「民と土地の清め」

2024年7月28日礼拝式説教  
申命記 32章36~44節
        
主の御名を賛美します。

1、主の憐れみ
32章でモーセは、イスラエルにこれから起こること、そのときになすべきことを後で思い起こすために、歌にして語っています。イスラエルは主から多くの恵みを受けますが、心が肥え太り、かたくなになり主を侮り、そのために、主の裁きを受けます。イスラエルの裁きにはイスラエルの敵が用いられますが、その敵も悪の故に裁かれます。

今日はこの歌の最後の纏めの部分です。主はご自分の民であるイスラエルをその悪の故に裁かれます。しかし憐れみ深い主はその僕らを憐れまれます。それはイスラエルの力がうせ、つながれた者も自由な者もいないのを御覧になるからです。「つながれた者」を新改訳は「奴隷」と訳しています。

ご自分の民であるイスラエルが皆、いなくなってしまったのを主が御覧になって憐れまれるということです。皆、いなくなってしまったと言いましても完全にいなくなってしまってゼロになった訳ではありません。これは聖書の全体を通してことですが、主は神の民を裁くことはされますが、滅ぼし尽くすことはされません。

創世記7章のノアの時代に洪水がありましたが、主はノアの家族と生きものの二匹ずつを残されました。これは主の民を残し主の祝福の契約を引継ぐためです。残される者のことをレムナントと言います。これは一人の人でも言えることです。

主によって裁かれるときに、確信犯ではない限り、一度のことで完全に滅ぼされることは余りないのではないかと思います。裁きは受けますが、憐れみ深い主は裁かれた人を憐れみ、悔い改めることを期待されて滅ぼすことはされません。

しかし主は伝えるべきことは言われます。イスラエルが17節でいけにえを献げた神々はどこにいるのか、逃れの岩はどこにあるのかと問われます。悪霊や異教の神々は、イスラエルが献げた、いけにえの脂肪を食べ、供え物のぶどう酒を飲んだではないかと。

それだけの上等の物をあなたがたは喜んで献げたのだから、その神々が見返りの一部として、立ち上がり、あなたがたを助け、あなたがたの隠れ家となればよいと、最もな内容ですが皮肉たっぷりです。この世には、人の欲に付け込んで人を惑わす胡散臭いものが溢れています。

そのようなものは、人が金銭等のいけにえを献げているときには近寄って来て甘い顔をします。しかし、いけにえを献げていた人が困るような、いざというときに、立ち上がって、その人を助けるということは聞いたことがありません。それどころか逆に困った人を更に追い込んで破滅へと向かわせますので恐ろしいものです。

2、とこしえに生きる主
しかし今こそ見よ、私、私こそそれであると言われます。それとは、いざというときに立ち上がり、あなたがたを助け、あなたがたの隠れ家となります。「まさかの時の友こそ真の友」と言いますが、「まさかの時の神こそ真の神」です。全知全能の主のほかに神はいません。

主は殺し、また生かします。主は18節で命を与えられる唯一のお方ですから、生かすも殺すも主の御心次第です。同じように、主は傷つけ、また癒やします。すべてをご支配される主の手から救い出せる者はいません。

主は何のために、殺し、生かし、傷つけ、癒すことをされるのでしょうか。Ⅰペトロ1:7は、信仰の試練は火で精錬される金よりも尊いと言います。テレビ等で刀を作る場面を思い浮かべます。刀を作るときには、鉄を千度以上に熱して不純物を取り除きながら、何度も折って練りながら強くして行きます。

殺し、生かし、傷つけ、癒すことは同じように、神の民、聖なる民に相応しい者となるために必要なことなのでしょう。主は手を天に上げられ、「私はとこしえに生きる」と誓われます。主は18節で命を与えることの出来る唯一のお方ですから、命をお与えになられる方は、とこしえに生きられます。

世界中には多くの宗教があります。正確には知りませんが、一度死んで甦られて、その多くの証人がいるのは主イエス・キリストだけだと思います。死んで甦られ、とこしえに生きるお方は、永遠の命を他の人にも与えることが出来ます。

3、民と土地の清め
イスラエルの敵はいつまでも好き勝手に出来る訳ではありません。35節にありましたように、彼らの災いの日は近く、復讐されるのは主です。主がきらめく剣を研ぎ手に裁きを握られる主のときに、主の敵に復讐し主を憎む者に報いられます。

そして、「諸国民よ、主の民に喜びの声を上げよ。」と言います。この御言を使徒パウロはローマ15:10で引用して、「異邦人よ、主の民と喜べ。」と言います。これは少し不思議な感じのする御言です。
主はイスラエルの敵に復讐をされます。

イスラエルの敵は偶像礼拝を行う者たちですので主の敵ではあります。しかしその敵に主が復讐をされてイスラエルが喜ぶのは分かります。しかしイスラエル以外の関係の無い諸国民は、なぜ主の民のために喜びの声を上げるのでしょうか。

