「静まり、聞く」

2024年3月17日礼拝式説教  
申命記 27章9~26節

    

主の御名を賛美します。

1、静まり、聞く

4章44節から26章まで律法が語られて、前回の27章1~8節ではその律法を石に書き記すことが命じられました。そして今日の個所でもう一度、「イスラエルよ、静まれ。そして、聞け。」と命じます。「静まれ」という言葉は、「沈黙を守れ」という意味でもあります。

ローマ10:17は、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こるのです。」と言います。自己中心的な人間は、神の言葉を聞くことをするよりも前に、まず自分はこのように考えると言って、神の言葉を聞こうとしません。

しかしイスラエルは今日、主の民となったのだから、主の声に聞き従い、戒めと掟を行いなさいと命じます。私たちも自分はこう考えると言う前に、まず初めに静まって、神の声に聞いて従う者でありたいものです。

神は神の声に聞き従う者を祝福し、聞き従わない者を呪われます。イスラエルは主の聖なる民として、神の声に聞き従うと明言して誓っています。そこでモーセはヨルダン川を渡ったなら、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンは、民を祝福するために、ゲリジム山の側に立つことを命じます。

そしてルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリは、民を呪うために、エバル山の側に立つことを命じます。ヤコブの12人の息子の部族が二つに分けられていますが、分け方に何か意味があるのでしょうか。祝福をする6部族はヤコブの正妻であるレアとラケルの子どもの部族です。

それに対して呪う部族はレアとラケルの召し使いのジルパとビルハの子どもの4部族と、正妻のレアの子どもではありますが長子の権利を失ったルベンとレアの末っ子のゼブルンです。初めに12の呪いが宣言されますのでエバル山の側からです。

ゲリジム山とエバル山はシェケムの谷を挟んだ山ですのでシェケムの12戒とも呼ばれます。ここでは命じるだけで実際に宣言を行うのは、ヨシュア記8:33でのこととなります。

2、12戒

12の呪い、戒めは一つ一つが味わい深いものですので、一つ一つを静まって聞きましょう。1番は、「職人の手の業である、主の忌み嫌われる彫像と鋳像を造り、ひそかに安置する者は呪われる。」です。これを読みますと、十戒の第二戒の偶像礼拝の禁止の内容です。偶像とは人が造った彫像と鋳像だけではなく、神よりも優先するすべてのものです。

ここで改めて考えさせられることは、偶像を「職人の手の業」と言っていることです。5、6節で祭壇の石は自然のままの石で、鉄の道具を当ててはならないとありました。自然のままの石は神の業ですが、鉄の道具を当てるものは職人である人の業です。

聖書の言葉は表面的な物質的な意味と共に霊的な意味がありますが、ここで信仰者は神の業を誇りとして証しするということです。しかし罪深い人間は、神の業ではなく、人の業を誇りとし易いものです。誰々さんがこのことをしたとか、私が祈ったからこのようになった等と言ってしまい易いものです。そしてそれをひそかに安置します。

しかしそのような罪を犯す者は呪われます。更に、「呪われる」だけでは終わらずに、民は皆、「アーメン」と言います。「アーメン」とは「まことに、確かに」という意味ですので、「まことに呪われますように」という意味になります。そのように言っても良いほどに、自分たちはきちんと守り、守らない者は呪われて良いということです。

2番は、「父と母をないがしろにする者は呪われる。」で、十戒の第五戒の、「父と母を敬いなさい」の内容です。これも改めて考えますと、私たちは今は大人になって一人立ちをしているかも知れません。しかし、「あなたはどこから来たのか」(創世記16:8)ということを考えると、皆、母から生まれて多くの人は父や母に育てられて来たものです。

そのことから、「どこへ行こうとしているのか」を考えるときに、自分を生み育ててくれた両親に感謝をして敬うのが自然な姿であり、ないがしろにするのはとんでもないことです。

3番は、「隣人の地境を移す者は呪われる。」で、十戒の第八戒の、「盗んではならない」の内容です。現代でも文字通りに地境を移す者もいるかも知れません。これも物質的な意味だけではありません。現代では、霊的な境界線の問題として二つのことがあります。

一つ目は本人の問題として、境界線パーソナリティ障害が知られていて、これは神経症と統合失調症という二つの心の病気の境界にあるという意味です。気分の波が激しく、感情がとても不安定で、良い・悪いなどを極端に判断したり、強いいらつき感を抑えきれなくなったりする症状を持つものです。

しかし相手の気持ちを敏感に察することもできるために、時には必要以上に相手のために頑張ったり、思いやりのある行動をとったりすることもあります。

二つ目は自分と他人との境界線の問題で、バウンダリーと言われますが、発達障害で見られる傾向の一つです。人にはそれぞれに与えられている分があり、超えてはならない境界線がありますが、それを越えてしまいます。自分が境界線を越えて他人の領域に入り込んだり、他人を自分の領域に入れてしまったりします。

昨年、発達障害についての教団の講演会をオンラインで行いとても良い内容でした。昨年は基礎編の内容で、今年は応用編が10月に行われる予定のようですので楽しみに待ちたいと思います。

4番は、「盲人を道で迷わせる者は呪われる。」で、敢えて十戒で考えますと、第九戒の「偽証をしてはならない。」になるでしょうか。盲人を道で迷わせるのはとんでもないことですが、現代では、判断力に衰えが出易い高齢者を狙った詐欺が横行しています。また対象は高齢者だけではなく若い人に対しても、人の欲に漬け込んだ闇バイトの勧誘等、言葉巧みに人を唆すものがあります。

