「いつまでも主と共に」

2024年3月10日 召天者記念礼拝式説教  
テサロニケの信徒への手紙一 4章13~18節

主の御名を賛美します。今日は召天者記念礼拝です。今年度も教会の関係者で数名の方を天国にお送りしました。本当に天国が益々身近になって来ているように感じます。

1、再臨の遅れ

この聖書個所は召天者記念礼拝や葬儀等で良く読まれるところです。一度読むだけでも死について書いてあるということは分かります。ただこれは聖書に限らずに人の話等でも同じですが、その内容を正しく知るためには、その内容がどのようなために書かれているか、また話されているかという目的を知ることが大切です。

聖書の一番終りの黙示録の終りから一節前の22章20節に、主イエスの「私はすぐに来る」という御言葉があります。人々はその御言葉のとおりに、人間的な感覚で主イエスはすぐに再びこの世に来られると思っていました。しかしペトロの手紙二 3章8節にありますように、主のもとでは千年は一日のようです。

このテサロニケの信徒への手紙一が書かれたのは、紀元50年か51年頃と考えられています。主イエスが天に帰られてから約20年位が過ぎていました。主イエスがこの世に再び来られる再臨は、人々が思っているよりは遅れていることがこの当時の大きな問題になっていました。それは現代でも同じでしょうか。

なぜ問題になっていたのかと言いますと、パウロの宣教の内容を良く理解していなかった人々は、自分たちが生きている間に主イエスの再臨が起って、救いが完成すると思っていました。

しかし主イエスの再臨の遅れによって、その間に天に召される人が出て来ていました。

それによって、主の再臨の前に亡くなる人はどうなるのだろうという心配が出て来ました。また迫害もありました。その中でこの手紙の書かれた目的と考えられるのは、3章2,3節です。この手紙に先立ってパウロはテモテを遣わしましたが、その目的は、あなたがたを強め、あなたがたの信仰を励まし、このような苦難の中で、動揺する者が一人もないようにするためです。

この手紙の目的も同じです。また今日の箇所も、初めの13節で「嘆き悲しまないために」であり、最後の18節は「互いに慰め合いなさい」で終わります。この箇所は、死によって悲しんでいる人が嘆き悲しまないために、互いに慰め合うための目的で書かれています。

この箇所から、良くこの世の終わりの終末に起こる出来事が考えられたりすることがあります。しかし人を慰める目的で書かれた文章から、本来の目的ではない断片的な情報から終末に起こる出来事を読み取るのは難しいかも知れません。なぜならそのような事を説明する目的で書かれた文章ではないからです。そのように書かれた目的を理解した上で、御言葉を聞かせていただきましょう。

2、復活

「眠りに就いた人たち」という表現は天に召された人たちの比喩的な言い方として使われています。死を眠りと表現するのは素晴らしいと思います。なぜなら眠りは必ず目覚める時が来るものだからです。

同じように信仰を持っている、いないに関わらずに全ての眠りに就いた人たちは必ず目覚める時が来ます。目覚めるのはクリスチャンだけではないのかと思ってしまうかも知れませんがそうではありません。最後の審判を受けるために全ての人は目覚めさせられます。

しかしこの当時もそうですし、また現代の日本でも一般的にはそうですが、死は全ての終りと考えられています。そのような人たちは死だけはどうすることも出来ないと思っています。クリスチャンであっても、愛する人の死は嘆き悲しみます。

しかし何も希望を持たないほかの人々のようには嘆き悲しむ必要はありません。しかしそのためには知っておくべきことがあります。それは主イエスが十字架で死なれて、三日目に復活されたことです。それはそうとして、それが身近な人の死を悲しむ私たちとどのような関りがあるのでしょうか。

それは、神はまた同じように、主イエスにあって眠りに就いた人たちを、主イエスと共に導き出してくださるからです。これはどのような意味でしょうか。ローマの信徒への手紙6章3~5節にはっきりと書かれています。

私たちは洗礼によって、今日の説教題のようにいつまでも主と共にいることになります。主イエスは復活されました。それで主イエスを信じる人は、いつまでも主と共にいるので、主イエスと同じように必ず復活します。このことは言葉で言うことは簡単なことですが、自分の気持ちが付いて行くのには時間が掛かることです。

3、証し

先週の家庭集会でも少しお話をさせていただいたことですが、私たち夫婦の2番目の子どもは、生まれつき心臓の病気があり、手術をしましたが生後2カ月半で天に召されました。私たちは嘆き悲しんでいましたが、その時の教会の牧師夫妻はご自分たちの長男を10歳で亡くした人たちでした。

私たちはこの牧師夫妻は私たちと同じ心の痛みを経験していて、私たちの痛みを本当に分かってくれる人であるとの思いもあり信頼しました。その牧師夫人が私たちに、「10年は掛かるわね」と言葉を掛けられました。恐らくそれはご自分の経験から出て来た言葉だったと思います。

私たちは次男のことを思い返しては泣いて、嘆き悲しみ続けました。色々な人が声を掛けてくれる中で、その牧師夫妻の言葉だけは同じ経験者として素直に聞くことが出来ました。そしてそのような牧師夫妻を備えてくださった神に感謝しました。

