「聞き従わない者の滅び」

2024年4月28日礼拝式説教 
申命記 28章15~46節
        
主の御名を賛美します。

1、聞き従わない者への呪い
前回の1~14節では、主の声に聞き従う聖なる民の祝福が語られました。聞き従う者は祝福されるのですから、その反対の聞き従わない者は呪われます。これは当たり前のことと言えば、そうなのですが大切なことですので3回言って強調します(15、20、45節)。

しかしそれにしても呪いの内容は随分と長い気がします。大雑把に言って祝福の長さの3倍以上になります。なぜなのでしょうか。31:16にありますように、全能の主はイスラエルが主を裏切って契約を破ることをご存じだからです。

これから実際に起こることなので、起こったときにイスラエルが確かにそれは前に預言されていたことであることを思い起こして、なぜそのようなことが起こったのか原因をきちんと知るために詳しく説明します。そしてイスラエルに起こることですので、「呪われる者」はとは言わず、「あなた」と言います。

前回の祝福のときに少しお話しましたように、呪いは祝福の内容の正反対の内容です。16~19節の六つの呪いは(町にいても、野にいても、籠もこね鉢も、子・土地の実り・牛の子・羊の子も、入るときも、出るときも)、3~6節の六つの祝福の正反対です。

前回の3節で、「町にいても祝福され、野にいても祝福される。」ことから、私たちが人生の岐路に立つときに、どちらの選択肢を選ぶかは慎重に決める必要はありますが、どちらを選んでも祝福されますので、後悔をする必要はないことをお話しました。

しかし呪われることは、その逆ですのでとても辛いものです。どちらの選択肢が良いかと慎重に決めても、どちらを選んでも呪われることになります。それは、外れしか入っていない、くじから慎重にくじを引くようなものです。これ程に空しいことはありません。

主はあなたが行う手の業すべてに対し、呪いと混乱と懲らしめを送ります。これは8節で手の業に祝福を定められたことの反対です。そして呪いの結果どうなるのかと言いますと、あなたを速やかに滅ぼし、消し去ります。今日の聖書箇所は、「滅ぼす」という言葉を5回使って強調します(20、21、22、24、45節)。呪われる者は滅ぼされます。

そして滅ぼす方法の一つは疫病です。旧約聖書では、罪に対する神の裁きの一つとして疫病は語られています。例として、このときから38年前にカデシュ・バルネアからカナンの地にイスラエルの代表の12人が偵察に行って、ヨシュアとカレブを除く、カナンの地の悪い噂を広めた10人は疫病で死にました(民数記14:37)。

またダビデ王が罪を犯して人口調査を行ったときには、疫病で7万人が死にました(サムエル下24:15)。ここでは、肺病、熱病、炎症、高熱、剣、立ち枯れ、赤さび病が追いかけて来て滅ぼします。祝福される者は、どこまでも祝福が付いて来ますので祝福されますが、呪われる者は滅びるまで呪いが追いかけて来ます。

主はエジプトの腫れ物、潰瘍、湿疹、疥癬であなたを打ち、癒すことはありません。エジプトには以前に10の災いが下されましたが、5番目が疫病で、6番目が腫れ物でした。以前にエジプトが裁かれるために下された同じ災いを今度はイスラエルが受けることになります。

ここまでは疫病でしたが、更に目を見えなくし、盲人が暗闇で手探りするように、真昼に手探りするようになります。そしてダメージを受けるのは肉体だけではありません。正気を失わせ、精神を錯乱させます。確かに私たちもどこか体の調子が少しでも悪くなると精神的にも参ってしまい易いものです。

肉体と共に精神がダメージを受けるのはとても辛いものです。更に裁きは本人の肉体と精神のことだけでは済まなくなります。自分の外側の環境も悪化します。あなたは何をしても成功しません。

具体的な内容の一つ目は敵に対してです。主は敵の前であなたを打ち負かされます(25節)。あなたは一つの道から敵を攻めるが、敵の前から七つの道へ逃げます。これは7節の祝福される者の反対です。

二つ目は、虐げられてかすめ取られるばかりで、救う者はいません。具体的には30~33節のことが起こります。その結果、あなたはそのような光景を目の当たりにして、正気を失います。誰でもこのような光景を目の当たりにしてしまったら、正気を失ってしまうでしょう。これでは正に生き地獄です。

三つ目は、主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたもその先祖も知らない国民のもとに行かせます。そこであなたは、木や石でできた他の神々に仕えるようになります。このことはイスラエル王国が滅ぼされて、紀元前5百年代にバビロンに捕囚となって現実のこととなります。

主があなたを追いやる先のすべての民の中で、あなたは恐怖となります。10節で祝福される者も恐れられますが、それは主の名で呼ばれて祝福されるからで、恐れられるのは同じですが全く正反対の理由です。その結果、物笑いの種となり、嘲りの的となります。

四つ目は、38~42節の収穫等の呪いです。収穫が呪われる方法は、ばったや虫等の害虫に奪い取られることと、23、24節で、天は銅となり下の地は鉄となって、主は地の雨を埃や塵に変えて天から降らせるからです。

