトの言葉3:1が、「天の下では、すべてに時機があり すべての出来事に時がある。」と言うように、すべてのことには神の時があります。神の時を知って神の御心を行います。

民数記13章で、カデシュ・バルネアからカナンの地に上るようにイスラエルは主から命じられました。イスラエルは12人の偵察隊を送りましたが、ヨシュアとカレブを除く10人が、カナンには巨人の先住民がいることを恐れて報告をすると共に、悪い噂を広めたためにイスラエルは上りませんでした。

しかし14章で、悪い噂を広めた者は主の前で疫病にかかって死にました。するとイスラエルは自分たちの罪に気付いて、今度は、上ってはいけないというモーセの言葉を聞かずに上ったために、アマレク人とカナン人に打ち破られてしまいました。すべては罪を犯す前に神の時に行う必要があります。

このときのイスラエルにとっての神の時は、あなたの神、主が相続地としてあなたに所有させる地で、あなたの神、主が周囲にいるすべての敵からあなたを守り、休息を与えてくださるときです。主は人に無理な要求はされません。一段落して少し落ち着いたときに、なすべきことをきちんと行いなさいと言われます。

そのときに、「あなたは、アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい。このことを忘れてはならない。」と言われます。しかしアマレクが完全に滅ぼされるのはヒゼキヤの時代ですので(歴代誌上4:43)、数百年掛かることになります。ここでどうでも良いような詰まらないことですが気になる言葉があります。

それは「アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい」という言葉ですが、永遠のベストセラーと言われる聖書に書かれるのですから、記憶を消し去るどころか、世界中に記憶されることになります。そのような意味から考えますと、アマレクの悪の痕跡は天の下から消し去りますが、その教訓は記憶する必要があります。

4、神を畏れる

アマレクが疲れ切ったイスラエルを襲った根本的な理由は、神を畏れることがなかったからでした。これはあらゆる問題や不正の根源です。今日の一つ目の話の妻が夫の争いの相手の隠し所をつかんだことや、二つ目の大小二つの量り石と升による不正の問題もそうです。

神を畏れるなら決して出来ないことです。箴言1:7は、「主を畏れることは知識の初め。無知な者は知恵も諭しも侮る。」と言います。アマレクが侮っていたのはイスラエルだけではなく、主を侮っていました。しかしここでアマレクは真の神を恐らく知らないので、神を畏れることがなかったのは仕方が無いと思われるかも知れません。

しかしこれは真の神を知らない人だけの問題ではありません。真の神を知っているはずのイスラエルでも、24:1でミリアムは主が立てたモーセに逆らい主を侮りました。民数記13章のカデシュ・バルネアでも、カナンの地について悪い報告をして悪い噂を広めた10人は、ヨシュアとカレブを侮っただけではなく主を侮りました。

しかもこれらの問題を起こす人たちは自分が正しいと思い込んでいます。しかし主の裁きによって全てのことは誰の目にも明らかになります。主はモーセを通して、「アマレクの記憶を天の下から消し去りなさい」と命じられます。しかし、ローマ12:19は「自分で復讐をせず、神の怒りに任せなさい。」と言いますので裁きは主にお委ねして、私たちは悪の痕跡を消し去るみです。

悪の痕跡は消し去りますが、その教訓は繰り返し思い起こし記憶する必要があります。思い起こす方法は聖書を読むことも大切ですが、特に5:15にありましたように、安息日に繰り返し聖書の話を聴くことによってです。主の裁きの話を聞くと怖く感じることもあるかも知れませんが、主の裁きは正しい者にとっては救いであり大きな恵みであると共に、神を畏れるために必要なことです。

ただ人間は誰でも自己中心的で自分が正しいと思い込み易いものです。いつも聖霊の導きの中で、神を畏れ謙って自分の中を探っていただく必要があります。そして自分は今、聖書の中のどの話の中を歩んでいるのかを知る必要があります。

聖書の中には多くの人間の失敗の話があります。それは私たちが同じ過ちを繰り返さないためです。私たちが自分の失敗に気付いたら直ぐに悔い改める必要があります。私たちの罪の赦しのために、主イエスは既に十字架に付かれています。主イエスの十字架に感謝し、また聖書の中の失敗の話を無駄にせず生かして、聖霊の力によって神を畏れ歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。アマレクは見えるイスラエルだけを意識して侮り、見えない神を畏れることがありませんでした。しかし私たちも見えるものに囚われ易く、見えない神を見失い易いものです。聖霊の力によって、知識の初めである神を畏れることをいつも覚えさせてください。そして主の祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。