「乳と蜜の流れる地の祝福」 

2024年2月18日礼拝説教 
申命記 26章1~15節

        

主の御名を賛美します。

1、土地の実りの初物

イスラエルはこれから主が相続地として与える地に、入り、所有し、住みます。3つの動詞を使って言い換えて意味を強調しています。普通であれば、「イスラエルが相続地に住むときに」と言えば良いだけのことです。しかしイスラエルは主が与える相続地にまず入ります。

38年前にカデシュ・バルネアで、イスラエルが12人の偵察隊を送りましたが巨人の先住民を恐れて入れなかったあの因縁の地に、今回は入ります。そして入るだけではなく所有して自分の物とします。更に所有するだけではなくイスラエルが住むようになることを強調しています。

そしてそのときには、主が与える地で取れた、その土地の実りの初物すべてを籠に入れ、主がその名を置くために選ぶ場所に行きます。今日の聖書箇所で、主はモーセをとおしてイスラエルに3つの告白をするように命じます。第一の告白は、主が私たちに与えると先祖に誓われた地に来たという報告です。

「誓われた地に来た」と言うだけなのであれば、地に入ったときに言えば良いことです。しかしその土地の実りの初物を籠に入れて持って行くということは、その土地が確かに豊かな乳と蜜の流れる地であるというしるしを持って行くということです。主に対する報告は祭司に対して行い、祭司は人と神の仲保者として、その籠を主の祭壇の前に供えます。

2、あなたはどこから来たのか

次に第二の告白として、主の前で5「 ~ 10」節の内容を言います。5~9節は聖書で何度も繰り返されるイスラエルの歴史を語る告白文です。なぜこのような内容が繰り返されるのでしょうか。この内容は、茂原キリスト教会の70周年の御言葉である創世記16:8の前半の、「あなたはどこから来たのか」という内容です。

聖書は、「あなたはどこから来たのか。」という問いをとても大切にします。私たち一人一人は点で考えますと世界の80億人の中の一人であって、自分だけを見ていると見失ってしまうようなとても小さな存在です。しかし線で考えますと全ての人は約6千年前のアダムとエバに確実に繋がっていて、神が目的を持って造られた、神の目に貴く重んじられる存在です。

自分がどこから来たのかということがはっきりとしますと、今、自分がどこにいるのかが分かって、創世記16:8の後半の、「どこへ行こうとしているのか。」が見えて来るようになります。逆に言いますと、「どこから来たのか」を正しく理解していないと、今、自分がどこにいるのかが分からなくなり、これからどこへ行こうとしているのかも更に分からなくなってしまいます。

NHKのテレビ番組でファミリーヒストリーというものがあります。有名人の家系を辿って、どのような系譜の中でその人が生まれて現在に至るのかを知るもので面白いものです。5~9節のイスラエルのファミリーヒストリーのように、私たちも自分のファミリーヒストリーを短く纏めて覚えておくことが必要です。

それを繰り返し告白することによって、自分は神の恵みによって今があることをしっかりと覚えます。イスラエルの先祖はさすらいのアラム人と言われますと、あれ、イスラエルの人々はヘブライ人ではないのかと思われるかも知れません。アラムはシリアを指しますが、イスラエルの先祖の一人のアブラハムはアラムのハランからカナンへ移住しました(創世記12:4)。

またヤコブのお母さんのリベカの実家はアラム・ナハライムにあり(創世記24:10)、ヤコブもアラムに20年住んでいましたので(創世記31:41)、アラム人と言っているようです。ここで敢えてアラム人というのは、イスラエルにはアラム人の習慣や文化の影響が残っているという意味と、そのようなただのアラム人が神の恵みによって神の民、イスラエルとされたという意味が込められていると思います。

私のファミリーヒストリーを少しお話しますと大きな影響があるのは横須賀で生まれ育ったことでしょうか。家から海は直線距離では2百メートルも無く、高台なので家から海が見えます。父は海が好きで私も幼い頃から良く海に連れて行かれて、物心の付く頃には釣り竿を持たされていました。

