「新しい命に生きる」 

2024年4月21日礼拝式説教 
ローマの信徒への手紙 6章1~14節

        

主の御名を賛美します。

1、洗礼

この手紙は使徒パウロがローマの信徒へ宛てた手紙です。ローマ帝国に住むローマ人にとっての誇りは、ローマ帝国の権力です。人は力を誇るものです。そのようなこの世の権力を誇るローマ人に対してパウロは、救いをもたらす神の力である福音を語ります(1:16)。

そして今日の個所では福音の大切な儀式である洗礼の意味を説明します。ここには洗礼を既に受けておられる方が沢山います。またこれから受けられる方もいます。洗礼とはどのようなものでしょうか。洗礼はイエス・キリストを救い主として受け入れる者が受ける礼典です。

パウロは洗礼はキリスト・イエスにあずかるものと言います(3節)。イエス・キリストを信じる者を英語でクリスチャンと言います。これはギリシャ語のクリスティアノスから来ていて、キリストに属する者という意味です。キリストに属して、キリストにあずかる者はキリストと同じ生き方にあずかります。

洗礼は大きくは、二つの部分からできています。一つ目はキリストの死にあずかることです。「私たちは、洗礼によってキリストと共に葬むられ、その死にあずかる者となりました。」(4節) キリスト教ではこのキリストと共に歩むという体験が大切な体験型の宗教です。洗礼で水を浸すのは、キリストの死にあずかることを象徴します。水を浸すのは聖めの儀式の意味でもあります。

2、罪に死ぬ

なぜ私たちはキリストの死にあずかって死ぬ必要があるのでしょうか。「私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないため」(6節)です。

私たちの内の古い人とは、どのようなことでしょうか。それは罪の体であり、罪の奴隷です。それは、私たちの内の自己中心や貪る罪の性質であり、その罪に支配されて罪の奴隷となることです。

古い人は罪に支配されていました。しかし古い人は洗礼で水に浸され死んで滅びますので、もう罪は支配することは出来ません。一度、死んだ人は、もう罪に問われることはありませんので、罪から解放されています。

私たちの内の古い人は洗礼で水に浸して死にました。しかし死んだ古い人である自己中心や貪る性質が甦って来ることがあります。それは死んで墓に葬られた罪の体が墓から出てくるゾンビのようなものです。

しかし私たちは洗礼で自分は罪に対して死んだ者であると考えるべきです。キリスト教会の中をゾンビが歩き回っているのは相応しくありません。新しく教会に来る人も、教会の中にゾンビがいたら驚いてしまいます。

3、不義の道具

そうであるなら、「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に献げてはなりません。」 私たちの内の古い人は洗礼の時に十字架につけられています。

しかし罪はあらゆる方法で人を誘惑して来ます。そして欲を刺激します。そして私たちの五体を不義の道具として罪に献げさせようとします。

創世記3章で、エバが蛇に、そそのかされて初めに罪を犯した時のことを思い出してみましょう。蛇はエバに「神は本当に、園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか。」と話し掛けました。

エバは神が備えてくださった、音を聞く耳、話をする口、考える頭等の五体を、サタンの使いである蛇との会話に献げてしまいました。そして蛇が「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っているのだ。」と言うと、神のようになりたいという欲を刺激されました。

また見る目を通して善悪を知る木の実を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるには好ましく思われました。そして罪を犯しました。五体を不義の道具として献げてしまいました。

私たちは洗礼を受けて罪に死にます。しかし完全な聖い者になる訳ではありません。いつも自分は罪に死んだ者であると覚える必要があります。そして私たちの五体を不義の道具として罪に献げてはなりません。

自分にとって益とならないと思うものには、初めから目を貸さず見ず、耳を貸さず聞かず、口も貸さず話さないようにします。三猿になって、そのようなことには五体を一切、献げないことが大切です。エバの失敗の原因の一つは一人で蛇と関わってしまったことです。エバの心に何か隙があったのでしょう。聖書の教えは、「君子、危うきに近寄らず」です。

現代は情報化社会で便利ではありますが、私たちの五体を罪に献げさせようと、色々と欲を刺激しようとするものがありますので本当に注意が必要です。私たちは罪に死んだのだから五体を不義の道具として罪に献げないという消極的な生き方だけをするのではありません。もっと積極的な生き方をして行きます。

4、新生

それは洗礼の後半に関わることです。私たちは洗礼でキリストの死にあずかって、水に浸って死んで終わりではありません。水に浸って罪に死んだ後のことです。キリストは十字架で死なれて終わったのではなく、三日目に復活されました。

キリスト・イエスにあずかる洗礼を受ける私たちは、死にあずかるだけではなく、復活にもあずかることになります。「それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためです。」(4節)

