「十字架」 

2024年3月24日礼拝式説教 
ヨハネによる福音書 19章1~16節

   

主の御名を賛美します。

1、真実を語られる主イエス

先週の申命記27章26節でイスラエルは、「律法の言葉を守り行わない者は呪われる。」と宣言して、民は皆、「アーメン」と言いました。そのことも影響してかイスラエルの人々は、自分が律法の言葉を守り行っていないとは認められなくなって行きました。それで屁理屈を作って律法を実際には守ってはいなくても、守っているように見せかけるようになって行きました。

そのような、がんじがらめの形式主義に陥っていた2千年前に救い主イエス・キリストがこの世に遣わされました。主イエスはユダヤ人の形式主義を真っ直ぐに痛烈に批判されると共に神の御心を教えられました。人が何かを言われて一番に腹を立てることはどのようなことでしょうか。

それはその人にとって不都合な真実を言われることです。嘘を言われることは腹立たしいものですが、不都合な真実ほどではないようです。不都合な真実を言われるときに、初めに二つの選択肢があります。一つは素直に悔い改めることで、もう一つは自分の罪を隠して不都合な真実を言う人と戦うことです。

悔い改めることは祭司長たちのプライドが許しませんので主イエスと戦うことになりました。悔い改めないという罪を犯すことは更なる罪を招くことになります。しかし真実を語られる神の子、主イエスに対して、御心を捻じ曲げて嘘を付いている祭司長たちに勝ち目は全くありません。

そこで次にまた二つの選択肢が出て来ます。それは自分の罪を悔い改めることをしないで、その場から自分たちが逃げ去るか、真実を語る相手を殺して口を封じるかです。祭司長たちは自分たちが築いて来た社会的地位を捨て去ることは出来ません。

そこで、相手である主イエスを殺して口を封じることにしました。ヤコブ1:15が、「欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます。」の御言葉のとおりです。現代でも北の方の国で良く起こることです。

2、私は彼に罪を見いだせない

今日の聖書箇所はそのような背景の中で、色々な人の思惑が交錯するドラマのようです。初めにユダヤの総督であるピラトは18:38で、「私はあの男に何の罪を見いだせない」と言っているとおりに、主イエスは無罪であることを知っています。そこで主イエスを無罪放免にしようと一応は試みます。

ピラトは主イエスが無罪であることを知っていながら、なぜ鞭で打たせたりしたのでしょうか。それは鞭打ちでユダヤ人たちの不満を満足させて、何とか死刑を留まらせようとしたようです。しかし人の罪は留まるところを知らずにエスカレートして行く恐ろしいものです。

兵士たちは茨で冠を編んで主イエスの頭に載せ、紫の衣をまとわせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ち侮辱します。ピラトは主イエスのこのような惨めな姿を人々に曝せば流石に収まると思ったのでしょうか。

「私はあの男をあなたがたのところに引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせない訳が分かるだろう。」と言います。18:38に続いて2回目の、「私は彼に何の罪を見いだせない」と言います。

しかし主イエスが出て来られると、祭司長たちや下役たちは、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。このような状況のときは集団心理が働くのでしょうか、火に油を注ぐような恐ろしい行動を取ります。私もこのような状態のグループに直面したことがありますが、合理的な思考や判断は無く、ヒステリックになっていて手の付けようがありません。

ピラトはこの熱に浮かされたようなユダヤ人たちに対して何を言っても無駄だと思ったのでしょうか。

「あなたがたが引き取って、十字架につけるがよい。」と18:31と同じことを繰り返します。これはピラトに好意的に考えれば、ユダヤ人には死刑を行う権限がないことを思い起こさせて諦めさせようとしたと考えられます。

しかしそれは総督として自らの責任を放棄した発言です。それに続いてピラトは3回目の、「私はこの男に罪を見いだせない」と言い、無罪であると思っています。ピラトがきちんと自分の役割を果たすのであれば、自分は総督としてこの男には罪を見いだせないので無罪放免とすると毅然とした態度を取るべきです。

