「神の御心を行う家族」
2025年2月9日礼拝式説教
マルコによる福音書3章31~35節
主の御名を賛美します。
1、身内の人たち
今日の個所は話としましては21節の続きになります。主イエスの母ときょうだいたちの身内の人たちは、主イエスが「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」(2:10)、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)、「人の子は安息日の主でもある」(2:28)と言っていること等を聞きました。そして「気が変になっている」と思って取り押さえに来ました。
細かいことですが、この個所では平仮名の「きょうだい」と漢字の「兄弟」が使われています。31、33、34節は平仮名の「きょうだい」で、32、35節は漢字の「兄弟」です。原語のギリシャ語では同じ言葉ですが、聖書協会共同訳では、女性を含む意味の場合には平仮名で「きょうだい」と訳し、女性を含まない男性だけの場合には漢字の「兄弟」と分けています。
主イエスの母と兄弟姉妹ですが、母はマリアです。兄弟姉妹については6:3で、兄弟はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、そして姉妹たちもいます。主イエスが宣教を始められたのは、およそ30歳の時で(ルカ3:23)、マリアは12歳位で結婚したと考えられていますので、このときのマリアは40代前半です。このときに父ヨセフはおらず、既に亡くなっていると思われることから、ヨセフとマリアは歳の差婚だったのではと考えられています。
主イエスの身内の人たちが来て外に立ち、人をやって主イエスを呼ばせた直接の理由は、2:2にありましたように、大勢の人が集まって、戸口の辺りまで全く隙間もなく、入れなかったためです。しかし、身内の人たちが家の外に立っているのは、その人たちの立ち位置を象徴しているように感じます。家の外に立つ、家の外の者です。
一方で群衆は家の中で主イエスの周りに座って話を聞く、家の中の者です。人々は、身内の人たちが家の外であなたを捜しておられますと主イエスに知らせます。身内の人たちは家の外の世界に立って主イエスを捜している者です。自分たち家族が良く知っている以前の主イエスを捜す姿です。
これは身内の人たちが主イエスを捜すときだけのことではありません。クリスチャン・ホームであれば教会に行くことは勧められますし、信仰を持てば喜ばれることでしょう。しかしクリスチャンが家族に一人もいないところから教会に通い始めますと、このときに身内の人たちが主イエスに抱いていたのと同じような思いを持つことがあります。
自分たち家族が良く知っている以前のあの子はどこに行ってしまったのだろうか。今は気が変になっているのではないかと。私が教会に通い始めたときもそうでした。私は英国にいるときに教会に通い始めて、日本に帰国してからも通っていました。
そのことについて父は私には何も一言も言いませんでしたが、叔父さんには、「信行は英国から帰って来たと思ったら、今度は教会に通い、一体何を考えているのか分からない」と溢していたそうです。
妹は私の生き方に対してこれまでも何も言ったことはありませんが、唯一の例外が教会についてでした。
30数年前の当時は、統一教会の合同結婚式が話題になって、テレビでも報道していました。キリスト教のことを良く知らない人は、キリスト教=統一教会のように思っていたようです。妹は何とかしなければいけないと思ったのか、「教会に行くのは止めた方がいいんじゃない」と私に言いました。
私は自分が行っている教会は統一教会とは全く違うところであることを説明しましたが、どの位、理解して貰えたのかは分かりませんでした。母だけは米軍基地に勤めていて、基地内の教会で仕事をしたりしていましたので何も反対はしませんでした。
また私がサラリーマンを辞めて、東京聖書学院に行くことになったときにも、「気が変になっている」とまでは言いませんが、3人の子どももいながら何てことをするのかと心配してくださる方は多くいました。神の御心に従うときに、周りの人から理解をえるのが難しいときはあります。
2、神の家族
お母様と兄弟姉妹が外で捜していることを知らされた主イエスは、「私の母、私のきょうだいとは誰か」と答えられます。この箇所も中心構造で、中心のテーマは33節です。そして周りに座っている人々を見回されました。恐らく一人一人の顔を見回されたのではないでしょうか。
そして、「見なさい。ここに私の母、私のきょうだいがいる。」と言われました。これは32節の「」の内容と対称になっています。これは価値観の大きな転換の言葉です。ユダヤ人の社会は、血筋である家系、家、家族等の繋がりがとても強く、大切にします。しかしここに新しい家族が生まれます。
それは天の父であるお独りの神がおられ、皆はその神の子である神の家族です。主イエスは、私の母、きょうだいとは言われますが、ここにヨセフがいないためもあってか、主イエスが「私の父」とは言われません。主イエスにとって父だけは、天の父だけだからです。
この言葉は血縁の家族を捨てて主イエスに従った弟子たちにとっても大きな慰めです。1:18でシモンとアンデレ、1:20でヤコブとヨハネは家族を捨てて主イエスに従いました。他の弟子たちも同じことでしょう。これは10:29、30で約束されていることです。
そしてこれは家族を捨てて主イエスに従った弟子たちだけのことではありません。初めから様々な事情で家族がおらず独りの人もいます。また家族がいても子どもは大きくなれば離れて暮らすことが多くあります。結婚をしても、同時に天に召されることはありませんので、どちらかが独りの期間を過ごすことになります。