私たちは洗礼で罪に死ぬだけではありません。新しい命に生きます。洗礼によって、新しい命に生きるという意味で新生と言われます。洗礼を受けることによって、罪が赦されて義とされて天国に行けるようになることは大切なことですが、洗礼はそれだけではありません。

この世の後に天国に行く前に、この世で新しい命に生きる、新生することが大切です。義とされることは大切なことですが、新生をしなければ、この世での生活は変わりません。新年度に入りまして、色々な商売等で新生活キャンペーンを行っています。

キリスト教的には、イースターからペンテコステの50日間は復活節ですので、キリスト教会は新生生活キャンペーンを行っても良いかも知れません。クリスチャンの新生生活はどのように送るのでしょうか。

洗礼はキリスト・イエスにあずかることです。あずかるということはキリストに結びつくことです。それは、「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(8節)

キリストは復活されたのですから、キリストにあずかる私たちも復活されたキリストと共に新しい命に生きます。それは自分の力で生きるのではなく、キリストにあって力をいただいて生きることです。これはこの世にあって、新しい命に生きることであり、来るべき世でも死から復活することです。

新しい命に生きるということは、具体的には、「自分自身を死者の中から生かされた者として神に献げ、自分の五体を義のための道具として神に献げ」(13節b)ます。自分の五体を消極的に不義の道具として献げないだけではなく、積極的に義の道具として神に献げます。

義の道具として神に献げるとはどのようなことでしょうか。自分の益となるものを目で見ます(聖書)。自分の益となるものに耳を傾けて聴きます(証し、説教)。自分や隣人の益となることを口を使って話をし(証し)、神を賛美し、祈ります。また手足、頭を使って神と人に仕えます。

5、罪が支配することはない

「罪があなたがたを支配することはありません。」(14節)と言われますと、本当なのだろうかと考えてしまいます。これはどういう意味なのでしょうか。その理由を「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるからです。」と言います。

律法の下にあるときは、行ってはならない禁止事項を言われるだけで、律法を守る力は与えられませんので、とても窮屈です。5:20にありますように、律法が入り込んで来たのは、過ちが増し加わるためでした。

律法の目的は自分が如何に過ちを犯しているかを知るためです。禁止事項によって反って心が禁止事項に捕らえられてしまったりもします。そして罪に支配されてしまいます。しかし私たちは恵みの下にあります。恵みの下にある者は自分の力で何かを行うのではありません。

自分の力で罪に支配されないようにしたり、欲に従わせないようにしたり、五体を不義の道具として献げないように頑張るのではありません。自分の力ではなくて、聖霊の力によって、自分自身を神に献げさせていただき、自分の五体を義の道具として神に献げさせていただきます。これは聖化の歩みです。

私自身は教会に通い始めてから洗礼を受けるまでに7年位掛かりましたので、余り早く洗礼を受けることを勧めてはいません。ただ私の場合は通う教会が色々な事情で変わったりしていたので、洗礼を受けるタイミングが合わなかっただけで、もう少し早く洗礼を受けても良かったとも思っています。

私が洗礼を勧める理由は、洗礼を受けることによって聖霊の力をいただいた方が絶対に良いことです。洗礼の受けることによって天国に行くことが出来るのは大切なことです。しかしこの世での今のことで言いますと、やはり聖霊の力をいただくことです。

律法の下で自分の力だけで生きるのではなくて、恵みの下で神の力をいただいて生きることです。そのようにすればもう罪に支配されることはありません。確かに洗礼を受けても罪の誘惑は来ますし、欲を刺激されることはあります。そして洗礼を受けていない時には、罪の誘惑や欲に流され易いものです。

しかし洗礼を受けて聖霊の力を受けると、罪の誘惑や欲に対して、自分の力で対抗するのではなくて、神の力によって守っていただけます。自分から罪の支配にゆだねたり、欲に従うことをしたり、五体を不義の道具として罪に献げたりしなければ、罪に支配されることはありません。

勿論、口で言うほど簡単なことではありません。しかし全能の神が私たちを守ってくださいます。確かめたい方は、ぜひ信じて洗礼を受けることをお勧めします。あなたはどのような生き方を望まれるでしょうか。私たちの人生は自分が望むような生き方となります。主イエスを信じて従い、新しい命に生きる者とさせていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはキリスト・イエスにあずかる洗礼を受けて新しい命に生きる者です。しかし私たちの罪深い性質は残っており、また罪の誘惑もあります。そのような中でも、私たちは恵みの下にいて、新しい命に生きる者であることを覚えて、五体を義のための道具として神に献げさせてください。そして喜びを持って、神のかたちに造られた人間本来の生き方をさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。