「律法の言葉を書き記す」 

2024年3月3日礼拝式説教 
申命記 26章16節~27章8節

        

主の御名を賛美します。

1、主の聖なる民

今日の前半の26章の終わりの16~19節は、12章1節からずっと続いて来た色々な規定の纏めです。もう少し広く見ますと4章44節から続いて来たモーセの第二の説教の纏めでもあります。これまでに命じられて来たことを一言で纏めますと16節で、主は、主の掟と法を行うように命じておられるので、心を尽くし、魂を尽くして守り行わなければなりません。

その主の命令に対してイスラエルは17節で、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います」と明言しました。主を神とするというのは、その後の3つの行いである、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従うということです。

明言するというのは誓うという意味の言葉です。そのような誓いを行うイスラエルに対して主も宣言をされ3つのことを言われました。一つ目は主がイスラエルに告げたように、あなたは主の宝の民となり、すべての戒めを守ります。主の宝の民となるということは、主のすべての戒めを守ることです。主の戒めを守ることは何よりも大切なことですので、3回繰り返して強調します(16、17、18節)。

二つ目は主の宝の民となるイスラエルに、主は賛美と名声と誉れを与えて、主が造られたすべての国民の上に高く上げます。三つ目にその結果として、イスラエルは主の聖なる民となります。イスラエルが主の聖なる民となるための条件は、一つ目の主の戒めを守ることです。

2、石に書き記す

そこでモーセはイスラエルの長老たちと共に民にもう一度、「私が今日あなたがたに命じるすべての戒めを守りなさい。」と命じます。しかしただ守りなさいとだけ口で命じるだけでは難しいものがあります。「言うは易く行うは難し」です。言葉で言うだけで実行できるのであれば苦労はありません。

実際に戒めを守るためにはどのようにしたら良いのか何らかの対策が必要です。そこで戒めを守るために主は二つのことを命じられました。一つ目は、このすべての律法の言葉を石に書き記すことです。私たちも大切なことは忘れないように書いておくものです。

ここではすべての戒めと言いますので、それは5~26章の長い内容になりますので、複数の大きな石が必要になります。石に漆喰を塗って律法の言葉を書き記すとなると、作るのには相当な日数が掛かると思われます。

しかし2節を見ますとヨルダン川を渡る日に石碑を作らなければならないように感じるかも知れません。しかし日本語では「日」と訳していますが、原語では、渡る「とき」の意味の言葉ですので、渡ったらというニュアンスです。石を立てるエバル山はヨルダン川から西に30キロ位離れているシェケムの谷を挟んだ山です。実際に作られるのはヨシュア記8:32ですので、ヨルダン川を渡ってから日数は掛かることになります。

あなたは石の上にこの律法の言葉をすべてはっきりと書き記しなさいと言われます。これはこの当時としては出来る限りの最善なことであったと思われます。26章17節のイスラエルの言葉は、とても真っ直ぐな良い答えで、私たちも信仰を持ち始めの頃にはこのような思いを持つのではないでしょうか。

主の戒めを守るためには戒め自体を良く知って覚えていなければ守れませんので、石に書き記すことは大切なことです。現代の私たちも似たようなことをします。聖句を家の中に掛けたり、毎日、聖書を読んで聖句を覚えたりします。私たちの茂原キリスト教会では、今年から使徒信条だけではなく、主の祈りと十戒も礼拝の中で告白することを始めました。

3、いけにえ

主の戒めを守るために行う二つ目のこととして、エバル山に主のための祭壇を築きなさいと命じます。祭壇は自然のままの石で、鉄の道具を当ててはなりません。鉄の道具を当ててはならない理由を出エジプト記20章25節は、石を汚すことになるからと言います。神が造られた石に人が手を加えることは偶像を作ることに繋がる可能性があったからでしょうか。

そして祭壇では二つのいけにえを献げます。一つ目の焼き尽くすいけにえについては、レビ記1章に書かれていましたが、牛、羊、山羊の欠陥のない雄を献げて焼き尽くします。焼き尽くすいけにえは焼き尽くすことが象徴するように自分のすべてを献げる献身を表します。

何よりもまず初めに自分のすべてを手放す献身が必要となります。初めに自分を献げる献身がなく、自己中心のままであると何をしても上手く行かなくなってしまうからです。

次に二つ目の会食のいけにえを屠り、そこで食べ、主の前で楽しみます。会食のいけにえについては、レビ記3章に書かれていましたが、牛、羊、山羊の雄雌のどちらでも良く、神との和解、平和のために献げるものです。そして神に献げると共に家族や友人等と共に食べて楽しみます。これは神との和解、平和を得る者は、隣人とも和解、平和を実現することを表します。

