「主イエスにつまずく」

2025年4月13日 礼拝式説教 
マルコによる福音書6章1~6節
        
主の御名を賛美します。

1、会堂で教える
主イエスは5:21で向こう岸である恐らくカファルナウムに渡られました。そして今日の個所で、そこを去って、故郷のナザレにお帰りになりました。3:21で家族が主イエスの噂を聞いて心配して取り押さえに来ましたが、話をする時間も無かったようですので、それもあって尋ねられたのでしょうか。

弟子たちも従いました。今日の話を見ますと、特に弟子たちは何かをしたという訳ではないようです。しかし弟子はいつでも師に従って行って色々と学ぶものです。この後の7節で12使徒は遣わされることになりますので、師である主イエスが故郷に帰られるとどのような状況になるのか、実際に見て学ぶ良い機会になったことでしょう。

安息日になったので、主イエスは会堂で教え始められました。この当時の会堂の説教者は会堂長が手配をしていました。ある教師がその地方を訪れると説教を依頼したりしました。

私が修養生の時に、休みの時には他の教団を含めて色々な教会の礼拝に出席させていただきました。東京聖書学院で、教会を訪問するときには、きちんと自分の身分を明かしなさいと指導されていました。そこで受付で神学生ですと言うと、牧師が出て来て突然に礼拝の中で証しをしてくださいと依頼されることが何度かありました。

何かこの聖書箇所のような初代教会的な礼拝式であると思いました。それは貴重な経験で感謝なことでしたが、最近は夏季休暇で他の教会の礼拝式に出席するときには、茂原キリスト教会員ですとだけ伝えています。それは事実ですし、相手に余り気を遣わせてはいけないとの思いもあります。

2、主イエスにつまずく
多くの聴衆は主イエスの説教を聞いて、驚いて言いました。この後に、「この人」という言い方を3回するのは印象的ですが、驚きが込められているのでしょうが、余り良い呼び名ではありません。1回目は、「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。」という問いです。2回目はより具体的に、「この人の授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か。」という問いです。

知恵というのはより具体的にどのような内容でしょうか。話の流れから考えますと4章の神の国のたとえ等と思われます。奇跡は5節の、病人に手を置いて癒されたことと思われます。授かった知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろうかという問いには、どのような答えが考えられるでしょうか。

考えられる答えは、「天からのものか、人からのものか」(11:30)、「悪霊の頭の力」(3:22)の3択位になります。果たしてどれなのでしょうか。3回目の「この人」は、「この人は、大工ではないか。」です。主イエスはおよそ30歳の時に宣教を始められましたが(ルカ3:23)、それまではナザレで普通に大工として暮らしておられました。

この当時のナザレは、現在の長生郡の町より遥かに小さいと思います。私の家族が25年前に睦沢町に引っ越した当時に、家族連れで初めて行く睦沢の店等では、「見かけない顔だけど、どこに住んでいるの」と聞かれました。睦沢町では、こども園、小学校、中学校は一つしかありませんので、長く住んでいると顔見知りが増えて行きます。

この当時のナザレでは家族のこともお互いに事細かく知っていたようです。「マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」と言います。この言葉からお父さんのヨセフはこのときには既に亡くなっていたようです。ただお父さんのヨセフがたとえ亡くなっていたとしても普通は、父親の名前を使って、「ヨセフの息子」と呼ぶそうです。

ここで、「マリアの息子」と呼ぶのは、マリアの息子であるのは確かだけど父親は誰であるのか不確かという意味ではないかとも言われます。次男のヤコブはヤコブの手紙の著者で、ユダはユダの手紙の著者と言われていますので、弟たちは後では信仰を持つようになります。そして姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないかと言います。

3節の文章は何を意味しているのでしょうか。主イエスはベツレヘムでお生まれになられて、暫くエジプトに避難された後に両親と共にナザレに来られました。ナザレの人々は、それからのことは知っています。そしてお父さんのヨセフと同じ大工になられて、律法の学校に行って学ぶことはしていないことも知っています。

