「滅びに至る内輪もめ」
2025年2月2日礼拝式説教
マルコによる福音書3章20~30節
主の御名を賛美します。
1、主イエスに対する反応
主イエスは山で十二使徒を任命した後に、家に帰られました。この家は1:29のカファルナウムにあるシモン(ペトロ)とアンデレの家と思われます。「家に帰る」というとどのようなイメージを持つでしょうか。この家は建物だけでなく、温かくて寛げる家庭の意味です。
この個所は「家」がモチーフになっています。主イエスにとってペトロの家は、帰る家になっていました。しかし群衆がまた集まって来て、それに対応をするために、一同は食事をする暇もないほどでした。主イエスに対する評価と判断は人それぞれで、色々な反応が見られます。
まず身内の人たちは主イエスのことを聞きました。身内の人たちは、31節から主イエスの母ときょうだいたちを中心とした人です。8節で、遠く離れた地域からも主イエスのしていることを残らず聞いて、御もとに来ています。主イエスの故郷のナザレは比較的に近いので、話は十分、伝わっていたのでしょう。
その話の中には、主イエスが「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」(2:10)、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)、「人の子は安息日の主でもある」(2:28)と言われたことも含まれていたことでしょう。これらは真実ですが、良く分からない人には誤解を招くかもしれません。
「気が変になっている」と言っていたのは、原語を見ますと新改訳のように、人々です。それを聞いた身内の人たちは、同じ家の者として心配をして、取り敢えず取り押さえに来たと思われます。決して悪い意味ではないと思われます。
次にエルサレムから下って来た律法学者たちです。主イエスの噂は8節でエルサレムにも届いていますので、律法学者たちもそのまま見過ごすことは出来ませんので、専門の律法学者が調べに来たようです。大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出していることを群衆が知っていますので、「気が変になっている」では納得しないことを律法学者は知っています。
しかし客観的な判断はしません。主イエスは自分たちの宗教的権威を脅かす危険な存在と思っています。そこで何とか主イエスを貶めるための悪意に満ちて、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とこじ付けを言います。
ベルゼブルはバアル・ゼブル(家の主)の意味と思われますが、はっきりとは分かりません。「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていました。これは律法学者たちが群衆等に対してそのように説明していたようです。
2、滅びに至る内輪もめ
それを聞かれた主イエスは彼ら、律法学者たちを呼び寄せました。主イエスが律法学者たちを呼び寄せるのは珍しいことであり、これは大切なことを伝えるためです。主イエスはたとえを用いて多くのことを語られますが、これがたとえの一つ目です。
まず初めに、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。」と律法学者たちの詭弁の矛盾を問われます。なぜなら、「国が内輪で争えば、その国は立ち行かない。」からです。国が立ち行かなくなる大きな理由は他の国との争いよりも内輪の争いです。内戦が続く国は立ち行かなくなります。
ソ連が崩壊した理由も特に外の国と直接に争ったからではありません。どちらかと言えば内輪の争いです。国に限らず、人の集まりである会社等を含めたあらゆる組織は古くなって行き、最後の末期症状が内輪の争いです。内輪の争いによってあらゆる組織は滅びて行きます。
これは裏を返して言いますと、国がある他の国と争うと、その国は共通の敵を持つことになるので、国は一致して強くなり易いものです。戦争が始まると国の指導者の支持率は一般的には上がります。支持率を上げる目的も含めて仮想敵国を作ることもあります。
これはとても大切なことですので、24、25、26節で同じ内容を3回語られて強調します。25節では、「また、家が内輪で争えば、その家は立ち行かない。」です。家は本来は寛いで休むところです。その家で内輪の争いがあるのは大変なことです。争いが大きくなればお家騒動となって立ち行かなくなってしまいます。
良く言われますことは、家が経済的に厳しい状況ですと、家族が協力して争いは比較的少ないようです。反って経済的に豊かですと、自分の取り分を少しでも増やそうとして争いが起き易いようです。いずれの場合でも、家族というのは関係が近いが故に難しいところもあります。
ただ家に余り夢のような高すぎる理想像を持つ必要はないように思います。特に、クリスチャン・ホームといいますと何か理想的な家庭のような幻想を抱くかも知れません。しかしクリスチャンになっても私たちは罪人です。その罪人の集まりである家が、極端に理想的になるとは思えません。
勿論、神の恵みはあります。しかし我が家はクリスチャン・ホームなのになぜこうなのだろうと悩む必要はないと思います。すべての人に主イエスの十字架による罪の赦しが必要なように、罪人の集まりであるすべての家、家庭にも主イエスの十字架による罪の赦し、癒しが必要です。そして主に支えられて生きて行くものです。