五つ目は、その結果とも言えますが、あなたの中にいる寄留者は徐々に力を蓄え、あなたは次第に衰えてゆきます。彼があなたに貸し、あなたが彼に貸すことはありません。彼が頭となり、あなたは尾となります。これは12b、13節の反対です。
これらのことはあなたとその子孫に対して、とこしえにしるしとなり、奇跡となります。そしてこれらの内容は、この先の聖書の内容、またイスラエルの歴史のとおりとなっています。

2、弱さに働かれる主
これらの内容を聴かせていただき、確かにそうであると思いつつ、色々なことを考えさせられます。まずモーセをとおして主が語られているのですから、主の声に聞き従う者は祝福され、聞き従わない者は呪われるのはそのとおりです。

そこから、何か人生において順調そうな人は主の声に聞き従っていて、余りそうでない感じの人は聞き従っていないと考えられ易いものです。旧約聖書のヨブ記でヨブは、正しい人であったにも関わらず、不幸に見舞わられたときに、ヨブの友人たちはそれは罪の結果であると言ってヨブを攻めました。

新約聖書のヨハネ9:2でも、主イエスの弟子たちは、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。」と尋ねています。この世に完全な人はいませんが、比較的に、主の声に聞き従って真面目そうな人が順調な人生を歩み、余りそうでもなさそうな人が順調でなければ、ある程度の納得はし易いものです。

しかし必ずしもそうでないのがこの世の中です。なぜあのような良い人があれ程の苦しい目に遭わなければならないのかと感じることがあります。その一方でなぜあのような人が、呑気に贅沢な暮らしをしていられるのかと感じることもあるかも知れません。

そしてこの世の中は不平等であると感じるかも知れません。ただそのように感じるのは、若しかすると、この世的な価値観で自己中心的にものを見ているからかも知れません。主イエスは、生まれつき目が見えないのは、神の業がこの人に現れるためであると言われました。

また使徒パウロが自分の体に与えられた棘が離れ去るように主に願ったときに、Ⅱコリント12:9で主が、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ。」と言われました。自分には足りていないと考えて不満を抱えて生きるより、与えられている恵みを感謝し、弱さに働かれる主に期待したいものです。

3、聞き従わない者の滅び
このような聞き従わない者への裁きの記事などを読むと、つい、「ああ、これはあの人のことね」と考えてしまいがちです。「裁かれるのはあの人、祝福されるのは私」と誰でも思いたいものです。しかし神は、「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と言われるのですから、多少の違いはあっても人間は皆、罪人であり五十歩百歩の違いです。

ですから全ての人は神に呪われるべき存在であり、滅ぼされる者です。しかし神は私たち人間を愛し、神のかたちに造られ、今年度の御言葉のとおりに、「あなたは私の目に貴く、重んじられる」と言ってくださいます。そして私たちを贖うために、主イエスを私たちの罪の身代わりとして十字架に付けられました。
その結果、主イエスを信じる者の罪は赦され祝福に与る者とさせていただけます。しかし私たちは主イエスを信じることによって完全に聖い者になるわけではありません。私たちの中には神に呪われ、滅ぼされるべき部分が残っています。

その意味で私たちは誰でも滅ぼされるべき罪の根があります。説教題は聖書の内容のとおりに、「聞き従わない者の滅び」とさせていただきました。しかしこれは正確に言いますと、あの人は聞き従わないから滅び、あの人は聞き従っているから滅ばないというよりも、誰もが滅ぼされるべき聞き従わない罪の根を持っています。

その罪の根を主に滅ぼしていただく必要があります。その意味で言いますと、説教題は、「聞き従わない罪の滅び」とした方が正確かも知れません。主の声に聞き従っていても順調に行かないこともあるかも知れません。しかし順調に行かないときに、もしかするとこのことは間違っているのではないかと主に示されることがあるのなら直ぐに悔い改めるならばダメージは最小限で済みます。

イスラエルはこの後に主の預言のとおりに、主を裏切り裁きを受けます。しかし苦しみの中で主に助けを求めると主の憐れみによって回復させられます、そしてまた順調になると罪を犯して、また主の裁きを受けることを何度も繰り返して行きます。それは私たちの人生の歩みと良く似ています。

イスラエルの歩み、歴史は、私たちの人生そのものです。どのような歩みをすると、どのような結果になるのかは聖書にすべて書かれています。人生に終点はありません。しかし物事によって、これはどこまでならば回復は容易ですが、それを越えてしまったら回復は難しいというものもあります。

後悔の少ない人生を送るには、聖霊の導きの中で、いつも主と交わり、主に心を向け、主が語りかけてくださる声を聞き逃さず、聞き従わない罪を滅ぼしていただくことです。そして聖霊の導きによって、主の声に聞き従い、祝福の道を歩ませていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは主の声に聞き従わない者は呪われると言われます。私たちは主の声に聞き従い祝福の道を歩みたいと願いつつも、罪のために自己中心の思いを通してしまい易いものです。

そのようなときに、あなたは裁きを警告の意味で与えてくださいますから有難うございます。どうぞ私たちが聖霊に導きの中であなたの声に耳を傾けて聞き、素直に聞き従い、祝福の道を歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。