「心を一つにして」
2024年5月19日礼拝式説教
使徒言行録 2章37~47節
主の御名を賛美します。少し前に笑うと心が軽くなり大切なことであることをお話しました。今日は漫才師のアイアムさんを迎えて礼拝の後に少し、また午後にライブを行っていただきます。昨日の夕方に準備と夕食を一緒にさせていただきました。私はお笑いの方と直に接するのは初めてで、とても面白く楽しく過ごさせていただきました。
また何よりもクリスチャンの方々ですので、ただ面白いのではなく、優しく、面白さの中に真面目さもあって、この後も楽しみです。
1、何をすべきでしょうか
今日は神の霊である聖霊がこの世に降られた聖霊降臨日、ペンテコステです。約2千年前の初めのペンテコステの日には、聖霊が降られて聖霊に満たされた主イエスの弟子たちが他国の言葉で話しました(4節)。そのことに驚いた人々にペトロは、この聖霊は、あなたがたが十字架につけた主イエスが、御父から受けて注いでくださったこと(33節)を説明しました。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれました。「心を打たれた」ことを新改訳は「心を刺された」と訳しています。なぜ心を刺されたかと言いますと、聖霊を注ぐという大いなる神の御業をされる主イエスを十字架につけるという大きな過ちを犯したことに良心の呵責を覚えたからです。
そしてペトロと他の使徒たちに、「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と聞きました。「何をすべきでしょうか」という問いは、このときの人々だけではなく、すべての時代の、すべての人々が問うべきものです。「何をすべきでしょうか」はこの当時に洗礼を志願する人が学ぶカテキズム(教理問答)の問いであり、ハイデルベルク信仰問答の問12も、「どうすればよいのですか。」という問いになっています。
問いに対してペトロは4つのことを答えます。一つ目は、「悔い改めなさい。」です。悔い改めるとは、心の向きを変えることで、自分中心の考え方から、「イエスは主である」と告白して、御心に心を向けて従います。二つ目に、悔い改めと主イエスを信じることを告白する儀式として、イエス・キリストの名によって洗礼を受けます。
前半の二つは私たち自身がする必要があることで、後半の二つは前半の二つをすることで得られる恵みの約束です。三つ目は、罪を赦していただくことです。罪の赦しは、主イエスが私たちの罪のために十字架につかれたことを信じて告白する、二つ目の洗礼を受けるときに与えられます。四つ目の聖霊の賜物を受けることも、主イエスを信じる告白をする二つ目の洗礼を受けるときに与えられます。
この約束は、このときにペトロの話を聞いていた人々にも、その子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものです。ですからこのときのイスラエルから、時間的にも地理的にも遠くにいる、現代の日本に住んでいる私たちにも与えられます。
ペトロは、「邪悪なこの時代から救われなさい」と言って人々を励ましました。この当時も今もこの世は邪悪なものが溢れています。救われなさいということは、そのような邪悪なものからは聖霊の導きによって離れて、分離した生き方をしなさいということです。最近は若年層のSNSの使用を制限する規制等が色々な国や地域で出来ているようですが、ある程度は必要なのかも知れません。
ペトロの言葉を受け入れた人々は、ペトロの言ったとおりに、悔い改めて洗礼を受けて、その日に三千人ほどが仲間に加わりました。悔い改め、洗礼を受け、罪を赦していただき、聖霊の賜物を受けることはとても大切なことです。しかしそれがゴールで、そこで終わりではありません。
寧ろそれは新たなスタートです。4つのことをした者はそれに相応しく4つのことをして生きて行きます。それは使徒たちの教えを守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをすることです。
2、心を一つにして
4つのことをする敬虔な生活の中で、すべての人に恐れが生じました。全知全能の神に対して正しい恐れを感じることは健全なことです。43節の文章は、すべての人に神に対する恐れが生じる環境があったので、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたという意味と、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたので、すべての人に恐れが生じたとの両方の意味に考えられ、両方の意味があるように思います。
私は聖書が言うのとは違う意味で、不思議な業は得意かも知れません。野田牧師はなぜあのようなことをしたり、言ったりするのだろうかという不思議な業です。そのようなこともいつかは本当の神の不思議な業になって行くようにと願うものです。
信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合いました。これは必ずしも文字通りの完全な財産の共有を意味しているのではないようです。5:1等を見ますと私有財産もありながら、必要に応じて売って共有していたようです。