焼き尽くすいけにえは、自分の全てを献げることで神を愛することと言えますし、会食のいけにえは隣人と交わり隣人を愛することと言えます。この二つのいけにえの意味を考えますと、マタイによる福音書22章37~39節で律法の中でどの戒めが最も重要かと問われて、主イエスが答えられたことが思い浮かびます。

それは「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」です。主イエスは、「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」と言われました。ここでこの二つのいけにえを献げる意味は、このいけにえを献げることによって、主の戒めである律法全体の御心を思い起こし、覚えなさいという意味です。

イスラエルは26章17節で主の戒めを守るという約束をしました。それに対して主は、律法を思い起こすために、律法の言葉を石に書き記すことと、律法の御心であるいけにえを献げることの二つを命じられました。

4、人間の力の限界

この後にイスラエルは主の戒めを守り続けられるのでしょうか。私たちは歴史としてその結果を知っています。しかし例え知らなくてもイスラエルの過去の歴史である、「どこから来たのか」を知れば予想は付きます。イスラエルには40年前に主から十戒を中心とした律法が既に与えられていました。

その後にこれまでの荒れ野での40年間、律法を守ってきたのでしょうか、主を神としていたのでしょうか。イスラエルはモーセをとおして語られる主の言葉に不平を言い続けて来ました。26章17節についてイスラエルの実態を正直に言えば、主を神とするのではなく、自分が正しいと見なすことを神とし、自分の道を歩み、自分の掟と戒めと法を守り、自分の声に聞き従って来ました。

これは決してイスラエルだけの問題ではなく、現代のクリスチャンも似た部分があります。それが一時的な感情的な盛り上がりだけで、果たして急に26章17節の内容の、主を神として、主の戒めを守って行くことが出来るのでしょうか。「どこへ行こうとしているのか」は明らかです。

イスラエルの信仰は多少の浮き沈みはありますが、一貫して右肩下がりで、2千年前には形式主義に陥ってどうしようも無くなっていました。なぜそのようになってしまったのでしょうか。何が足りなかったのでしょうか。人間の本質を分かり易く表現していると思える歌があります。

それは、スーダラ節という植木等さんが歌っていた曲で、今から60年以上前の曲ですが歌詞の中にある、「分かっちゃいるけどやめられねえ」というフレーズが人間の罪深い性質を表していると思います。人間は頭では悪い行いであると分かっていても、悪い行いをやめる力がない無力な存在です。

そうであるなら人間に実行不可能な命令をなぜ全能の主が命じられるのかと疑問に感じます。しかし傲慢な人間は自分で実際に行ってみて、自分の力だけでは実行不可能であることを十分に体験しないと主の声に聞き従うことのできない存在です。

5、律法の言葉を書き記す

そこで人間が自分の力だけで生きるとどうなるかの歴史が旧約聖書に十分に書かれています。それは後の時代を生きる私たちが、そこから学ぶためでもあります。しかし旧約聖書だけを聖典とするユダヤ教では書き記された律法の言葉を自分の力だけで守ろうと今も努力をしています。

幼いときから申命記を中心とした律法を暗記し、祈るときには、テフィリンという聖句の入った聖句箱を額や腕に付けたり、メズーザーという聖句の入った箱を門柱に付けたりします。そのような努力の甲斐もあってか、ユダヤ人は色々な業界で優秀な人の割合が高いと言われます。

しかしこの世ではいくら成功しても、人間の努力だけで救いに与ることは出来ません。それは旧約聖書を読めば明らかであり、私たちは無駄な遠回りをする必要はありません。罪人であり無力な私たち人間を救うために、2千年前に救い主イエスが既に十字架に付かれています。主イエスを信じる者は罪が赦されるだけではありません。

主イエスを信じる者との新しい契約では、このときには石に書き記された主の律法の言葉を、心に書き記すとエレミヤは預言しました(エレミヤ31:33)。心に書き記された律法は、聖霊によって思い起こさせられて実行する力を与えられます。私たちはそのような恵みの時代に生きています。

律法の言葉を心に書き記し、思い起こさせてくださるのは聖霊です。しかしその言葉を知っていないと、思い起こさせられた言葉が本当に神の言葉であるかが分かりません。そこで私たち人間の側でも出来ることは行い、礼拝に出席して神の言葉を聴き、また自分でも神の言葉である聖書を読みます。

神の言葉は読み、聴くことも大切ですが、27章7節では食べて律法の言葉を体験します。御言葉は五感で味わうことが出来ます。この後に行われます聖餐は食べる御言葉と言われます。五感で御言葉を味わい、聖霊によって御言葉を心に書き記し、思い起こさせていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主の戒めを守ると誓うイスラエルに、あなたは律法の言葉を石に書き記し、いけにえを献げることによって覚え、思い起こさせました。しかし人間の努力には限界があります。しかし救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、律法の言葉を心に記し、聖餐によって思い起こさせてくださいますから有難うございます。献身と悔い改めを新たにして聖餐に臨ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。