しかし知恵があり、奇跡の癒しを行われます。そうしますと先程の3択から考えますと、学びはしていないけれど奇跡を行うので、2番目の「人からのもの」の選択肢が消えます。またずっと大工をしていた普通の近所の青年と人々は思っていますので、1番目の「天からのもの」という選択肢も消えます。

そうしますと残るのは消去法で、3番目の「悪霊の頭の力」だけになります。律法学者たちと同じ結論になります。それは、3:21で家族が、「気が変になっている」と思ったのと似たり寄ったりです。こうして、人々は主イエスにつまずきました。ここの「つまずく」という言葉は、「スカンダロン」(罠の餌を付ける棒)に由来する言葉で、英語のスキャンダル(不祥事)の元になった言葉です。

人を不祥事等でつまずかせるのは良くないことです。主イエスは9:42で、「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよい。」とまで言われます。ではここで人々がつまずく原因となった主イエスはどうなのでしょうか。

ここで人々がつまずいたのは、主イエスに何か問題があったのではなく、人々が自分たちの勝手な思い込みでつまずいただけです。主イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである。」と言われます。それは確かに人間の感情として難しいのかも知れません。

あなたのおむつを替えてあげたことがあるというような人に、あなたは罪人であるので悔い改めなさいと言って伝道をするのは大変かも知れません。神である主イエスでさえ、自分の故郷や家族への伝道は難しいということです。私も初めての葬儀の司式は自分の父親の葬儀で、ノンクリスチャンの親戚たちの中でした。親戚たちは、あの信行が一体、何をやっているのだろうと思ったと思います。

しかし牧師の中には、自分の生まれ育った母教会に、使命を持って郷里伝道として遣わされるように導かれる牧師もいます。色々な苦労があると思います。私自身も自分の通っていた教会から献身して牧師になり、その教会に牧師として遣わされて戻って来た方と、役員として関わることがありました。

その牧師は多くの教会員より年齢は若く、信仰歴も短いこともあり多くの苦労をしていました。牧師も人間ですから足りない部分もあったとは思います。しかし私はその人が東京聖書学院に入る前と出た後を見て、神に召される人は、たった3年間でこれ程に変わるものであるのかと、とても驚かされました。
そのときにもし自分も東京聖書学院に行くことがあれば同じように変えていただけるのだろうかという思いを持ったことを覚えています。

この聖書箇所で人々が主イエスにつまずいたのは、つまずいた本人たちの問題です。しかし、このつまずきはナザレの人々だけの問題ではありません。今週は受難週です。主イエスを受け入れることが出来ずに、つまずいた人々は今週の金曜日に主イエスを十字架に付けました。

3、神の置かれるつまずきの石
「つまずき」という言葉から、ローマ9:32、33の御言を思い浮かべるかも知れません。シオンにつまずきの石を置かれたのは神です。神は人をつまずかせるのでしょうか。ここで注意することは、日本語では同じ「つまずき」と訳されていますが、ギリシャ語では2つのつまずきという言葉があります。

今日の聖書箇所のつまずきはスキャンダルの元になる言葉です。しかしローマ書の「つまずき」は「プロスコムマ」という「障害物」という意味の別の言葉です。「障害物」というのは駐車場の車止めのように、そのまま進んだら危険であることを知らせるためのものです。

イスラエルに行いによっては義に達することができないことに気付かせるためです。つまずかせて危険に気付かせる良い目的のためです。つまずきが神が置かれた「プロスコムマ」(障害物)の、つまずきであるなら、それは神がその人をそれ以上、危険な方向に進むのを止めて悔い改めに導くためのものです。

日本に住む普通の人が聖書の話を聞くと、多くの場合にはつまずきます。マリアが聖霊によって身ごもって主イエスが生まれるなんてことはあるはずがない。主イエスが全ての人の罪の身代わりとして十字架で死なれて三日目に復活するなんて有り得ないと思います。それは神が置かれた「プロスコムマ」(障害物)の、つまずきです。

