「復活の証を見た人たち」

2024年3月31日礼拝式説教
ヨハネによる福音書20章1~10節                                        野田栄美

  • 亡くなった人への思い

先日の墓前礼拝では、納骨式が同時に行われました。納骨はご葬儀のように多くの人が来ることは少ないですが、ご遺族にとっては寂しさのつのる時です。クリスチャンにとって、天国に迎えられていると分かってはいても、やはり遺骨は特別なものです。遺骨の前やお墓に花を手向けることで、自分の悲しみを表わすことは、その人にとって、とても大切なことです。

今日の聖書は、十字架の上で命を絶たれた主イエスのご遺体が葬られた墓で起きた話です。そこに、香油を塗ってさしあげたいと訪れた人が出てきます。亡くなった人を大切に思うその気持ちを心に留めつつ、イースターのできごとから神の言葉を聞いていきましょう。

  • 頂点から十字架へ

今日の聖書に最初に登場するのはマグダラのマリアです。彼女は、マルタとラザロの姉妹のマリアと同一視されたり、香油で主イエスの足を洗った罪深い女性と同じ人だと言われたりすることがあります。福音書の記載のみでは、それははっきり分からないことです。けれども、七つの悪霊を追い出してもらったことはルカによる福音書にかかれています(ルカ8:1~3)。主イエスのみ業によって、とても苦しかった状況から解放された人でした。彼女にとって、この1週間に起こったできごとは、最悪の終わりを迎えました。山の頂上から一気に転落したかのような時でした。

主イエスの伝道の頂点ともいうことができる日は、エルサレム入城の日です。教会歴では「棕櫚の日」と呼ばれる先週の日曜日にあたります。その日には、子ロバに乗った主イエスがエルサレムへ入城されるのを、大勢の群衆が叫びながら迎えました。主イエスが、エルサレムでいよいよローマ帝国に宣戦布告をし、政治的な指導者となると思ったからです。(ヨハネ12:12~19)。

 けれども、主イエスは政治的な動きを何もされませんでした。人々は日に日に幻滅していき、主イエスから離れていきました。そして、十二弟子の一人である、イスカリオテのユダもその不満をつのらせて、エルサレム入城のたった4日後に、主イエスを敵の手に売り渡しました。木曜日の夜中、主イエスは大祭司たちの遣わしたローマ兵につかまり、不当な裁判を受け、翌日の金曜日に十字架につけられ、犯罪者のように亡くなりました。それはあっという間のできごとでした。

  • マグダラのマリア

金曜日の夕方に主イエスの遺体は急いで墓に葬られました。そして、何もしてはいけない安息日の土曜日が過ぎ、日曜日の朝を迎えました。マグダラのマリアは、朝早く、まだ暗いうちに墓へ行きました。

彼女の脳裏には、自分の目の前で亡くなった、愛する先生の姿が焼き付いていたでしょう。愛する人が苦しむ姿を見ることはとても辛いことです。十字架上の主イエスのお姿がちらついて、彼女は寝ることもできなかったかもしれません。やっと日曜の朝が近づいて、まだ暗い中、ご遺体に塗るための香油を手に、墓に向かいました。マグダラのマリアに残されたことは、自分の手で丁寧に葬ることだけでした。大切な人のために何かをして差し上げたかったのです。

急ぎ足で墓に向かうと、彼女が次に目にしたことはなんだったでしょうか。墓の石が取り除けられて、墓が開いていました。不安に感じたに違いありません。きっと墓の中も確認したでしょう。そこには、主イエスのご遺体がありませんでした。誰かが盗んでいったと、とっさに彼女は思いました。なぜ、こんなことが続くのか、私たちは遺体に薬も塗ることさえ許されないのか。この時の彼女のショックは大きいものだったと思います。私に何もすることができない、無力感と、悲しみと驚きで、心は壊れかかっていたのではないでしょうか。大切な人に、自分は何もしてあげられないと言うことほど、人にとって辛いことはありません。

マリアは、急いでペトロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」、これは著者のヨハネのことですが、ところへ行き、「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」と伝えました。

  • 二人の証人

それを聞いて、ペトロとヨハネは直ぐに墓へ向かいました。ここで、著者のヨハネはその状況を丁寧に書いています。ペトロより自分の足が速く、先に墓に着いたこと、けれども、自分は墓の中を腰をかがめて一心に覗いたが、怖くて入ることができなかったこと、けれども、ペトロは、猪突猛進、躊躇なく墓に入ったことです。ここまで細かく書かなくてもいいのではないかと感じます。ヨハネは二人の性格の違いを強調したくて、こんなに丁寧に書いたのでしょうか。ペテロは直ぐに行動に移すが、自分が臆病だと教えたかったのでしょうか。

