「神の言葉を守り行う成功」

2024年5月12日礼拝式説教 
申命記 28章69節~29章14節 

        
主の御名を賛美します。パレスチナのガザ地区でのイスラエルとハマスの戦闘休止の交渉が進まない中で、イスラエルは南部ラファでの戦闘作戦の拡大を決めたと報道されています。ウクライナでも戦争休止の兆しが見えて来ません。これらの地域や国は一応は神を信じていると言われている人たちです。問題の根本はどこにあるのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、モアブ契約の前文(歴史)
今日の個所を含む29章はモアブの地で、主がモーセに命じてイスラエルの人々と結んだ契約の言葉ですので、29章は契約書と言えます。主はこれまでにも何度かイスラエルと契約を結び、これからも結びますが、それらは毎回何か新しいものというよりも、ほぼ同じ内容での更新です。前回の契約はホレブ(シナイ山)で、出エジプト記20章の十戒を中心とした律法に基づくものでした。

初めの1~7節は、契約書の前文のようなもので、これまでのイスラエルの歴史の振り返りです。聖書は何かをするときに過去を振り返ることをとても大切にします。それは過去を振り返ることによって、そこから多くのことを学ぶことが出来るからです。

茂原キリスト教会の70周年の御言である、創世記16章8節の「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」は聖書を理解する上でも大切な御言です。私たちも過去の教訓から学んで、現在と将来に生かすことが大切です。

1~3節はエジプトに下された主の裁きについてです。あなたがたはエジプトの地でファラオとそのすべての家臣、その全土に対して、主があなたがたの目の前で行われたことをことごとく見ました。ところがイスラエルは、このときから38年前に、カデシュ・バルネアからカナンの地に12人の偵察隊を送ったときに、主の命令に従いませんでした。

その結果としてそのときに20歳以上だった人たちは荒れ野で亡くなりました。そこから、エジプトの地での出来事を実際に目で見たのは、厳密に言いますと40代以上で58歳未満の人だけということになります。しかし皆、そのことを知っているということです。

エジプトに下された10の災いは、大いなる試みで、大きなしるしと奇跡でした。聖書は強調をするために、一つのことを似たような3つの言葉で言い換えます。10の災いは下されたエジプトにとっては大きな試みです。それは同時に神の御業である大いなるしるしと奇跡です。

しかし主は今日まで、それを知る心、見る目、聞く耳をあなたがたにお与えになりませんでした。これはどのような意味であるのかと考えさせられる文章です。主はエジプトに下された10の災いを知る心、見る目、聞く耳を、なぜイスラエルにお与えにならなかったのでしょうか。

その答えはイザヤ書6:10等にあります。とても厳しい言葉です。なぜ、「立ち帰って癒されることがないように。」などと言われるのでしょうか。それは31:16にありますように、イスラエルがすぐに契約を破ることを主はご存じだからです。

イスラエルがもし、エジプトに下された10の災いを知る心、見る目、聞く耳を与えられているなら、ある段階で自分たちは、かつてのエジプトと同じ主の裁きを受けているのではないかと気付くかも知れません。しかし主は悪を行う者に、主の裁きを知る心、見る目、聞く耳をお与えにならないことがあります。これは現代においても同じです。

エジプトのファラオのような頑なな人と関わるときに、その人の状況は明らかに悪くなっていて、それ以上に進んでしまうと、とても悪い段階に至ってしまうと周りの誰もが心配することがあります。しかし頑なな本人だけは不思議な程に全くそのことに気付きません。それどころか反って自分は正しいことをしていると思い込んでしまっていて、増々、悪の道を進んでしまうことがあります。

主の裁きを知る心、見る目、聞く耳を与えられないことが主の裁きの初めです。人生に終点はありません。しかし主の裁きを知る心を失う段階に至ってしまうと、とても難しい状況になります。この言葉をイスラエルは果たしてどのような思いで聞いていたのでしょうか。

4、5節は、荒れ野での主の恵みについてです。主は40年の間、荒れ野でイスラエルを導かれましたが、イスラエルの着ている服は擦り切れず、足の履物もすり減りませんでした。荒れ野で40年間も耐え得るとはどんな丈夫な素材なのだろうかと思いますが、そのような問題ではありません。神の力による奇跡です。

あなたがたはパンも食べず、ぶどう酒も麦の酒も飲みませんでした。パン、ぶどう酒、麦の酒は人の手によって作られるものです。イスラエルは人が作るものではなく、神が与えてくださるマナ、うずら等を食べて、水を飲んで養われました。イスラエルは神が与えてくださる恵みのみによって生きて来ました。それは私が主、あなたがたの神であることを知るためでした。

時々、お話をすることがありますが、外国でクリスチャンになる日本人の割合は、日本国内より圧倒的に高いです。私もその一人ですが、私の場合には30年以上前のその当時、インターネット等はありませんので、外国と日本で連絡をするのは高い国際電話か郵便だけですので殆ど出来ません。

外国で言葉も上手く通じず、知り合いもおらず心細い思いをする人は多くいます。そのようなときに親身になって助けてくれるのはクリスチャンです。私もロンドンに服を余り持って行かず、現地で買おうとしたけれどお金に余裕等なく寒い思いをしていたときに、教会で知り合ったクリスチャンを通じて暖かい服を頂いたことを今でも良く覚えていて感謝しています。

それはそのクリスチャンが単に親切だったということだけではなく、それはクリスチャンを通して与えられる神の恵みであることを知りました。私たちは神が与えてくださる恵みを覚えることによって神を知ることが出来ます。

6、7節は、敵についてです。イスラエルがモアブに来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグのオグ・シホン・コンビが出て来て、イスラエルを迎え撃とうとしました。そのときのことは申命記2、3章にも書かれていますが、主が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを討ち破りました。主は敵から守ってくださいます。