私が水産の学校に行ったのも自然な流れでした。学校に入ってから気付いたことでしたが、母方の祖母の実家は横須賀の相模湾側の海沿いにある長井という町の出身で、知り合いから海産物を購入して私も良く食べていました。母は、「はば」という海藻の海苔や、赤魚の粕漬が好きで良く家で食べていたので、今でも海産物は好きです。

また母が米軍基地に勤めていて英語を話しましたので、私も話せるようになりたいと思って英国に行きましたので母の影響もあります。そして英国に行ったのが教会に行く切っ掛けとなり、現在に至りますので、不思議な導きです。

イスラエルは少数の者である男子が70名でエジプトに下り、430年寄留して、強くて数の多い男子が約60万人になりました。しかしそのようなイスラエルを恐れたエジプト人たちは過酷に扱い、苦しめ、つらい労役を課しました。これは奴隷の苦しみですが、現代を生きる私たちにとって、エジプトの意味は罪の奴隷を象徴する苦しみです。

しかしイスラエルが主に叫び求めますと、主はイスラエルの声を聞き、苦しみと労苦と虐げを見て、力強い手と伸ばした腕、大いなる恐るべき業としるしと奇跡をもって、イスラエルをエジプトから導き出しました。これは直接的にはエジプトに下された10の災いや紅海渡渉等を指します。これは現代の私たちには主イエスの十字架による罪の赦し、死からの復活の力により永遠の命を与える救いを表します。

イスラエルが導き入れられ、与えられる乳と蜜の流れる地とは、現代においてはどのようなことを意味するのでしょうか。それは神の支配される神の国のことです。神の国というのはこの世においても神が支配し、人がその支配に従っているところです。

洗礼を受けて神の国に一度は入ったけれど、いつの間にか迷い出てしまっていてはなりません。神の国に入り、所有し、住み続けることが必要です。そして主にその土地の実りの初物を持って行きます。これは神の国に住んでいるなら、そこに必ず霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22)が実りますので、その実の初物を主に献げます。献げることは献身の象徴です。

第二の告白は救いの証しと献げ物の持参の報告です。クリスチャンのファミリーヒストリーはイスラエルと同じように、それが神の救いの恵みと献身の証しとなります。私たちもイスラエルと同じように証しとなるファミリーヒストリーを告白するものでありたいものです。私も自分のファミリーヒストリーをもう少しきちんと纏めてみたいと思っています。

3、施し

それに対して主は、土地の実りの初物を主の前に供え、主の前にひれ伏しなさいと命じます。ひれ伏すというのは、新改訳が「礼拝しなければならない」と訳していますように礼拝をすることです。次に、主があなたとその家に与えられたすべての恵みを、あなたと、レビ人と、あなたの中にいる寄留者と共に楽しみなさいと命じます。

その命令に従って、十分の一を納める三年目に、すべての収穫の十分の一を納めます。この三年目の十分の一は14:28にも書かれていましたが、これは毎年の十分の一に追加での十分の一のようですが正確には分かっていません。レビ人、寄留者、孤児、寡婦にこれを施し、食べて満足をしたときに、13「 ~15」節の第の告白をします。

4、告白祈祷文

第三の告白では、まず自分たちがしてきたことを二つ告白します。一つ目は、すべてあなたが命じられた戒めに従って行ったことです。聖なるものを家から取り出しましたが、聖なるものとは神の命令に従って取り分けた三年目の十分の一です。それを命令のとおりに、レビ人と寄留者、孤児と寡婦に与えました。

二つ目は戒めに背く、三つのことをしなかったことです。1番目は聖なるものを喪中に食べませんでした。喪中は祭儀的に汚れた者とされますので(民数記19:14)、聖なるものは食べられません。2番目は汚れているときに聖なるものを取り出しませんでした。何らかの理由で汚れているときに聖なるものは取り出せません。

