「信仰による救い」 

2025年4月6日 礼拝式説教
マルコによる福音書5章21~34節 
        
主の御名を賛美します。

1、出血の止まらない女
主イエスはゲラサ人の地方から、舟で再び向こう岸に渡られました。この向こう岸は恐らくカファルナウムと思われます。カファルナウムでは家と呼ばれるシモン・ペトロの家を拠点に、主イエスは大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出し、4章で神の国の譬えを教えられましたので評判となって、大勢の群衆が集まって来ました。

主イエスは湖のほとりにおられましたが、何のためにおられたのでしょうか。全知全能の主イエスはこれから起こることをすべてご存じで、目的を持ってそこにおられました。すると、会堂長のヤイロと言う人が来て、自分の娘の癒しをしきりに願いました。

そこで主イエスがヤイロと一緒に出かけられると、大勢の群衆も、主イエスに押し迫りながら付いて行きました。ヤイロの話はこの後の35節に続きますが、その間に、出血の止まらない女の話が入ります。並行記事のマタイとルカの福音書でも同じ話の内容になっていますので、そのような話の流れであったようです。

25、26節はこの女の背景を説明します。この女は12年間も出血が止まりませんでした。出血については詳しくは分かりませんが、女性に特有の出血のようです。12年間と言うユダヤの完全数である12と言う数字が象徴していることは完全なる長期間の出血です。

それだけの期間の出血が続くと、体力的にも精神的にも相当に弱ることでしょう。またこの当時の医療は知識も技術も未発達です。ここの医者というのも祈禱師のような存在と考えられています。多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしましたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。

この女は自分で考えられる手はすべて尽くしましたが、自分の力ではどうしようもない絶望的な状態です。どのような気持ちで毎日を過ごしていたことでしょうか。この当時よりも遙かに医療の発達して来ている現代でさえ、いくつかの病院に行っても、病気の原因も良く分からず、良くならないということはあり、とても辛いものです。

これは先週の汚れた霊に取りつかれた男、その前のガリラヤ湖で突風に見舞われた弟子たちと同じような状況です。そのような女が主イエスのことを聞きました。主イエスは、規定の病を患っている人を清め(1:42)、体の麻痺した人を癒やし(2:12)、手の萎えた人を癒やし(3:5)、その他にも多くの病人を癒されました。

そのことを耳にした女は、「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思いました。そして群衆の中に紛れ込み、後ろから主イエスの衣に触れました。この女はなぜ、ヤイロのようにきちんと主イエスの前に行って、「私を癒やしてください」と申し出なかったのでしょうか。

それはレビ記15章の規定で、出血中の女性は祭儀的に汚れているとされますので、正面切って主イエスに癒しを申し出るようなことはできないと思っていたと考えられます。そこで考えた苦肉の策が、群衆の中に紛れ込み、自分のしていることが誰にも分からないように、後ろから主イエスの衣に触れることでした。

すると、すぐに出血が止まり、病苦から解放されたことをその身に感じました。女は大きな喜びと共に驚きも感じたことでしょう。ここまでは女の計画の通りです。余談ですが、トランプ大統領は相互関税を導入した4月2日を「解放の日(liberation day)」と言っています。

これは聖書を意識した発言です。聖書で解放は、罪の囚われからの解放である救いを意味します。
トランプ大統領はキリスト教文化のあるアメリカで、自分はアメリカに解放、救いをもたらした救い主であると主張しているようです。

2、衣に触れたのは誰か
しかし、ここで女の予期していなかったことが起こります。主イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気付かれて、群衆の中で振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と言われました。これは前回の9節で、汚れた霊に「名は何と言うのか」と尋ねられたのと同じで、全知全能の主イエスは触れた人をご存じです。しかし今回もある目的を持ってそのように問われたようです。

しかし弟子たちはそのような事情を知りません。24節にありましたように、大勢の群衆も、主イエスに押し迫りながら付いて行っています。そこで弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『私の衣に触れたのは誰か』とおっしゃるのですか。」と言います。

実際、群衆が押し迫っていたので主イエスの衣に物理的に触れたのはこの女だけではなく外にもいたはずです。しかし、主イエスは触れた女を見つけようと、辺りを見回されました。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなりました。出血が止まり、病苦から解放されたことは嬉しいことですが、それは主イエスの力を隠れて盗んでしまったように感じたからでしょう。

女は震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。主イエスは神ですので女が話す前からすべてをご存じです。今回はなぜ、「私の衣に触れたのは誰か」と問われたのでしょうか。それはこの女、弟子たち、群衆、そして後代の人たちに対して4つのことを説明するためと思われます。

一つ目は、女は自分が汚れた者であり、隠れて主イエスの癒しの力を盗んでしまったような後ろめたさを覚えているようですので、その思いを拭い去るためです。二つ目は、一つ目と関わることですが、女に自分の思いと行ったことを自分の口できちんと告白させるためです。

