「使徒の任命」
2025年1月26日礼拝式説教
マルコによる福音書3章7~19節
主の御名を賛美します。
1、群衆
前回の終わりの6節で、ファリサイ派の人々は出て行き、ヘロデ党の人々と主イエスを殺す相談を始めました。それに対して主イエスは弟子たちと共に、ガリラヤ湖の方へ退かれました。主イエスの退かれた「湖」という言葉には「海」の意味もあり、イスラエルにとって海である地中海は異邦人がやって来る方ですので、「湖」という言葉は異邦人を象徴します。
主イエスは異邦人の方へ退かれたともいえます。ユダヤ人からは一時、退却です。ガリラヤから来たおびただしい群衆が付いて行きました。これと同じような表現を4回使って強調します。おびただしい群衆が御もとに来た(8節)、主イエスは群衆に押し潰されないよう(9節)、病気に悩む人たちが皆、押し寄せてきた(10節)。
その目的は、主イエスが多くの人を癒やされたので(10節)、病気に悩む人たちは皆、自分も癒して貰いたいと思ったからです。この当時は医療の知識が発達していないこともあり、皆、必死であったと思います。主イエスに触れさえすれば癒されると思って、押し寄せ、主イエスを押し潰すほどの勢いです。
そこで主イエスは小舟に乗って群衆から離れなければならなかった程ですので凄い求めです。群衆はとても素直で正直です。主イエスが病人を癒していることを聞くと、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りの遠いところからも御もとに来ました。異邦人もです。
本来であれば、聖書のことを良く知っているファリサイ派の人々が、自分たちが大切にしている聖書の預言のとおりに救い主が現れたことを喜んで、群衆のように主イエスを求めて良いはずです。しかしファリサイ派は素直な群衆とは全く正反対の態度です。
人間は自分がある程度の地位や権力を得るようになると、自分たちが行って来た伝統や作ったルールを正しいものと思い込むようになります。それに反対したり、自分の立場を脅かす存在が現れると、自分のことを振り返って見直すことは一切しないで、どんな手段を用いてでも反対者を取り除いて自分の立場を守ろうとします。
自分の行っていることが的外れになっていたとしても、自分で気付くのは難しいものです。また多少はおかしいと例え気付いたとしても、自分の間違いを認めることは難しいものです。その結果、自分たちのルールを守らない者を許さずに、正論を言う者にも反対して抵抗勢力になって行きます。抵抗勢力になるのは、それまでは割と中心的な立場にいて、色々と良く知っている者がなることが多いものです。
2、汚れた霊ども
汚れた霊どもは、主イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫びました。汚れた霊どもは、この辺りに出て来る登場人物の中で唯一、真実を見抜いて真実を述べています。そうであればそのまま言わせておいても良いのではという気がしないでもありません。
しかし、主イエスは、自分のことを言い触らさないようにと霊どもを厳しく戒められました。汚れた霊どもは主イエスが神の子であることを知ってはいますが、従おうとしているのではありません。「あなたは神の子だ」という言葉は、それで従いますという信仰告白の言葉ではなく、自分が滅ぼされるのは嫌だという恐れと不満の言葉です。汚れた霊どもに証言をしてもらう必要はありませんし、証言をされると反って逆効果ですので、主イエスは厳しく戒められます。
3、使徒の任命
主イエスは山に登られました。山は神と向き合う場所です。ルカ6:12は、「主イエスは祈るために山に行き、夜を徹して神に祈られた。」と言います。夜を徹する祈りの中で主イエスは何を思われたのでしょうか。主イエスは、これと思う人々を呼び寄せて、十二人を任命し、使徒と名付けられました。
6節で、ファリサイ派が敵対していたヘロデ党と手を組んで極悪同盟が結成されました。それによってご自身の死が近づいたことを知られた主イエスは、死に向けた準備を始めることを父なる神に祈られたのではないでしょうか。
マルコとルカによる福音書では、ファリサイ派が主イエスを殺す決意を固めた直ぐ後に、主イエスが十二人の使徒を任命する記事が続いています。そこから分かることは、主イエスの十二人の使徒の任命の直接の切っ掛けは、ファリサイ派とヘロデ党が極悪同盟を結成して主イエスを殺す相談を始めたことです。
ただ使徒の任命は決して極悪同盟に対抗をするためのものではありません。あくまでも、主イエスの死に備えるためです。ここで極悪同盟の結成により人々は3つのグループに分かれて行きます。一つ目の極悪同盟には主イエスの存在を疎ましく思う、祭司長やサドカイ派が加わって行きます。
二つ目は、その対極として主イエスに従う十二人の使徒を中心とした弟子たちのグループです。その間に三つ目の群衆のグループです。群衆はとても素直ですが、空気に流され易い特徴があります。主イエスが病人を癒しているときは押し寄せますが、主イエスが神を冒涜したという嘘に簡単に騙されて、「十字架に付けろ」と叫ぶことになります。
それらの全ての人の罪のために主イエスは十字架に付かれますので、その準備として使徒が任命されます。「使徒」は「(神に)遣わされた者」の意味です。
4、任命の3つの目的
主イエスは三つの目的のために使徒を任命されます。一つ目は、ご自分のそばに置くためです。いつも主のそばにいて、寝食を共にして、人格を通して交わり、主から学ぶためです。主イエスはご自分が十字架に付かれる予兆が起きたことで、直ぐに使徒の訓練を始められました。約3年続くことになります。このことに基づいて、東京聖書学院の修養生も舎監の先生と3年間の寮生活を行います。