イスラエルは彼らの地を取って、ルベン人とガド人、そしてマナセ族の半数に相続地として与えました。1~7節は、イスラエルがこれまでに神から与えられて来た恵みの代表例であり、証しです。私たちもこの1~7節のように、自分が神から与えられて来た恵みを短く纏めて、いつでも言えるようにすることは大切です。それは自分の信仰の確信になり、また他の人への証しにもあります。

2、契約内容
先程、29章は契約書であることをお話しました。契約書には色々な項目がありますが、中心は条件と約束です。8節は短いですが、契約の中心である条件と約束です。前半は条件で、「あなたがたはこの契約の言葉を守り行いなさい」です。契約の言葉は具体的には4:44~26:19の内容です。

契約の約束(報酬)は、「そうすれば、あなたがたのすることはすべて成功する。」です。モアブでの契約内容は至ってシンプルで、神の契約の言葉を守り行えばすべて成功するというものです。

3、契約当事者と罰則
9~14節は、この契約の当事者と契約に違反した場合の罰則についてです。まず当事者の一方であるイスラエルは寄留者を含めてあなた方の全員です。それは、あなたの神、主の契約、すなわち、今日、あなたの神、主があなたと結ばれます。契約の一方の当事者は寄留者を含めてイスラエルの全員で、もう一方は主です。

契約は普通は条件を守ると約束(報酬)が果たされますが、条件を守らないと罰則(ペナルティ)が課されます。この契約を守らない場合の罰則は呪いですので、呪いを伴う契約に入ります。この契約は主が主導されていますが、イスラエルも27:15からの個所で神の言葉を守り行わない者は呪われることに、「アーメン」と言って同意します。

こうして主があなたに約束し、あなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたとおり、今日、主はあなたをご自分の民として立て、あなたの神となられます。これは新しい契約ではなくて、イスラエルの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われとおりの内容で、これまでの契約の更新です。

そしてこの契約は、今日、ここにいる者とだけ結ぶのではなく、いない者とも結ぶのです。今日、ここにいない者とは、たまたま、そこにいない者も意味しますが、それはこれから生まれて来る子孫等を意味します。

4、神の言葉を守り行う成功
これは神とイスラエルとの契約なので私たちには関係が無いということではありません。これは直接的には確かに神が初めに選ばれたイスラエルとの契約ですが、それは後に神に選ばれる霊的な意味のイスラエルであるクリスチャンとの契約です。それでこの契約は神と私たちとの契約であり現在も有効なものです。

契約の条件は、神の契約の言葉を守り行うことです。申命記の原語であるへブル語の題名は「言葉」で、言葉は出来事となる大切なものです。神の言葉を大切にし守り行うなら必ず成功します。「成功する」という言葉は、新改訳では「栄える」と訳しています。
真面目に生きている人が成功をするのは見ていても、とても気持ちの良いものです。大谷翔平選手等はクリスチャンではないと思いますが、本当に見ていても楽しいものです。多くの人は出来ることなら、清く正しく美しく生きて成功したいと思うものです。

成功するための条件は、神の契約の言葉を守り行うことです。しかし旧約聖書を読むと分かりますが、人間が自分の力で神の契約の言葉を守り行うことは難しいというより不可能です。それは初めの人であるアダムとエバが罪を犯したために原罪を持っているからです。人は罪を犯すと罪人になるのではなく、元々、罪人であるので罪を犯します。

そのときに色々な選択肢が考えられますが、今日は二つの選択肢だけを考えます。一つ目は、本当の意味では神の契約の言葉を守り行ってはいないのですが、誤魔化して形式上は守り行っていることにすることです。ユダヤ人はこの道を選びました。なぜそのような道を選んだのでしょうか。

一つは27:15~26で、神の契約の言葉を守り行わないものは呪われる、そしてアーメンと言いながら、やはり守り行うことは出来ませんとは立場上、言えなかったようです。その結果、マタイ15:5、6で、『父または母に向かって、「私にお求めのものは、神への供え物なのです」と言う者は、父を敬わなくてもよい』などという訳の分からない言い訳の屁理屈を作って行きました。

そのような屁理屈が神に通じる訳はなく、イスラエルは紀元70年に崩壊しました。この契約は、このときにいない子孫とも結ぶものであると言います。現在もイスラエルは、国内でも、また周りの国々とも揉め事を起こして混迷を極めていますが、この契約の罰則による呪いなのでしょうか。

もう一つの道は、自分の力では神の契約の言葉を守り行うことは不可能であることを素直に認めることです。全能の神はご存じですので、そのために私たちを贖うために主イエスを十字架に付けられ、私たちが神の契約の言葉を守り行うことが出来るように聖霊を遣わすこととされました。

そして私たちが聖霊に満たされ、喜び楽しんで主に仕え、成功するように導いてくださいます。誰もが喜び楽しんですべて成功することを望むものです。それは主が私たちに望んでおられることでもあります。成功の道は備えられているのですから、敢えて呪いの罰則を受ける必要はありません。

一人が神の契約の言葉を守り行い成功することは、一人だけで終わるのではなく、祝福の基となって周りに広がって行きます。それは呪いも同じです。神が父祖アブラハムに約束された、「あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う。」(創世記12:2、3)の御言は今も有効です。神を信じて聖霊に満たされ、神の契約の言葉を守り行い、成功の道を歩ませていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは神の契約の言葉を守り行い、成功することを望むものです。どうぞ私たちが聖霊に導きの中で謙って素直に自分の罪深さを認めて、主イエスを信じ聖霊の力をいただいて、成功の道を歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。