三つ目は、主イエスはただ癒されるだけではなく、癒される人と人格的な交わりを持つことを望まれるからです。神はいつでも人との交わりをお望みです。四つ目は、女が癒された理由をすべての人に正しく理解させるためです。今のままでは、女が癒されたのは主イエスの衣に触れたからと誤解を招く可能性があります。

女が癒されたのは主イエスの衣に触れたからではないのでしょうか。先程もお話しましたが、大勢の群衆がいますので、主イエスの衣に触れたのはこの女だけではなく他にもいたはずです。主イエスの衣に触れたその他の人たちには何か特別なことが起こったのでしょうか。そうではないようです。

主イエスの内から力が出て行ったのはこの女だけです。大勢の群衆が押し迫って、ごった返す中で、他の人も偶然ではあっても主イエスの衣に触れたはずです。それではなぜその人たちには主イエスの力は出て行かず、この女だけには力が出て行ったのでしょうか。

3、信仰による救い
主イエスは女に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。初めに、「娘よ」と呼びかけられたのは、あなたは出血の止まらない祭儀的に汚れた者ではなく、神の娘、神の子であるという有難い宣言です。

次に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われます。この御言を聞きますと一般的に言われる、「信じる者は救われる」という言葉が思い浮かびます。「信じる者は救われる」というのは、「信じる」ということをする人に主体性があって、その人の信じるという行為によって救われると思われます。

この個所でも、「あなたの信仰があなたを救った。」と聞くと、何となく、この女の立派な信仰によって救われたように感じてしまいます。そうしますと自分なんかは全然だめだという思いになってしまいそうです。この女は立派な信仰によって救われたのでしょうか。

この女が、「せめて、この方の衣にでも触れれば治していただける」と思った思いは素晴らしいと思います。しかしそれは12年間も出血が止まらず、多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たし、他の手段も無く、藁をも掴む思いで最後の懸けのようなものだったのかも知れません。

この女をディスるつもりはありません。しかし群衆の中に紛れ込み、どさくさに紛れて後ろから主イエスの衣に触れたのは、理由があったとはいえ余り立派な行為とは言えません。ここで主イエスの言われる、「あなたの信仰があなたを救った。」というのはどのような意味なのでしょうか。

「信仰」という言葉はギリシャ語で「ピスティス」と書かれています。「ピスティス」は神が主語ですと、神の「真実」と訳されて、人が主語ですと「信仰」と訳されます。「ピスティス」の始まりは人が何かを信じることではなく、神の「真実」です。主イエスは21節で向こう岸に渡って来られますが、6:1ではそこを去っています。

それは、ヤイロとこの女に会うためだけに、ここに来られました。主イエスはこの女を憐れみ、会って救いたかったので湖のほとりにおられました。救いは、まず神が人を救おうとされる真実があり、それに聖霊に導かれて応答する人の信仰によって起こります。

それは神の真実と人の信仰が半々の50%づつで成り立つものではありません。神が人を救おうとされる真実がすべてであり、その神の真実に聖霊に導かれた人が応答することによって救われます。この女の信仰は、この女を救うために来られた主イエスに、聖霊に導かれて藁をも掴む思いで手を伸ばしたことです。

主イエスは私たち人間にはそれ程、立派な信仰がある訳ではないことをご存じです。この女は主イエスの衣に触れたから癒されたのではありません。ただ必死の思いで主イエスを求めて手を伸ばしたからです。厳密に言えば、例え手が衣に届かなかったとしても癒されたことでしょう。

衣自体に何か特別な力がある訳ではありません。主イエスは主イエスに向かって手を伸ばす者を救ってくださいます。癒やすだけではなく救ってくださいます。そしてそれを信仰と呼んで尊重してくださいます。主イエスは私たちの救いのために十字架に付かれるという神の真実を尽くしてくださいました。私たち人間がすることは、感謝してただ手を伸ばしてその恵みを受け取るだけです。

そして、「安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」と送り出してくださいます。
「達者でナ」というと、三橋美智也の曲を思い出しますが良い言葉だと思います。誰でも、安心して、病苦から解放されて、達者でいたいものです。主イエスも私たちがそのようにあることをお望みです。

そのために十字架に付かれて、私に手を伸ばしなさいと招かれます。主イエスは私たちに何も難しいことは求めておられません。聖霊の導きの中で、ただ手を伸ばして恵みを受け取らせていただきましょう。そして今年度も達者でいさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たち人間は弱く、思いはあってもそれ程、立派な信仰を持っている訳ではありません。主イエスはそのような私たちのすべをご存じで、すべてを背負われて十字架に付いてくださいました。

そして聖霊の力によってただ手を伸ばし、この恵みを受け取りなさいと招かれます。どうぞ全ての人がこの恵みに与れますようにお導きください。そして安心して、病苦から解放されて、達者でいさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。