「主の御業を知らせる」
2025年3月30日 礼拝式説教
マルコによる福音書5章1~20節
主の御名を賛美します。
1、汚れた霊に取りつかれた人
一行はカファルナウムから激しい突風の吹き荒れるガリラヤ湖を渡って、やっとの思いでゲラサ人の異邦人の地方に着きました。主イエスが舟から上がられるとすぐに、今度は汚れた霊に取りつかれた人が墓場から出て来て、主イエスに会いました。この人は4、5節では彼と言われますので男です。
この人について3~5節が説明します。この人は墓場を住みかとしていますが、ここで日本の墓場を思い浮かべますと、多くは竪穴式ですので、墓石の蓋を持ち上げて出入りすることをイメージするかも知れません。しかしイスラエルの墓は横穴式で防空壕のような感じですので雨露をしのぐためには都合が良い作りです。
前にもお話しましたが、この地域では長柄町等に横穴式のお墓がありますので見るとイメージが掴めます。ただ長柄町等のお墓は土を掘った物ですが、イスラエルの墓は岩を掘った物である違いはあります。
墓場は亡くなった家族等を葬る大切な場所ですが、遺体を葬る場所であるために、汚れた場所とも考えられました。そこで、人が知らずに触れてしまうのを避けるために、墓は見分けがつくように白く塗るようになっています(マタイ23:27)。そして墓場は汚れた霊の住みかと考えられました。
彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていました。そのようなことをしないように、度々足枷や鎖でつながれましたが、汚れた霊の強い力によって、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も押さえつけることはできませんでした。3、4節で同じ内容を繰り返し強調します。
この人は汚れた霊の力によってこのようなことをしていますが、決して本人が心から望む生き方ではないはずです。しかし人間の力では誰も何も出来ない絶望的な状況です。この状況は4:37で、ガリラヤ湖を舟で漕いでいて、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、水浸しになりましたが、人間の力では何も出来ない絶望的な状況と良く似ています。
2、レギオン
この人は主イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏しました。取りついている汚れた霊が主イエスの正体を見抜いたからです。順番的には次に主イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と命じられました。すると汚れた霊は、「いと高き神の子イエス、構わないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫びました。汚れた霊は自分は主イエスには敵わないことを知っています。
主イエスは、「名は何と言うのか」とお尋ねになりました。これは考える必要のある質問です。旧約聖書で神が誰かに質問をされたり、福音書で主イエスが質問をされることがあります。しかし神は全知全能のお方ですので質問をするまでもなく答えをご存じです。神が何かを質問をされるときには、答えを知るのが目的ではなく、何かの目的があり、その目的は何であるのかを知る必要があります。
時代劇等で良く怪しい人物が登場すると、「名を名乗れ」と言います。映画の「男はつらいよ フーテンの寅」シリーズでもよく寅さんは、「お控えなすって」と言ってから自己紹介を始めます。名を名乗ることは自分の人格を相手に知らせるために大切なことです。
この当時は汚れた霊の名を知ることは、その霊を支配する力を得ることと考えられていました。しかし主イエスが汚れた霊の名を本当に知らずに尋ねられたのであれば、汚れた霊も自分の弱点をわざわざ知らせるはずがありません。
ここで汚れた霊の名を知らないのは、直接的には汚れた霊に取りつかれた人と主イエスの弟子たちです。間接的にはこの記事を後から聞いたり、聖書で読む人たちです。主イエスがその人たちに汚れた霊の名を知らせることには二つの目的が考えられます。
一つ目は、この本人も弟子たちも、また私たちもこの人がなぜ3~5節の状態になっていたのか、その理由が分かります。二つ目は、その汚れた霊を追い出される主イエスの力を知ることになります。この二つが名を尋ねられた目的と考えられます。
汚れた霊は、いと高き神の子イエスに敵わないのは知っていますので正直に、「名はレギオン。我々は大勢だから」と答えました。レギオンは古代ローマの一軍団で、4,200人もしくは6,000人の兵士からなります。それだけの多くの汚れた霊が取りついていたので、滅茶苦茶なことをし、強い力を発揮していたようです。
汚れた霊は、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、しきりに願いました。この当時、悪霊は特定の地方と結び付いていて、悪霊には縄張りのようなものがあると考えられていたようです。
3、二千匹の豚
その辺りの山に豚の大群が飼ってありました。豚はユダヤ人にとっては汚れた動物ですので、異教の地であることがはっきりとします。汚れた霊どもは、主イエスに出て行けと命じられているので、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。数も多いので丁度良いと思ったのでしょう。