申命記19:15には「人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない。」とあります。ある事実が確定されるには2人以上の証人が必要でした。そのため、復活のできごとを詳細に渡って目撃者の証言として書きました。墓は空であった事実をペテロとヨハネの二人で、証しするためです。

  • 墓の中の様子

更に、墓の中はどうなっていたかを書いています。シモン・ペテロは、体を覆っていた亜麻布が置いてあり、頭の覆いが頭のあったところに覆われていた形のまま置かれているのを見ました。ペテロが入ったのを見て、後から入ってきたヨハネもその状況を見ました。そして、その時、ヨハネは「見て、信じた」と書かれています。

これは何を信じたのでしょうか。もし、マリアが最初に思ったように、誰かが遺体を取り去ったなら、亜麻布や頭の覆いをわざわざ置いていくことはありません。前の章の19:39にあるように、主イエスのご遺体にはただ布がかけられていたのではなく、没薬とアロエを混ぜたものを塗り、香料を添えて亜麻布で包まれていました。亡くなって1日半以上の時間が経っていて、薬も塗られていたら布を取るのは容易ではありません。盗んでいくのなら、布を取ること無しに運んでいったでしょう。

また、仮に人の手によって覆っていた布や覆いが取られたとしても、包まれていた布が包んでいた時と、全く同じ状態で残されることは不可能です。そのままの形で残されるためには、その中にあったものが布をすり抜けなければなりません。明らかに墓の中の状態は、人の手にはよらない力によって、何かが起こっていることが一目瞭然でした。つまり、ヨハネは人が盗んだのではない、人為を超えた力によって何かが起こったことを信じました。

ただ、この時、ペトロとヨハネは、聖書に預言されている復活の記載を理解はしていませんでした。旧約聖書の詩編16:10には「あなたは私の魂を陰府に捨て置かず」と預言されています。また、主イエスから直接、三日目に復活することを聞いていましたが、理解してはいませんでした。彼らはただ、目の前の事実を見て、家に帰って行きました。

  

  •  心にかけてくださる

これらのできごとは、彼らにとってあまりにも辛いことの連鎖のようなことでした。この後、マグダラのマリアが墓の前で泣き続けていたと書かれています。ただ泣くことしかできなかった。心が受け止め切れなくなっていました。

この時もペトロもそうだったでしょう。けれども、後にペトロは、ペトロの手紙Ⅰと呼ばれている手紙の中でこう言いました。「愛する人たち、あなた方を試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。」(ペトロⅠ 4:12)「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロⅠ5:7)

ペトロは、長い年月が過ぎた時に、神が自分と一緒にいてくださり、自分のことを心にかけていてくださったことを知りました。空になった墓を目撃した時に、望みを絶たれたように思ったマリア、ペトロ、ヨハネたちのことを、この時、神は心にかけてくださっていました。

  • 良い知らせ

マルコ6章45~52節に、船を出した弟子たちが真夜中に強い逆風にあって、進むことができないでいる場面が書かれています。その時、彼らは水の上を歩く幽霊を見ました。大の男たちが縮み上がって叫び声をあげました。けれども、それは主イエスでした。

今日のこの空の墓も、その幽霊のようだと思います。困難なことが次々に起こり、もうだめだと思ったときに、輪をかけて恐ろしいことが起こっている。けれども、それは、主イエスがあなたに近づいておられる証拠です。主イエスのご遺体さえ、取り去られてしまって、何も残されていないこの状況は、主イエスがよみがえられた証拠でした。最悪の事態ではなく、これは人の想像を超えた良い知らせの始まりでした。

この後、マグダラのマリアに主イエスは、墓の前で現れてくださいました。また、弟子たちが自分たちも捕まるのではないかと恐れて家の鍵をかけているところに、主イエスは来てくださり「あなた方に平安があるように」と声をかけてくださいました。

  •  あしあと

茂原教会の中にも多くの方が、好きだと言われる「あしあと」という詩があります。アメリカ人のマーガレット・ハワードという人が書いた詩です。

私は砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。……

「主よ。 ……… あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」

主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

主イエスは、このイースターの朝によみがえられました。みなさんの中には、今、辛いときを通られている方がおられるかもしれません。イースターは、主イエスが今も生きておられて、あなたと共におられるという約束の日です。私たちが決して打ち勝つことのできない「死」に、打ち勝ってくださった日です。主イエスから私たちを離なすものはもう何もありません。神はあなたのことを心にかけてくださっています。今週は、その慰めと喜びを味わって過ごしましょう。