「聖なる民の祝福」

2024年4月7日礼拝式説教  
申命記 28章1~14節
        
主の御名を賛美します。

1、聖なる民の祝福
4章44節から26章まで律法が語られました。最後の纏めの26章17節でイスラエルは、「主を神とし、主の道を歩み、その掟と戒めと法を守り、その声に聞き従います」と明言しました。それに対して主は26章19節で、「すべての国民の上に高く上げる、主の聖なる民となる」と二つの約束をされました。

今日の個所はその具体的な内容になります。26章17節は大切なことですので、今日の個所でも4回言われます(1、2、9、14節)。それに対して26章19節も大切ですので繰り返されます(1、9節)。そして、高く上げられることと聖なる民となることは、今日の個所では祝福されると言います。

主の声に聞き従う聖なる民は高く上げられて祝福されます。これは27章12節で、ゲリジム山で祝福する内容です。今日の個所では、「祝福」という言葉が10回使われて強調されます。「すべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ」という文章を新改訳は、「すべての祝福があなたに臨み、あなたについて行く」と訳しています。祝福がついて来るので必ず祝福されます。

祝福の基本的な内容は3~6節の六つの祝福で、3~6節は「祝福される」という言葉から始まる文章が六つあります。一つ目と二つ目の祝福は3節で、「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される」と言いますのでどこにいても祝福されます。

この御言葉を読んで思い浮かぶのは、創世記13章9節で、アブラハムが甥のロトと別れるときにロトに好きな土地を選ばせた記事です。土地を選ぶのであれば、誰でも少しでも良い条件の方を選びたくなるものです。しかし主の聖なる民はどちらを選んでも主が祝福してくださるので、どちらを選ぶのかということは重要ではありません。

大切なのはどちらを選ぶのかというよりも、どちらに行っても主が祝福される生き方をすることです。これは私たちにとって大きな励ましです。私たちは人生の岐路に立って大きな選択をすることがあります。そして後になって、もしかしたら間違った選択をしてしまったのではないかと後悔をすることがあるかも知れません。

しかし後悔をする必要は全くありません。選択をするときには祈り、慎重に選ぶ必要があります。しかし聖なる民はどちらを選んでも必ず主が祝福してくださるのですから安心です。新年度になりましたが、例えば、どこの学校に入学しても、どこの会社に就職しても、どこに住んだとしても、聖なる民は祝福されます。

三つ目の祝福は4節で、祝福される人は本人だけではありません。祝福される人の胎から生まれた子も、土地の実りも、家畜の産むもの、牛の子も羊の子も祝福され、祝福される人に関わるすべてのものです。これは大切なことですので、8、11節でも繰り返されます。族長のアブラハム、イサク、ヤコブたちは家畜も祝福されて大いに増えました。

この箇所を読むと、私は主の聖なる民であるのに、自分自身にも病気や色々な問題等があり家族も同じであり、とても祝福されているとは思えないと感じることがあるかも知れません。しかし主の祝福というのはこの世的に私たちが良いと思うことではありません。この世的には例えどんな状況にあっても、主が共に歩み、支えてくださるのが何よりの祝福です。

コリントの信徒への手紙二12章7~9節で、使徒パウロの体には一つの棘が与えられていて、その棘を離れ去らせてくださるように願ったパウロに主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。」と言われた御言葉を覚えていたいと願います。

四つ目の祝福は5節で、籠とこね鉢ですが、これは籠とこね鉢の物質自体が祝福されるというよりも、籠とこね鉢の中に入る物が祝福されて豊かになるという意味です。列王記上17章16節で、預言者エリヤが貧しいやもめに語ったように、かめの小麦粉は尽きず、瓶の油がなくなることもありませんでした。

五つ目と六つ目の祝福は6節で、入るときも祝福され、出るときも祝福されます。イスラエルはこれからカナンの地に入りますが祝福されます。そして出るときも聖なる民は祝福されます。これは現代でも聖なる民は、職場やサークル、教会も入るときも祝福され、出るときも祝福されます。

2、その他の三つの祝福
3~6節が祝福の基本的な内容ですが、更に聖なる民に伴なう祝福が三つあります。6節の「出入り」は時代劇等では争いごとを指します。少々、強引な展開ですが、祝福の一つ目は、聖なる民の敵に対して主は聖なる民の前で打ち負かされることです。

敵に対して聖なる民自身が戦うのではありません。主が戦って打ち負かしてくだされます。敵は一つの道から攻めて来ますが、聖なる民の前から七つの道へ逃げて行きます。イスラエルはこれから、主の約束のカナンの地に入って行きますが、そのためには自分の足を踏み入れて進んで行く必要があります。

ただ敵は主が打ち負かされるので安心です。これは私たちの戦いではなく、主の戦いです。聖なる民は主が守られ祝福されます。そして地のすべての民は、聖なる民が主の名で呼ばれるのを見て恐れます。

二つ目は、聖なる民は多くの国民に貸すようになりますが、借りることはありません。これはなぜかと言いますと、その前にありますように、主は、恵みの倉である天を開いて、聖なる民の地に季節に応じて雨を降らせ、聖なる民の手の業すべてを祝福されて豊かになるからです。

三つ目は、主は聖なる民を頭として、尾とすることはなく、常に上にあって、下になることはありません。これは主の戒めに聞き従う者を主が高く上げられるからです。これはクリスチャンではなくても、一般的にも例え主の戒め自体を知らなくても、主の戒めに聞き従うような真面目な人は、周りの人がその人を頭として、上にすることを望むものです。

そのようにするとすべてが上手く行くようになるからです。頭となり上にあることを望むこと自体は悪いことではありません。ただそのように望むのであれば、主の戒めに聞き従う必要があります。問題となるのは主の戒めに聞き従わない者が、頭となり上にあることだけを望んで見苦しい画策をすることです。

このことを主イエスはルカによる福音書14章7~11節のたとえで説明されます。余りにもわざとらしい謙遜は周りの迷惑になるかも知れません。しかし主に引き上げられるのでなければ、上にあるのは空しいものです。頭として上にあることは、その役割を果たす責任を伴うものであり、それは主がお決めになられることです。

聖なる民には以上の九つの祝福があります。そしてこの祝福に与るためにも、主のすべての言葉から右にも左にもそれてはならず、他の神々に従って、これに仕えてはなりません。ただそうなのではありますが、罪人である私たちは右にも左にもそれてしまい易いものです。

そして祝福どころか本来は呪われるべき存在です。しかし神は私たち人間を今年度の御言葉のとおりに無条件で、「あなたは私の目に貴く、重んじられる」と言ってくださいます。そして2千年前の9日前の金曜日に、主イエスを私たちの罪の身代わりとして十字架に付けられました。

その結果、主イエスを信じる者は、今日の聖書個所に書かれている祝福に与る者とさせていただけます。この大きな恵みを感謝し受け入れて今年度も祝福の道を歩ませていただきましょう。そして聖霊の導きによって、主の声に聞き従う者とさせていただきましょう。

3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちが主の声に聞き従うとき祝福されると言われます。それは分かっていても私たちには簡単なことではありません。すべてをご存じのあなたは、私たちに主イエスを信じることによる救いと祝福の道を開いてくださいましたから有難うございます。
今年度も主イエスを信じ、従い祝福の道を歩ませてください。また今、困難な課題を抱えておられるお一人お一人を顧みてくださり、慰めと励ましをお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。