しかし神の家族は世界中に沢山います。決して独りぼっちになることはありません。これは本当に大きな慰めです。神の家族の大切さを覚えます。ただ主イエスは神の家族を大切にされるからといって、血縁の家族をないがしろにされる訳ではありません。25節でも家族の和の大切さを語られました。
ここでは神の家族が初めて紹介する場面ですので、神の家族を強調されますが、肉親の家族に対するケアも大切にされます。主イエスは十字架に付けられたときに、母マリアに対して、ヨハネと思われる弟子を、「あなたの子です」と言われ、ヨハネには、マリアを「あなたの母です」と言われ、ヨハネはマリアを自分の家に引き取りました(ヨハネ19:26、27)。
弟のヤコブに対してはどのような導きをされたのかは分かりませんが、ヤコブは後にエルサレム教会の指導者になりました。家族へのケアはご自分の血縁の家族に対してだけではありません。家族を置いて主イエスに従ったシモン・ペトロに対して、ペトロの家をカファルナウムの家として度々、帰り、しゅうとが熱を出せば癒され(1:31)、ペトロの奥さんも信仰を持ちペトロと行動を共にするようにされます(Ⅰコリント9:5)。
3、神の御心を行う家族
そして、「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われます。これは神の家族とは何かを語られる言葉ですが、少し気になります。「神の御心を行う人」ではなく、「私を信じる人」と言ってくださるのなら、主イエスを信じていますので安心出来る気がします。
しかし、「神の御心を行う人」と言われますと、神の御心を行いたいと思ってはいますが、本当に神の御心を行っているかと問われますと、自信が無くなってしまいます。「神の御心を行う人」とはどのような人のことをいうのでしょうか。
主イエスはマタイ5~7章で山上の説教を語られました。その内容は明らかに神の御心です。その神の御心を行いたいとは思いますが、その全てを行うことが神の家族になる条件であるとしたら誰も神の家族にはなれなくなってしまいます。そもそも神の家族は行いによってなるものではありません。
この聖書箇所で、この時点で神の家族とそうでない人はどのように分かれているでしょうか。神の家族でない人は家の外に立っている人です。それに対して神の家族は、家の中で主イエスの周りに座って主イエスの御声を聴いている人です。神の御心を行うとは、一つ目のこととして、主イエスの周りに座って御声を聴くことです。
勿論、ただ座ってずっと聴いていれば良いという訳ではありません。ただ初めは御声を聴いて、自分に与えられる役割が分かるまでは、自分の考えで無闇に動きません。これはルカ10:38~42にありますマルタとマリアの話のようです。
マリアはまず主の足元に座って主の話を聴きました。しかしマリアはここぞという時には、神の御心に適うと確信して、高価なナルドの香油を主イエスの足に塗るという大胆なことを行いました(ヨハネ12:3)。
このときに、主イエスから私の兄弟、姉妹、母と呼ばれた人たちは神の御心を行い続けられたのでしょうか。大雑把には主イエスに従い続けたと言えるかも知れません。しかし失敗が無かった訳ではありません。弟子たちの中で誰が偉いかと何度も言い争っています。
大きなこととしては、主イエスが十字架に付けられることになると、皆、自分の命の危険を感じて、主イエスとは関係ないと言って逃げてしまいました。しかしそれによって神の家族では無くなってしまうのでしょうか。そうではありません。そのような罪のためにも主イエスは十字架に付かれます。
散らされた羊の群れを集めるように、主イエスの方から近付いてまた神の家族に戻してくださいます。神の家族といえども、普通の家族のように、時には揉め事のようなこともあるかも知れません。しかしそこが終点ではありません。神の家族の集まりである教会は、25節のような内輪もめで争い、滅びには至ることはありません。
なぜなら教会の頭が主イエス・キリストであり、体である私たちの救い主であるからです(エフェソ5:23)。神の御心に適う人は過ちを犯しても、聖霊によって悔い改めへと導かれ、赦し合い、和解へと導かれます。神の御心を行うとは、二つ目のこととして、過ちを犯したことに気付いた時に悔い改めることです。そして一つ目の、主イエスの周りに座って御声を聴くことに戻ることです。
ペトロとユダは同じ12使徒です。二人が犯した過ちには多少の程度の違いはあるかも知れません。ペトロは自分の命惜しさに、主イエスを知らないと言って裏切りました。ユダは主イエスを祭司長たちに売り渡して裏切りました。しかし主イエスを裏切ったことに変わりはありません。
しかしペトロは自分の過ちを悔い改めて、神の家族に戻りました。ユダは自分の過ちに後で気付き後悔しますが主イエスの元に戻ることをしませんでした。とても残念です。主イエスに心から悔い改めるなら赦されない罪はありません。そのために主イエスは十字架に付いてくださったのです。
神は神の家族となる者をあらゆる手段を用いて守られます。例え神の家族の中から迷い出てしまうようなことがあったとしても、聖霊が導いて戻してくださいます。聖霊の導きに従って、どんなときにも主イエスの周りに座って御声を聴かせていただきましょう。それが神の御心を行う家族です。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、神の御心を行う人は私の家族であると言ってくださいます。そのためには、ただ主イエスの周りに座って御声を聴きなさいと言われます。それは私たちの幸せのためです。
私たちはときに過ちを犯してしまう弱い存在ですが、いつも聖霊の導きに従って悔い改め、神の家族として共に幸いな歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。