ピラトにしてみれば、自分の管轄する地域で問題が発生すれば自分の地位が危うくなるという心配がありました。ピラトは自分の管轄地域で揉め事無く管理をするために、ユダヤ人に気に入られようとして擦り寄りました。そのような姿勢が更なる罪を招くことになります。

ピラトの言葉にユダヤ人たちは、「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」と答えます。ここでいう律法は、レビ24:16の、「主の名をそしる者は必ず死ななければならない。」等のようです。

ユダヤ人としては、自分たちの律法によれば主イエスは死罪ですが、死刑を行う権限はありません。そこで、死刑の権限を持っている総督ピラトに、死刑を行わせるように仕向けて行きます。

3、神の子

ピラトは、主イエスが神の子と自称したと聞いてますます恐れました。それはなぜでしょうか。その答えと思われることがマタイ27:19にあります。ピラトは主イエスが本当に神の子である可能性があると思ったのかも知れません。

そこでピラトは再び官邸に入って、「お前はどこから来たのか」と主イエスに大切な問いをしました。この御言葉は最近も繰り返していますが、茂原キリスト教会70周年の創世記16:8の大切な御言葉です。人がどこから来たのかがきちんと分かりますと、どこへ行こうとしているのかが見えて来ます。

何も答えられない主イエスにピラトは苛立ち、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」と脅迫します。しかし主イエスは、「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」と答えられました。

この世の権限はピラトが持っています。しかしそれよりも上の権限があるということです。そして主イエスをピラトに引き渡した者である祭司長たちの罪はもっと重いと言われます。ピラトはこれは何となくやばい雰囲気だと思ったのでしょうか、主イエスを釈放しようと努めました。ユダヤ人たちには不都合な状況になって来ました。

このままでは不味いと思った狡猾なユダヤ人たちは、ピラトを自分たちに協力させるために叫んで言いました。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」 ユダヤ人らしい、したたかな言い掛かりです。 

主イエスが神の子であっても、救い主であってもピラトには関係がありません。なぜならそれはユダヤ教という宗教の問題だからです。ローマの総督であるピラトにとって、ユダヤ教の宗教問題には何の関りもありません。しかし王と自称しているなら別です。

王と自称することは政治的な意味で、皇帝の地位を否定する反乱罪ということになります。政治的な反乱罪を放置しておくことは総督として出来ません。場合によっては自分の地位が危うくなります。ユダヤ人たちは狡猾な嘘によってピラトを自分たちの味方に取り込みました。

ユダヤ人は自分たちの律法を無視して、ユダヤ地方をローマの方法によって支配する皇帝を憎んでいます。しかし利用の出来るものは敵でも何でも利用します。あなたは皇帝の友ではないとか、王と自称する者は皆、皇帝に背いている等の、心の中でもどうでも良いと思っていることを、ピラトを自分たちに協力させるためであれば、真面目に訴えたりします。神のみが真の王と信じる神の民という意識はありません。

このようなことは現代でも行われることです。自分の味方を増やすためには、他の人たちに嘘をついて自分の敵に敵対させるようにします。自分の敵に敵対させれば、「敵の敵は味方」という単純な論理で自分の味方に付けられます。

4、ユダヤ人の王

ピラトは、これらの言葉を聞くと、対処をせざるを得なくなり主イエスを裁判の席に着かせました。それは過越祭の準備の日ですから金曜日、今週の金曜日の正午ごろでした。ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言いました。ピラトはどのような思いで、主イエスをあなたがたの王と言ったのでしょうか。

あなたがたの王ということは、兵士たちが2節で言った「ユダヤ人の王」ということです。まず初めにそもそも主イエスはユダヤ人の王なのでしょうか。マタイ2:2で、東方の博士たちは真面目に、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言っていますので確かにユダヤ人の王です。