そして46、47節で4つのことをしていました。この4つのことは42節の4つのことと同じ内容で、合わせて考えると分かり易いようです。一つ目は、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まることです。神殿に集まることは礼拝をすることです。
私たちは教会に集まって礼拝をします。礼拝をすること自体も大切なことですが、集まる人たちが心を一つにして礼拝をすることが大切です。どのようにして一つになるのかと言いますと、賜物として受ける聖霊によってです。聖霊は私たちが一つになって一致するように導かれるお方ですから、私たちが聖霊の導きに素直に従うなら霊的に心が一つになります。
しかし霊的には心が一つになっても、同じ信仰者でも色々な考えがあり、考え方が違う場合があります。その場合にはどうすれば一つになれるのでしょうか。具体的に心を一つにする方法は使徒たちの教えを守ることによってです。聖書は色々な教えを語っていますが、時代や地域によって適用の仕方を考える必要がある場合があります。
その場合には神が立てた使徒の教えを守ることによって心を一つにします。今日はアイアムさんを迎えてのお笑いのライブを楽しみにしています。お笑いについて素人の私は、笑いは理屈抜きに皆で笑うことによって一つになれると思うからです。今日はまず笑いを通して一つになりたいと思います。お笑いはそれ程に単純なものであるのかどうか私には良く分かりませんが。
二つ目は、パンを裂くことです。パンを裂くことについてルカ22:19は、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』」と言われます。
パンを裂くことは、パンである主イエスが私たちの罪のために十字架につかれたことを思い起こすことです。また私たちはキリストの一つの体で、一人一人はその部分であることを思い起こすときでもあります(Ⅰコリント12:27)。一つの体ですから心も一つにします。
三つ目は、交わりです。交わりという言葉は元々は聖餐を指す言葉です。そこから神と信徒の交わり、信徒同士の交わりの意味となりました。この当時は聖餐と愛餐が一緒になったような感じのものでした。そこで交わりは、喜びと真心をもって食事を共にし、キリストの一つの体であることを楽しみます。
四つ目は祈りです。祈りには色々な要素があります。感謝、悔い改め、願い、献身、執り成し等が含まれますが、必ず必要なのは私たちの罪を赦して救い、聖霊の賜物を与えてくださる神を賛美することです。
この4つをしていた人々は民衆全体から好意を寄せられました。それはそうだと思います。これは今日でも同じだと思います。心を一つにして教会に集まり、一つのパンを裂いて、喜びと真心をもって食事を共にする交わりをなし、神を賛美する祈りをしているなら、真面目な良い人たちだと周りから好意を寄せられます。
その結果はどうなるのでしょうか。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださいました。私たちはキリスト教会の一つとして伝道をしようと考えます。そしてそのためには、「何をすべきでしょうか」と考えますが、その答えはすべてここに書かれています。
色々な行事やイベント等を行って多くの人に集まっていただくことも大切かもしれません。しかし一番に大切なことは、今日のペンテコステにこの世に降られた聖霊の賜物を受ける私たちが、聖霊の導きに従って、心を一つにして4つのことをして、人々から好意を寄せられることです。これがすべての始まりです。
これは教会に限ったことではなく、職場やサークル等でも同じだと思います。そこに集まっている人々が心を一つにして、喜びと真心をもって食事を共にし交わりをなして、敬虔な生き方をしているなら、楽しそうな良いところだと好意を寄せられて仲間が加わって行くことでしょう。
それとは逆に集まっている人が内輪揉めをしているようなところには誰も行きたいとは思いませんし、仲間に加わりたいとも思わないものです。2千年前に主イエスは私たちの罪のために十字架につかれました。そして50日前のイースターに復活されて、10日前に天に帰られて、今日のペンテコステに聖霊を注いでくださいました。
それは私たちが心を一つにして4つのことをして人々から好意を寄せられるためです。そしてそれが何よりの伝道であり、人々を救いに導くものです。今日は聖霊の働きによって、まず笑いをとおして心を一つにさせていただきましょう。そしてそのまま心を一つにして、クリスチャンの歩みをさせていただきましょう。
3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちの罪の赦しのために主イエスは十字架につかれました。そして私たちが心を一つにするために聖霊がこの世に降られました。私たちが聖霊の導きによって自己中心の思いを捨てて、使徒の教えを守ることによって一つとなり、人々に好意を寄せられ、救われる人々を加えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。