主イエスがその願いをお許しになり、汚れた霊どもが豚の中に入ると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死にました。レギオンが4千から6千の汚れた霊とすると、豚一匹当たりに2つから3つの汚れた霊が取りついて混乱を起こし、汚れた霊は最終的に死を引き起こします。豚飼いたちは恐ろしくなったのか、逃げ出し、町や村にこのことを知らせると、人々は何が起こったのかと見に来ました。そして、主イエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着ていました。並行記事のルカ8:27には、「この男は長い間、衣服を身に着けずにいた」とあります。
そして正気になって座っているのを見て、恐ろしくなりました。人は自分たちの理解を超える不思議なことに直面すると恐れを感じるものです。成り行きを見ていた人たちが、悪霊に取りつかれた人に起こったことや豚のことを人々に語って聞かせたところ、人々は主イエスにその地方から出て行ってもらいたいと願い始めました。
主イエスが出て行くことを願った理由は二つ考えられます。一つ目は豚二千匹の死による経済的な損失です。私たちの住むこの地域で、豚肉は百円/百グラム位ですので、豚一匹を30キロで計算すると一匹は3万円位の価値になります。2千匹ですと6千万円になりますので大きな損失です。
人々にとっては、一人の人が正気に戻ることよりも、豚の死による損失の方が大きかったのかも知れません。しかし主イエスは1節でゲラサ人の地方に着いて、21節で再びカファルナウムに渡られています。それは、この一人の人の救いのためだけに、激しい突風の吹くガリラヤ湖を渡って来られたということです。主イエスは神のかたちに造られた一人の救いを大切にされるお方です。
二つ目の理由は、恐れです。人々は、二千匹の豚が突然、湖になだれ込んで死んだり、汚れた霊に取りつかれた人が突然正気に戻る等、自分たちの理解を超える不思議な出来事を恐れました。また何か恐ろしいことが起きるのではないかという恐れが原因と思われます。どちらかといいますと、二つ目の理由の方が大きいのでしょうか。
4、主の御業を知らせる
主イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊に取りつかれていた人が、お供をしたいと願いました。この人の気持ちは分かる気がします。自分を絶望の世界から救ってくださった方のお供をしたい思いがあったことでしょう。またこの人にとってこの地には良い思い出も無く、新しい地に行って心機一転したかったのかも知れません。
しかし主イエスはそれを許されませんでした。主イエスのお供をする者は本人の志願によるのではなく、主イエスが選び召されるようです。しかし主イエスにはこの人への計画があり言われました。初めに、「自分の家族にもとに帰りなさい」です。ここは新改訳の、「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。」の方が原文に近い訳です。
家、家族と2回言って強調します。この人は家、家族とこれまで家族らしい良い関りを持てなかったと思います。その家族のもとに帰りなさいと命じられます。主イエスは家族を大切にされるお方です。そして家族に、「主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」と命じられます。
マルコによる福音書で主イエスがユダヤ人の病を癒やされるときには、そのことを誰にも話さないように命じられます(1:44、5:43、7:36等)。それは奇跡の話だけが独り歩きをすると反って混乱を起こしてしまうからです。しかしこの人には例外的に積極的に知らせることを命じられます。
それは異教の地であり、混乱の起きる可能性は低く、福音を宣べ伝えるために必要であったからと思われます。そこで、彼は立ち去り、主イエスが自分にしてくださったことを、ことごとくデカポリス地方に言い広め始めました。デカポリスはギリシャ語で、「デカ」は「10」、「ポリス」は「町」で、10の町の意味で、10のギリシャの自由都市の連盟を指します(地図9:4D)。
この人は12使徒よりも先に宣教師として主イエスに任命されて遣わされました。そして人々は皆驚きました。それは悪霊に取りつかれていた人が正気になり、主イエスに任命されて遣わされ者として力強く福音を語り、宣教の実を結んだことを意味していると思われます。
この話は私たちに何を語るのでしょうか。今、私たちの中には汚れた霊に取りつかれた人はいないと思います。しかし聖書はすべての人に向けて語られるものです。すべての人は汚れた霊のような罪のために、汚れた霊に取りつかれた人のように、自分の思い通りの人生が歩めず、他の人が止めようとすることを払いのけ、時に叫び続けたり、自分を傷つけてしまうことがあるものです。
それは4:27の激しい突風や波が起こるようなものです。そのようなときに主イエスは嵐のガリラヤ湖を渡られるように、一人の人の救いのために会いに来てくださり、救ってくださいます。主イエスは私たち一人の救いのためには豚二千匹を犠牲にされるお方です。
それにとどまらずご自身の命を十字架で献げてくださいました。主イエスが私たちを深く憐れんでくださったこと、そのためにしてくださった十字架の恵みを、聖霊の導きの中で感謝して受け入れさせていただきましょう。そしてその恵みに与る者は、自分の家族のもとに帰って良い関係を築き、主の恵みをことごとく知らせる者とさせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。汚れた霊に取りつかれた人は、どれ程の大きな絶望の中にいたことでしょうか。私たちも種類は違っても様々な問題を抱えて生きているものです。そのような一人を救うために主イエスはあらゆる手段を尽くしてくださいますから有難うございます。私たちの救いのための主イエスの十字架を感謝して受け入れ、宣べ伝える者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。