そして少し自分が落ち着いて来た時に、その牧師夫妻に自分がお世話になっただけで終わりにして良いのだろうかという思いが与えられました。その時に、自分がしていただいたことを、次は自分が他の人にさせていただきたいという思いが与えられて献身へと導かれました。

それは次男のことがあってから8年後のことでした。その時はまだ次男のことを話し始めると涙が溢れて、嗚咽が始まってきちんと話をすることが出来ませんでした。

東京聖書学院に入学して直ぐのイースターの礼拝説教を聴いていた時のことです。ヨハネ20:11で、イースターの朝にマリアは主イエスの墓の外に立って泣いていました。マリアは二日前の金曜日に十字架で死んだ、主イエスの死を思って嘆き悲しんでいました。それは私自身の姿でした。

その時に私は、自分が8年間、主イエスが十字架で死んで墓に葬られたところで立ち止まり続けて来たことに気付かされました。次男の死で全てがずっと止まったままでいました。しかしそれは必要な時間であったとも思います。他の人の意識の中では薄れて行っても、親位は子どもの死を嘆き悲しみ、8年間位は喪に服しても良いのではないかと思います。

ただ主イエスは三日目に甦られました。そしてマリアが泣いて立っていた墓の中は空になっていました。主イエスは復活されたからです。主イエスが復活された空の墓の外で泣いているのは少し変な話です。その時に初めて、主イエスの復活が私の人生にも大きな関りがあることが分かりました。

そうです。主イエスが復活されたのですから、主イエスを信じる私たち夫婦の次男も必ず復活するということです。その時に本当の意味でのイースターが私の人生に訪れたように感じます。その確信が与えられてからは、次男のことを話しても感情的に乱れることはなくなりました。

聖書に書かれていることの本当の意味を心から知るには時間が掛かることもあるかも知れません。しかしそれは本当に私たちを幸せにすることです。牧師になってから、お子さんを含めて愛する家族の死により大きな悲しみに遭った方にこれまでも関わらせていただいていますが、少しでも慰めになればと願うばかりです。

4、再臨の出来事

パウロは主の再臨はいつ起るか分からないとしつつも、そのことが近いという切迫感を持っていました。その切迫感を伝えるために、その時に起こる具体的な出来事を三つ挙げます。それは、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパの鳴り響き、ですが細かいことは良く分かりません。

ただここで大切なことは明らかなしるしと共に、主ご自身が天から降って来られることです。そしてその時に起こることは、キリストにあって死んだ人たちがまず最初に復活します。そして、続いてその時に生き残っている私たちが、死んで復活し人たちと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会います。この箇所を読んでどのように感じられるでしょうか。

孫悟空の様な感じがしますが、この箇所が孫悟空のようなのではなくて、恐らくこの箇所をヒントにして孫悟空が生れたのだと思います。正直なことを言いますと、以前は私は聖書のこのような箇所が苦手でした。聖書には良いことが沢山書いてあるのに、このような箇所があると御伽噺のように感じてしまうからです。

しかし全能の神のなさることは、私たち人間の限られた知識からはそのように感じることは自然なことだと思います。そこで自己中心的に考えて自分には理解出来ないので受け入れられないと拒否をするのか、謙って全能の神は人間の想像を遥かに越えたことをされる方であると信仰によって受けいれるのかが問われます。

雲は神の臨在を表すものです。出エジプト記でエジプトを脱出したイスラエルの民が荒野を旅する時には、雲が共にいて人々は雲に従って歩みました。また使徒言行録1章9節では、主イエスは天に上げられて、雲に迎えられました。空中に引き上げられることは聖書にはない言葉ですが、携挙と言われます。

また空中で主に会うことから、空中再臨と言われます。ただどんな出来事があるというよりも、大切なことはその後の、「こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」です。私たちは主のものであって、いつまでも主と共にいる者です。

「ですから、これらの言葉をもって互に慰め合い」ます。私たちは生きている時も、眠りに就いた後も、いつまでも主と共にいることになります。

5、いつまでも主と共に

愛する人の死の悲しみの中にある方を慰めることは大切なことですが、ただ慰め方というのは中々、難しいものです。死を悲しんでいる人に、「天国でまた会えるからね」という言葉は慰めになる場合もありますが、その人の性格とタイミングもあるかも知れませんが、何の意味も持たない場合もあります。

コヘレトの言葉3章1節に、「すべての出来事に時がある」のとおりに、「泣くに時があり、嘆くに時があり」ます。泣く時、嘆く時には、「寂しいね、悲しいね」と言って共に泣いて、嘆く期間が必要です。この時は共に泣くことが一番の慰めなのかも知れません。これはもしかすると人と共にすることは難しいことかも知れません。

しかしいつまでも共にいてくださり、私たちの心の思いをすべてご存じの主が、共に泣いて嘆いてくださいます。主がどんな時にも共にいてくださることは、大きな慰めであり励ましです。主イエスの十字架の恵みによって、いつまでも主が共にいてくださることを感謝して歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちの茂原キリスト教会では今年度、数名の関係者を天にお送りしました。いつまでも共にいると約束してくださるあなたがご家族の悲しみをお慰めください。そして私たちも聖霊の導きに従ってご家族の悲しみに寄り添う者とさせてください。そして互いに慰め合う者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。