また本人には「盲人を道で迷わせる」という意図はなく、良かれと思っていたとしても、主イエスはマタイ15:14で「盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」と言われます。盲人を正しく導くためには、導く人がまず救われて、霊的な目が開かれて正しく見える必要があります。

主イエスはマタイ15:14では、「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、深い海に沈められるほうがましである。」と言われます。弱い人を迷わせ、つまずかせることは意図していてもいなくても正しいことではありません。

5番は、「寄留者、孤児、寡婦の権利を侵す者は呪われる。」で、十戒では第八戒の「盗んではならない。」です。寄留者、孤児、寡婦の権利について直近では26:12、13でも言われました。私たちに与えられているように見えるものは、すべて自分のものなのではなく、あくまでも管理を委ねられているだけです。御言葉に従って弱い立場の人の権利を正しく守る必要があります。

6~9番の4つの、「父の妻と寝る者、動物と寝る者、自分の姉妹と寝る者、妻の母と寝る者」は同じ一つのカテゴリーで、それは十戒の第七戒の「姦淫してはならない。」です。神は人間の祝福として性を与えられましたが、性は結婚の中だけで祝福されるものです。

12の呪いの内の4つの1/3内容を性が占めているのは印象的です。この当時の時代背景として、一夫多妻や異教の影響があったとは思います。しかし現代においても性は大きな問題になります。有名人のスキャンダルの多くはそうですし、最近ではホストクラブの売掛金問題とも関わっています。

ローマ1章の「人間の罪」の箇所に人間が犯す罪の順番が書かれていますが、神の存在を否定し偶像礼拝に陥る人間が、次に犯すのが性的な罪です。その意味では人間が生きている限りは、残念ながら、この問題は続くのかも知れません。

クリスチャンはこの問題とは関係が無いのではなく、主イエスはマタイ5:28で、「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。」と言われますので、聖霊の働き無しにはこの罪から逃れることは出来ません。

10番は、「隣人をひそかに打ち殺す者は呪われる。」で、十戒の第六戒の「殺してはならない。」です。少し前にロシアでナワリヌイさんがひそかかどうかは別として殺されましたが酷いことです。また実際には殺さなくても、主イエスはマタイ5:22で、「きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きをうける。」と言われます。隣人について陰口を言って、隣人の名誉を殺すこともしてはならないことです。

11番は、「賄賂を受け取り、人を打ち殺して無実の血を流す者は呪われる。」で、前の10番と似ていますが、これも十戒の第六戒の「殺してはならない。」です。これは殺す人は殺される人に恨みは無いけれど、賄賂のために無実の血を流す、言ってみれば、殺し屋ということです。

賄賂や自分の利益のためなら、無実の血が流れても何とも思わない人は世界中にいます。そのために毎日、無実の血が流され続けています。このようなことが早く収まるようにと祈るばかりです。

3、呪われる者

12番は纏めとして「この律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」です。4章44節から26章まで続いた律法の纏めも26:16で、「律法を守り行わなければならない。」でした。ここで言われていることは最もなことで、反論の余地は全くありません。

「この律法の言葉を守り行いなさい。」と言われるなら、「はい、出来る限りはそのようにします。」と答えるでしょう。しかし、「このような者は呪われる。」と言われ、民は皆、「アーメン」と言いなさいと言われて、本当に心から「アーメン」と言えるものでしょうか。

私は意図的に罪を犯そうという思いはありませんが、自分の罪深さを知っていますので、自分に出来そうになくて呪われることを、「アーメン」とは言えません。このことをヨシュア記8:33で実行するイスラエルはどうなって行くのでしょうか。「このような者は呪われる。」、「アーメン」と言っておいて、自分が呪われることを自分で行っていると認める訳には行きません。

そこで色々な言い逃れを作って行くことになります。例えばマルコ7:11、12で、「誰かが父または母に向かって、『私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです。』と言えば、その人は父や母のために、もう何もしないで済む。」という変な言い訳を作りました。

形式的にいくら言い訳を作って、表面的には律法の言葉を守り行っているように見せかけても、そこには神の祝福はありませんので喜びもありません。初めの人であるアダムとエバが罪を犯しましたので、全ての人は生まれながらに罪を持つ罪人です。

罪人は必ず罪を犯しますので、そこにあるのはただ呪いだけです。これは旧約聖書の歴史が証明しています。しかし律法は人間が自分の罪深さに気付くためのものであり、私たちをキリストに導く養育係です(ガラテヤ3:24)。

そのように呪われる宿命にある人間を神は愛され、救うために、救い主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。そして私たちが受けるべき呪いを、主イエスが身代わりとなって受けてくださり、呪われる者として十字架に付いてくださいました。22:23に、「木に掛けられた者は、神に呪われた者」とあるとおりです。

今はレント、受難節です。主イエスが私たちの身代わりとなって呪いを受けてくださった十字架の恵みに思いを巡らし過ごしたいと思います。主イエスは私たちの身代わりとして呪いを受けられただけではありません。十字架の死から三日目に復活され、呪いの死に勝利されました。

そして主イエスを信じる者には、復活の勝利である聖霊の力が働き、呪いの罪から解放してくださいます。ここに書かれている呪われる行いをしないようにと聖霊は語りかけて導いてくださいます。自分の思いを捨てて、まず静まって聖霊の声を聞き、律法を成就し祝福される者とさせていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちにまず、「静まれ。そして、聞け。」と語りかけてくださいます。しかし私たちは心を騒がせ易く、聞くのに遅い者です。そのために失敗をし、遠回りを繰り返してしまうものです。

しかしあなたは御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、信じる者の呪いをすべて取り去ってくださいますから有難うございます。私たちがこの恵みを素直に受け取り、聖霊によって静まり、聞き、祝福の道を歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。