人間が理性で考えることが絶対ではないということを謙って理解させるために、神は敢えて人間が理性では理解出来ないことをつまずきの石として私たちの前に置かれています。それ以外にも私たちが自分の考えで突っ走ってしまうと危険なときに、神は私たちの前につまずきの石を置かれます。

もし最近は何をしても、つまずくことが多くなっているなと感じることがある場合には、若しかしますとそれは神が私たちを一度止めて、良く考えるようにと置かれるつまずきであるかも知れません。この2種類のつまずきにはどのような関係があるのでしょうか。

初めは神の置かれる障害物のつまずきです。神は人が間違った方向に進むのを止めるために障害物のつまずきを置かれます。しかしその車止めのような障害物のつまずきを無視して、突っ走り続けて、車止めを乗り越えてしまうと、大きな事故のような不祥事に至ってしまいます。

暫くニュースの続いているテレビ局の組織的なスキャンダル(不祥事)があります。そこに至るまでには、それを止めるための小さなつまずき(障害物)が沢山あったはずです。小さなつまずきである内に、何か自分たちは間違っていることをしているのではないかと振り返り、悔い改めるチャンスはあったはずです。しかし小さなつまずき(障害物)を無視して進み続けてしまうと、あのような大きなスキャンダル(不祥事)に至ってしまいます。とても残念です。

4、信仰による奇跡
主イエスは故郷のナザレでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒されたほかは、何も奇跡を行うことがおできになりませんでした。主イエスは全能の神ですので、何も奇跡を行うことができなかったのは主イエスの能力の問題ではありません。それではなぜなのでしょうか。

先週の5:30がとても参考になります。出血の止まらない女が必死の思いで手を伸ばして主イエスの衣に触れると主イエスの力が出て行きました。主イエスの力を引き出すのは、信仰による求めです。信仰による求めが無いところでは、全能の主イエスもなすすべが無くなってしまいます。そのような人々の不信仰に驚かれました。

今日の聖書箇所では、手を置いて癒された僅かな病人と何も恵みを受けられない大多数の人がいます。その違いを生むものは何でしょうか。教会に通っていても色々なつまずきがあります。これは神の置かれる障害物のつまずきかも知れません。牧師につまずき、信徒同士でつまずき、また人生につまずくこともあります。

このつまずきは正しく乗り越えて行く必要があります。牧師も信徒も罪を赦された罪人ですから人だけを見ていたらつまずきます。また人生は決して自分の思い通りになるものではなく、つまずくことがあります。人生に起こって来る不条理は、理性では理解できず、受け入れることも難しいものです。

なぜ自分だけが、このような不条理な目に遭わなければならないのかという思いは、理性で解決できるものではありません。しかし今はたとえ理解出来なくても、聖霊に導きによって、ただ神を見上げて、手を伸ばして求める人は神の恵みを受け取ります。そして信仰的に成長をして行って、神の力が出て行って奇跡が起こります。

しかしいつまでも人だけを見続けて、人につまずいたまま立ち止まっていたり、自分の考えだけが正しいと思い込んでいると、主イエスも何も奇跡を行うことがおできにならなくなってしまいます。主イエスはすべての人の罪のために今週の金曜日に十字架に付かれました。

その意味を聖霊の導きの中で味わいつつ、神の置かれる障害物のつまずきに正しくつまずき、正しく乗り越えさせていただきましょう。そして他の人にも宣べ伝えさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ナザレの人々は主イエスにつまずきました。私たちも聖書の内容につまずき、人につまずき、自分の人生につまずくこともあります。しかしつまずきの中には、私たちが謙って悔い改めるために、神が置かれるつまずきの石があります。

主イエスは私たちの罪の赦しのために今週の金曜日に十字架に付いてくださいました。私たちがつまずきを覚えるときに、聖霊の導きによって私たち自身を探り、悔い改め、つまずきを正しく乗り越えさせてください。そして神の恵みを受け取り、神の奇跡が行われる環境を整えさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。