このことは3年間だけ行えば良いということではありません。教会でもディボーションの本を1年間貸し出していますが、ずっと主のそばに座って御言葉を聴き続ける必要があります。但しこれには注意も必要です。それは聖書をただ読み続ければ良いということではありません。
ファリサイ派の人々は毎日、聖書を読み、一日に二回は祈り、週に二日は断食も行っていました。しかし反ってそのことで自己満足をして、自己中心となって行き、聖書の御言葉を自分の都合の良いように利用して、的外れになって行きました。聖霊の導きに従って、いつも謙って謙虚に御言葉の御心を聴く必要があります。
二つ目は、宣教に遣わすためです。人は不完全で過ちを犯しますが、それでも主イエスは福音宣教を人の手に委ねられます。十二人の使徒も失敗を繰り返しながら学んで成長をして行きます。そのためにも宣教に遣わす者を、主イエスご自身が選んで任命をされます。
宣教に遣わされる者は一つ目の、主イエスのそばに置いて、きちんと訓練をし、御心をわきまえて行う者です。一つ目の主イエスのそばに置かれたことがない者が宣教をすると、的外れの大きな問題を引き起こすことになります。
その代表例が、やはりファリサイ派で、御心から掛け離れた、自分たちで作った規則等を人々に押し付けて苦しめてしまいます。マタイ23:4は、「彼らは、背負いきれない重荷をくくって、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために指一本貸そうともしない。」と言います。
ファリサイ派の一人で、主イエスに出会う前のパウロは、クリスチャンは異端であると思い込んでいました。そして自分は正しいことをしていると思い込んで熱心にクリスチャンを迫害していました。宣教をするのに相応しくない状態の者が宣教をするのは危険なことです。反って御心とは反対のことを行って、逆効果になってしまいます。
主イエスはすべてのクリスチャンを宣教に遣わすことを願っておられます。そのためにも一つ目の、主イエスのそばに謙ってひざまずいて、聖霊に導きに従う必要があります。
三つ目は、悪霊を追い出す権能を持たせるためです。実際、この後に十二人の使徒は遣わされて、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒しました(6:13)。」 ただその前に(6:12)、「十二人は出て行って、悔い改めを宣べ伝えた。」とありますので、福音宣教が中心で、悪霊の追い出しは、あくまでも神の国の力の証明のためです。
主イエスは宣教に遣わす者に必要な権能はお与えになられます。ただ必要な権能は時代や地域によって、また遣わされる人によって異なることもあります。
5、十二人の任命
続いて任命された十二人の名前のリストです。並行記事のマタイとルカによる福音書と使徒言行録1:13にもリストがありますが、若干、順番や名前が異なります。この当時は名前を複数持つことも影響をしているようです。
福音書の初めの方に召命の記事のあるシモンと、ヤコブとヨハネの兄弟の3人は十二使徒の3役のような感じです。9章の変貌山と14章のゲッセマネの園にはこの3人だけが同行を許されています。主イエスはシモンにはペトロ(岩)、ヤコブとヨハネの二人にはボアネルゲス(雷の子ら)という名を付けられます。
岩は、「主はわが岩、わが城、私を救う方」(詩編18:3)とありますように、主を象徴する名ですので、主イエスの期待の大きさが分かります。「雷の子ら」も主イエスが名付けられるのですから、否定的な意味ではないと思われます。雷のような力強さの意味でしょうか。
主イエスが私たち一人一人に名を付けるとしたらどのような名になるでしょうか。カトリック教会や聖公会では洗礼を受けるときに、洗礼名を付けます。洗礼を受けて新しい命に生きるときに、聖書の登場人物に倣って生きるために洗礼名を付けるのは、この3人に倣うことでしょうか。良いような気もします。
他にも9人の使徒たちがいますが、背景も性格も様々のようです。ある神学者は、主イエスがこのときに30歳位であったことから、使徒たちの多くは主イエスよりも若い20代ではないかと言っています。ヨハネは紀元95年頃に黙示録を書いたと言われていますので、確かに20代位と思われます。
その中には主イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダもいます。主イエスは勿論、そのことをご存じです。どのような御思いであったのだろうかと思います。それを考えますと、難しい人間関係や、将来的に余り良い見通しの持てない人と関わらざるを得ないことも、主が許される範囲で関わることが御心であるのかと考えさせられます。但し無理をする必要はありません。
ユダは十二使徒に選ばれながら主イエスを裏切ることになるのは残念なことです。ユダ自身も主イエスを裏切ったことを後で後悔します。他の使徒や弟子たちにも大きなショックだったことでしょう。そのようなことが起こらないためにも、私たち一人一人が自分を主イエスのそばに置いて、聖霊に満たされて主イエスによって宣教に遣わしていただき、与えられる権能を果たさせていただきましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは十二人の使徒を任命し、ご自分のそばに置き、宣教に遣わし、悪霊を追い出す権能を持たされました。そして同じことを現代のクリスチャンに対しても行われます。主イエスに任命される一人一人が聖霊に満たされ、与えられる権能を正しく果たすことが出来ますようにお導きし、お用いください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。