主イエスご自身は18:37で、「私が王だとは、あなたが言っていることだ。」と曖昧に答えられているので自称してはいません。2節での兵士たちは明らかに本心ではなく侮辱をするために、「ユダヤ人の王」と言っています。ピラトは主イエスがユダヤ人の王であるかどうかには余り関心は無いようです。

それよりも、ピラトは12節で主イエスを釈放しようと努めましたが、ユダヤ人たちに釈放するなら皇帝の友ではないと言われて、自分のしようとすることを止められました。そのための仕返し、嫌がらせをユダヤ人たちにしたいようです。ユダヤ人は主イエスがユダヤ人の王と言われるのが嫌だと分かっていながら、敢えて言っていると思われます。

それはユダヤ人たちの聞きたくない言葉であり、連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」と叫びました。「連れて行け」というのは「殺せ」という意味の言葉で、口語訳では「殺せ」でした。ピラトは更に煽るように、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言いました。ピラトはなぜこのようなことを言ったのでしょうか。

ユダヤ人たちへの嫌がらせもありますが、ここまで揉め事が大きくなって来たので、一人を死刑にしてことが収まるのであれば、その方が得策であるという、事なかれ主義になって行ったようです。ピラトは使徒信条で悪く言われていて、なぜなのだろうという思いがありましたが、ピラトのいい加減な態度が十字架に大きな影響を及ぼしています。

それに対して祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と心にも無いことを平気で言い、主イエスは十字架につけられることとなりました。

5、十字架

結局、ユダヤ人たちと総督ピラトの自分の立場を守るための自己中心の罪が主イエスを十字架のつけることになります。ユダヤ人たちは本来は一枚岩ではありません。祭司長を含むサドカイ派と律法学者を含むファリサイ派は信じている内容も異なります。ピラトとも勿論違います。

しかしそのような異なる人々が、主イエスが正しいことを語られるために自分の存在を脅かすので邪魔であり、殺したいという一点だけで協力をしたのが十字架です。十字架はこの世の皆の悪の罪が協力して達成したものであり、この世的に見れば悪の成功と言えるかも知れません。

しかし、このような悪の仕業も全知全能の神により人間の救いの計画に用いられることになります。しかし、悪の行う罪は当然、報いを受けることになります。この約40年後にイスラエルはローマに滅ぼされてユダヤ人は世界中に散らされることになります。

現代においても悪と悪が手を結ぶ極悪同盟のようなものが結成されることがあります。そしてこの世的には一見、悪が成功を収めているように見えることがあるかも知れません。しかし悪と悪が協力を行いますと悪が加速して行きますので滅びが早まって行きます。悪の協力は滅びの最終段階と言えます。

先週も引用しましたが、主イエスがマタイ15:14で「盲人が盲人を手引きすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」と警告されていますので、怪しそうな人物には近付かないのが神の知恵です。私たちはこの後の歴史を知っていますので、この聖書箇所を批判的に読むことが出来ます。

しかし自分がこの時の当事者でしたら、本当に十字架に反対をすることが出来るのかと問われたら、怪しいものです。十字架に反対をしたかどうかは別にしても、私たち全ての人の罪のために主イエスは今週の金曜日に十字架につかれました。

主イエスの十字架は全ての人の全ての罪の赦しのためです。そのために主イエスを信じる人のすべての罪は赦されます。聖霊の導きに従って、主イエスを受け入れ、十字架による罪の赦しを感謝しましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスの十字架は、直接的にはこの当時の人たちの罪によるものです。しかし罪人であることは当時の人たちも現代を生きる私たちも変わりはありません。私たちは、直接的にはこの時の十字架に関わってはいませんが、十字架は私たちの罪の赦しのためでもあります。

この時の人たちの中には、頑なになり罪を重ねて滅びに至ってしまった者がいるのかも知れません。しかし恵みによって働かれる聖霊の導きに素直に従って、十字架を感謝し悔い改め、祝福の道を歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。