「兄弟の義務」

2024年2月4日礼拝説教  
申命記 25章1~10節

        

主の御名を賛美します。

1、裁きによる鞭打ち

今日は3つの話があります。1つ目は1~3節の裁きの話で、1、2節は聖の内容で3節は憐れみの内容です。二人の間の争いの裁きは、正しき者を無罪とし、悪しき者を有罪とする裁きがなされなければなりません。裁きを曲げてはならないということで、究めて当たり前のことです。

これは恐らく昔も今も、権力を持っている者や社会的に強い立場にある者に有利なように裁きが曲げられることがあるようです。国際政治等でもそうでしょうか。もしその悪しき者を鞭打つなら、その罪に応じた数だけ鞭で打たせます。罪はその報いを受ける必要があります。

そのときに40回までは打ってもよいが、それ以上はいけないということは、41回以上は打ってはいけません。後の時代のユダヤ人は人間はミスを犯すことを知っていますので、回数を数えるのを1回間違えても主の掟を破らないようにと、鞭打ちの数を1回手前の39回迄にしていました。使徒パウロは39回の鞭打ちを5度受けたことがあるとⅡコリント11:24で言っています。

鞭打ちを40回迄とした理由は、それ以上多く鞭打たれて、同胞があなたの目の前で辱められてはならないからです。鞭打ちは激しい痛みですので、41回以上になると心神喪失状態となって醜態を晒してしまう可能性があるからでしょうか。それでは悪しき者とはいえ同胞の尊厳が失われてしまいます。そのような憐れみの無いことはしてはならないということです。

この御言葉に関わることかどうか分かりませんが、私の頭に浮かんだのは、10年前に号泣記者会見を行った野々村竜太郎という元兵庫県議会議員です。政務活動費を騙し取るという犯罪を行ったのですが、悪を行う人間は追い込まれるとあのような醜態を晒してしまうのですが、そこまで行う必要があったのかと考えさせられます。

2、脱穀している牛

2つ目は、「脱穀している牛に、口籠をはめてはならない」です。前後の文章の流れを見ますと何か唐突感のある文章です。脱穀している牛に口籠をはめなければ、目の前に穀物があるのですから牛は穀物を食べられます。

牛は脱穀という労働をしているのですから、目の前にある穀物を食べさせる憐れみの心を持ちなさいということです。パウロはこの御言葉を引用して、Ⅰコリント9:9~11とⅠテモテ5:18で、福音の働きをする者は生活の糧を得る権利があることを説明しています。

3、兄弟の義務

3つ目は、死んだ兄弟への義務についてで、聖と憐れみの両方の内容です。兄弟のいる独身の男性が初めて教会に来て、この聖書箇所が語られていたら、変なところに来てしまったと思われるかも知れません。兄弟が共に住んでいて、そのうちの一人が死に、子がなかった場合、死んだ者の妻は家を出て、他の者の妻になってはなりません。

色々と考えさせられる文章です。まず「子」は男性形で書かれていますので、これは新改訳の「息子」の意味です。そして死んだ者の妻は他の者の妻になってはなりません。「家を出てはならない」というのも味わい深い言葉です。原語には「家」という言葉は無いので意訳で、直訳では、「外に行ってはならない」です。

結婚をして、もう内の人になったのだから、外に行ってはならないということです。その夫の兄弟が彼女のところに入り、彼女をめとって妻とします。夫の兄弟が共に住んでいて(5節)と書かれていることにはどのような意味があるのでしょうか。

これは恐らくは、共に住んでいてもいなくても、兄弟であれば内容に変わりはないと思います。当時は荒れ野での移動の生活で家族は共に住んでいることが多かったのでしょう。共に住む同じ家の家族として、家族内で果たせる義務は果たして協力して家を守るということです。

現代的な感覚からは有り得ないことと感じるかも知れません。それまで同じ家で住んでいて、お互いに嫌な感情を抱いて来てなければまだ良いかも知れません。しかしお互いにこの人だけは嫌だと思っていたり、独身の兄弟が結婚相手として考えていた人が他にいたのなら悲劇かも知れません。

しかし主がこのようなことをお命じになられるということは、人間の思いを越えて、主の言葉に従う者には主からの祝福があります。この結婚の決まりをレビラート婚と言いますが、レビラートという言葉は、ラテン語で義兄弟、夫の兄弟を意味するㇾビルという言葉から来ています。

レビラート婚はイスラエルだけの慣習ではなく、中近東、モンゴルやチベット、また日本でもありました。日本では、もらい婚と言います。因みに妻が死んだ場合に夫が妻の姉妹と結婚することはソロレート婚と言います。夫の兄弟はその妻を自分の妻として、兄弟としての義務を果たさなければなりません。