主はその僕であるイスラエルの血を流したことに対して、報復しその敵に復讐されます。それにより、その民イスラエルと、その土地を清められます。これはイスラエルと土地の贖いのためということです。これは私たち日本に住む者には感覚として少し分かり難い部分があるかも知れません。

このことを説明する御言としてヘブライ9:22は、「こうして、律法によれば、ほとんどすべてのものが血で清められます。血を流すことなしには赦しはありえないのです。」と言います。ここでは3つの血の清めの意味が考えられます。

一つ目はイスラエルは敵によって血を流せさせられました。その流された血を清めるために敵の血が用いられます。二つ目にイスラエルは17節で悪霊にいけにえを献げる罪を犯しました。その罪の赦しの清めのためにも血が必要です。三つ目に血が流されて汚された土地の清めのためにも血が必要です。

これらのことを考えますと、旧約聖書に血生臭い戦争が多い理由が分かる気もします。それは単なる敵に対する復讐だけではないということです。宗教的に自分たちや自分たちの犯した罪や、血によって汚された土地を、敵の血によって清めるためということです。

もし敵の血によって清めるという考えが今でも中東等において行われているとすると恐ろしいものです。血による清めの儀式というと怪しげなカルト的な宗教をイメージするかもしれません。キリスト教においてはどうなのでしょうか。

先程のヘブライ9:22にもありましたように、血による清めの考えは聖書にあります。あると言うより、むしろ旧約聖書にあります動物の血をいけにえとして献げる律法を見ますと、血による清めの考えは聖書から始まったのかも知れません。

しかし現代では清めのために血を流すことは行いません。血を流すだけでなく、レビ記に定められた動物等をいけにえとして献げることもしません。これらのいけにえは廃止されたのではありません。マタイ5:18で主イエスが、「律法から一点一画も消えうせることはない。」と言われていますので、いけにえは廃止をされたのではありません。

主イエスはマタイ5:17で、「私が来たのは律法を廃止するためではなく、完成するためである。」と言われています。主イエスが十字架で完全ないけにえとなられて、完成されたので、動物や血のいけにえは献げる必要がなくなりました。

現代において、誰かの血によって清める必要があるなどと考えることは聖書的な考えではありません。復讐することは聖書で禁じられていますし、血による清めの儀式は既に二千年前の主イエスの十字架によって完成しています。その前はいけにえを献げる必要がありました。私たちはその意味でも大きな恵みの時代に生きていることを感謝したいと思います。

しかしクリスチャンは聖餐で主イエスの血に与っているのではないかと思われるかも知れません。確かに聖餐は、主イエスが私たちの罪のために十字架に付かれ、私たちを清めるために血を流されたことを思い起こし、主イエスの血と体とに与る礼典です。

しかし聖餐は血という物質自体に清めの効果があるというよりも、信仰によって受ける霊的な恵みです。いずれにせよ、主がイスラエルという民とその土地を清められることに、なぜ諸国民は喜びの声を上げるのでしょうか。それは創世記12:2で主がアブラハムに約束されたように、主の民は祝福の基だからです。

この32章でもイスラエルが主を侮り偶像礼拝に走ると、イスラエルを裁くために他の民が用いられ、その民も最終的には主に報復されて、結局は皆が悪い方向へ行ってしまいます。イスラエルを祝福する人を主は祝福し、イスラエルを呪う人を主は呪われます。

皆が良い方向に行くためには、皆がイスラエルを祝福し易くなる必要があります。そのためには、祝福の基であり核となるイスラエルがまず清められて良い方向に行く必要があります。イスラエルの民と土地が清められれば、イスラエルの民が豊かになり土地の実りも豊かになります。

そうしますと自然と他の民はイスラエルを祝福し、祝福は基であるイスラエルから周りの諸国民に広がって行きます。地上のすべての氏族はイスラエルによって祝福されます。ここでいうイスラエルは必ずしも現代の国としてのイスラエルと全く同じではありません。ここでイスラエルというのは、神の民の国です。

その意味で現代での霊的イスラエルはクリスチャンと言えます。クリスチャンが清められることは、そのクリスチャン本人のためだけではありません。そのクリスチャンの周りにいるすべての人々に祝福は及びます。クリスチャンは祝福の基であるからです。

ある地域の祝福はそこに住むクリスチャンの清めに掛かっています。私たちは主イエスの尊い十字架によって清められる者として、地の塩、世の光としての役割が期待されています。31:21で、「この歌は子孫の口から忘れられることがない」と言われていますので、時々でも思い返させていただきましょう。それは私たちの祝福のためです。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この当時は、敵に対する主の復讐によって、民と土地を清められたようです。現代ではすべての清めは二千年前の主イエスの十字架によって完成していますから有難うございます。

主イエスの十字架による清めに与る私たちを、聖霊の力によって祝福の基として生きるものとさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。