3番目に聖なるものを死者に供えませんでした。この御言葉は気になる部分もあるかも知れません。家に仏壇がある場合や、寺の墓に食べ物を供える必要のある場合に、死者に供えるという意味で、どうなのだろうかと思われるかも知れません。それは家族等の気持ちに配慮して行う必要のあることであれば良いと思います。

それを死者が食べると思っている訳ではないと思いますし、そもそもそこで供えるものはただの食べ物等で、神が命じられた聖なるものではないと思いますので問題は無いと思います。主の命じられたとおりに、聖なるものをレビ人等に施し、戒めに背く、三つのことをしなかった告白の後は、今日の中心聖句の願いの祈りです。

初めに、「あなたの聖なる住まいである天から見下ろしてください」と願うのは凄い祈りです。聖なる主に見下ろされて耐えられる人など果たしているのでしょうか。しかしこの言葉はモーセをとおして、イスラエルにこのように祈りなさいと主が命じられている言葉です。

それは主から見下ろされても恥じることなく、主の戒めに従って前の二つの告白も行っているのだから、見下ろしてくださいと敢えて祈りなさいということでしょうか。いやいやそうではなく、これはこの後の2つの祝福のために見下ろしてくださいという意味だとも考えられます。そして二つの祝福を願いますが、一つ目はあなたの民イスラエルですが、これは分かります。

5、乳と蜜の流れる地の祝福

二つ目は、あなたが私たちの先祖に誓われたとおりに、私たちに与えてくださった土地、乳と蜜の流れる地を祝福してくださいと祈ります。乳と蜜の流れる地に入り、所有し、住むなら、それで良いという訳ではありません。乳と蜜の流れる地は、単なるカナンの地という特定の地域というよりも、主が祝福されるところです。

あるところが乳と蜜の流れる地であるかどうかは、主が祝福されているかどうかで決まることになります。そして主が祝福されるかどうかは、主の声に聞き従っているかどうかに掛かっています。イスラエルがカナンの地に入るときはカナンは乳と蜜の流れる地でした。

しかしイスラエルが主の声に聞き従わなくなるときには、イスラエルは南北の二つの国に分裂し、更に二つの国とも滅ぼされますので、カナンの地はイスラエルにとっては、もはや乳と蜜の流れる地ではありませんでした。現在のイスラエルの地は果たして現在のイスラエルにとって乳と蜜の流れる地であるのでしょうか。

そしてこれはイスラエルだけの問題ではありません。現代の霊的な意味でイスラエルであるクリスチャンにとっても、家庭や職場、色々な集まり、また教会も、そこが乳と蜜の流れる地となるかどうかは、主の祝福があるかないかで決まります。そしてそれは主の声に聞き従うかどうかに掛かっています。

「あなたはどこへ行こうとしているのか」、乳と蜜の流れる地に行こうとしているのかは、「あなたはどこから来たのか」を知ることによって見えて来ます。私たち人間はすべて罪人であり、罪の奴隷として苦しんでいました。しかし主の大いなる業である主イエスの十字架によって、信じる者は救われます。

そして主の声に聞き従って、聖霊の働きによって霊の結ぶ実を主に献げて献身し、必要な人に施し、主の戒めに従って歩みます。聖霊の導きに従って御言葉のとおりに歩むなら、例えそこがどこであったとして主が祝福され、そこは乳と蜜の流れる地となります。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはイスラエルにそして私たちに、あなたが与えて下さった土地、乳と蜜の流れる地を祝福してくださいと祈りなさいと言われます。あなたは私たちを主イエスの十字架の恵みによって救われ、乳と蜜の流れる地である神の国を与えてくださいますから有難うございます。

しかしその神の国があなたに祝福される乳と蜜の流れる地であり続けられるかは、私たちが主の声に聞き従えるかどうかに掛かっています。私たち人間は罪深いものです。どうぞ私たちがいつも自分たちはどこから来たのか、ただ主の恵みによって救われた者であることを聖霊によって覚えて証しをし、自分を献げ献身する者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。