26節は3個目の、「もしサタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」です。悪の根源であるサタンでさえ、内輪もめは滅びに至ることを知っているので、そのような愚かなことはしません。ここまで言えば十分でしょう。
律法学者たちのしていることはどういうことでしょうか。神の国、イスラエルの家での内輪もめです。人が的外れになると内輪もめをします。的外れになると、広い視野を持って全体を見ることが出来ずに、目の前のことだけを見て、自分がお山の大将になることを考えます。
そして同じ山にいる内輪の人を妬んで攻撃をします。内輪の人を攻撃することは、自分もいる山を崩していることには気付きません。自分で自分もいる山を崩していながら、最近、自分たちの組織、山が崩れているのだけれど、どうしたら良いのだろうかと言ったりします。
自分が行っている内輪もめが、山を崩している最大の原因であるとは全く気付かないようです。主イエスは、この3つのたとえを使って、律法学者たちのいう、ご自身がベルゼブルに取りつかれているということは全くの誤りであることを指摘されます。
律法学者の所属するファリサイ派は主イエスを殺すためにヘロデ党と手を組みました。それは自分たちの国を苦しめ、やがては国の崩壊に至らせます。主イエスはこのたとえによって、イスラエルの内輪もめは滅びに至ることを預言されているのですが、律法学者たちはそのことに気付いているのでしょうか。
3、家の略奪
主イエスは次に27節のたとえを語られます。少し唐突感のある話で、なぜここで押し入り強盗の方法等を説明するのだろうと思ってしまいます。初めにお話ししましたが主イエスは家をモチーフに語られています。律法学者たちは主イエスをベルゼブル「(悪霊の)家の主、頭」と言っています。
ここで押し入る家は悪霊、サタンの家です。そこでまず縛り上げる強い人は悪霊です。主イエスがもしも律法学者のいうようにベルゼブル、悪霊の頭であったとしたら、悪霊を縛り上げたら内輪もめになってしまい立ち行きません。主イエスは悪霊とは正反対におられるお方です。
主イエスが悪霊の家に押し入って奪い取る家財道具とは、悪霊に支配されている人々です。主イエスは悪霊を縛り上げ、悪霊に支配されている人々を解放されます。
4、永遠の罪
次の28~30節も少し唐突さを感じます。28節は分かり易いです。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」 主イエスはそのような私たちの罪の赦しのために十字架に付かれるからです。29節のいう、聖霊を冒涜する者とはどのようなことなのでしょうか。
主イエスはこれまでに多くの悪霊を追い出して来られましたし、またいろいろな病人を癒して来られました。そのような主イエスを慕って多くの群衆が集まって来ます。普通に考えれば、それは悪霊とは正反対の聖霊の力によって行われていることは明らかです。
聖書のことを恐らく良くは知らない群衆でもそのことに気付いていることでしょう。律法学者がそのことに全く気付かないはずがありません。しかしそのことを認めてしまったら、自分たちが今まで築いて来た宗教的な地位が脅かされてしまい、面白くありません。
そこで、律法学者たちは、主イエスは汚れた霊に取りつかれていると、こじ付けの理由を作りました。
この聖書箇所で、悪霊、サタン、汚れた霊、と3つの言葉が出て来ます。悪霊は英語ではデーモン、サタンは元は「反逆者」の意味で、汚れた霊の汚れは「不潔な、淫行の汚れ」の意味で、3つの言葉は同じ意味の別名で使われています。
聖霊の働きを認めずに、意図的に悪霊の業と言うことは聖霊を冒涜することです。聖霊は私たちを悔い改めに導き、救いへと導いてくださる唯一のお方です。その聖霊を汚れた霊と呼んで冒涜する者は、救いへの唯一の道を拒否するのですから、赦されようがありません。それは自分で救いを拒否することです。
律法学者たちの初めの過ちは、自分たちの宗教的地位を守りたいという欲でした。その欲は、内輪もめに発展して、主イエスは汚れた霊に取りつかれていると言って、聖霊を冒涜する罪を産みます。その罪が熟して主イエスを殺し、自分たちの死をも生み滅びに至ります。
それはヤコブ1:15に、「欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を生みます。」とあるとおりです。この当時はまだヤコブの手紙がなかったのが残念です。律法学者たちが読んでいたらどのように思ったことでしょうか。私たちは聖書をとおして、また一般常識として内輪もめは滅びに至ることを知っています。
それでも内輪もめを起こしてしまう罪深い私たちです。そのような私たちのために主イエスは十字架に付かれました。そして聖霊が悔い改めへと導いてくださいます。私たちを救いへと導いてくださいます聖霊は最後の拠り所です。聖霊の導きによる救いを感謝して従い、永遠に続く神の家に導いていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。律法学者たちは目の前の自分たちの宗教的権威を守るために、内輪もめに終始して、自らを滅びへと追い込む的外れなことをしています。私たちは他人のことは見えても、自分で同じようなことをしてしまう愚かな存在です。
そのような私たちの罪のために主イエスは十字架に付かれました。私たちを救いへと導く聖霊の導きに従えますよう私たちを助けてください。そして滅びに至る内輪もめではなく、一致して本当の敵であるサタンに立ち向かう力をお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。