兄弟としての義務とはどのようなことなのでしょうか。その妻の産む長子に死んだ兄弟の名を継がせます。長子は男性形ですので長男のことです。そのようにすることによって死んだ兄弟の名をイスラエルから絶やしてはなりません。ここで兄弟の義務とは、死んだ兄弟の名を継がせてイスラエルから絶やさないことです。

4、履物を脱がされた者の家

しかし、必ずしも全てが順調に進むとは限りません。創世記38章のユダの長男のエルの妻タマルの場合も問題がありました。その兄弟が義理の姉妹をめとろうとしないこともあるでしょう。ここでその妻がその兄弟の妻となろうとしない場合のことが言われないことは、そのようなことは全く想定もされない許されないことだったと思われます。

その兄弟がめとろうとしないときは、妻は長老たちに、「私の夫の兄弟は、夫の名をイスラエルに残すことを拒み、兄弟の義務を果たそうとしません。」と訴えます。町の長老は彼を呼び出して、諭さなければなりません。一応は説得を試みるということです。

それでも彼がかたくなに考えを変えずに、「私は彼女をめとろうとは思わない」と言って、兄弟の義務を果たそうとしないなら、義理の姉妹は彼に決別の宣告の儀式を行います。彼に近寄り、長老たちの前でその足の履物を脱がせ、顔に唾を吐きかけます。

現代の日本に住む私たちには、足の履物を脱がせるということの意味がピンとこない感じがします。ルツ4:7は、「買い戻しや権利の譲渡のときに、自分の履物を脱ぎ、相手に渡すことになっていた。」と言います。履物を脱ぐことは本来は自主的に行うべきことで、それを拒否したために、強制的にさせられることは侮辱される行為なのでしょう。

顔に唾を吐きかけるというのは、明らかに忌み嫌われ、侮辱されることです。更に彼に、「自分の兄弟の家を立てない者はこのようにされる」と言い、彼の名は、イスラエルの間で履物を脱がされた者の家と呼ばれて、辱められます。

3節で、有罪となって鞭打たれる者でさえも辱めてはならず、更に4節で、牛でさえ脱穀しているときに口籠をはめて、食べたいのに食べられないような辱めをしてはならないと言っていました。しかし兄弟の義務を果たさない者には憐れみを掛ける必要はなく、返って辱めて、そのようなことが二度と起こらないようにする必要がありました。

5、兄弟の義務の意味

ここでの兄弟の義務は、死んだ兄弟の名をイスラエルに残すことでした。しかしそのことの現代における意味はどのようなことなのでしょうか。色々なことが考えられます。一つ目は書かれている文字通りに実行することです。夫が死んだ場合に、妻も夫の兄弟もお互いに結婚をすることに合意するのであれば、御言葉のとおりですので良いと思います。

二つ目は、この聖書箇所には書かれていませんが、兄弟がその妻と結婚をすることはその妻を守ることになります。日本でも、もらい婚は戦争未亡人等を守るためだったと言われます。この当時に兄弟がいるにも関わらずに兄弟に妻として受け入れてもらえなかったということになると、その妻は更に厳しい状況に置かれることになってしまうことでしょう。

若しかしますとこのような課題の解決方法の一つとして一夫多妻制も考えられたのかも知れません。ただ現代的には、兄弟がその妻と結婚をするということは余り無く、その妻を守り支えて行くという意味と考えられます。

三つ目は、「死んだ兄弟の名をイスラエルに残す」ことの意味を霊的に考えることです。文字通りに兄弟がその妻を自分の妻としても、男の子かどうかは別としても子が与えられるかどうかは分かりません。また男の子が与えられたとしてもこの世はいつかは滅びるものですので、この世に名を残すことは空しいものです。

聖書はこの世の相続の知恵を教えるものではありません。兄弟の名をイスラエルに残すということは、霊的には兄弟の名を永遠に残すということです。それはヨハネの黙示録20:12の、命の書に名を記すことであり、救いに導くことです。

兄弟の義務とは兄弟が死んだ後にはその妻に対して出来る限りの世話をします。しかし本当の義務は死んだ後のことよりも死ぬ前に救いに導き、命の書に名を記して永遠の存在とすることです。しかしこればかりは、人の思いだけではどうすることも出来ません。

出来ることと言えば、普段から兄弟に対して聖霊に導きによる憐れみを示して、神を証しするのみです。それより先のことは祈りつつ神にお委ねするのみです。先に救われる者は、後に救われる者を導くために救われていることを覚える必要があります。主イエスの十字架の贖いによって、全ての人の名が命の書に名を記す道は開かれています。聖霊の導きによって感謝して受け入れ、名を記していただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルでは、死んだ兄弟の名を継がせ、その名を残すことを義務としました。私たちも自分の愛する家族の名が命の書に記されることを強く望むものです。先に救われる者を主の証人として全ての人の名を命の書に記すためのお用い下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。