「さあ、起きなさい」
2025年4月20日 イースター礼拝式説教
マルコによる福音書5章21~24、35~43節
主の御名を賛美します。
1、ヤイロの娘の死
主イエスはゲラサ人の地方から、舟で再び向こう岸に渡られました。この向こう岸は恐らくカファルナウムと思われます。カファルナウムでは家と呼ばれるシモン・ペトロの家を拠点に、主イエスは大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出されましたので評判となって、大勢の群衆が集まって来ました。
そこに会堂長のヤイロと言う人が来て、自分の娘の癒しをしきりに願いました。この当時のユダヤ社会ではサドカイ派が一番上で、その下がファリサイ派です。サドカイ派は神殿で仕える祭司を含み、ファリサイ派は会堂で仕える律法学者を含みます。
会堂長のヤイロはファリサイ派であり、ファリサイ派は3:6で、ヘロデ党と組んで主イエスを殺す相談を始めています。ヤイロの元にも主イエスに関する情報は伝わって来ていることでしょう。しかし自分の可愛い娘が死にそうなときに、そのようなことに関わっている余裕はありません。
自分の子どもが少しでも助かる可能性があるのなら親はどんなことでもするものです。会堂長のプライド等に構わずに、主イエスの足元にひれ伏して願います。「どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と言います。
手は力の象徴であり、力は手を通して伝わって行くと考えられています。「そうすれば、生きるでしょう」という言葉は、ヤイロの信仰とも言えます。また、これまでに主イエスが多くの病人を癒されたことを聞いていますし、これまでにもう出来る限りの手は尽くして来ていて、後は主イエスに最後の望みを託すしかないという思いもあると思われます。
そこで主イエスがヤイロと一緒に出かけられると、大勢の群衆も、主イエスに押し迫りながら付いて行きました。この後に12年間、出血の止まらない女が入って来ます。ヤイロはどんな気持ちでその遣り取りを見ていたのでしょうか。もしも自分がヤイロの立場であったなら、主イエスに先にお願いをしたのは私なのだから、その女には構っていないで、早く来てくださいと思ってしまいそうです。
しかしその女が癒されたことで、ヤイロは自分の娘も癒してもらえると期待したかも知れません。そうこうしている内に、会堂長の家から人々が来て、「お嬢さんは亡くなりました。」と知らせました。ヤイロの言葉は23節だけで、その他は一言も書かれていません。しかし全身の力が抜けて行くような絶望的な感覚であったと思います。
ヤイロの名前は、「主は光を照らされる」という良い意味です。会堂長として神に仕えて来た自分がなぜこのような目に遭わなければならないのかという思いがあったのではないかと思います。先週にも少しお話をしましたが、神は私たちに最善をなしてくださると言われますが、私には正直なところ、良く分からない部分がありました。
2、神のなされる最善
多くの方がご存じだと思いますが、私たち夫婦の2番目の子は生後2か月半でこの世を去りました。このことはどうしても私にとっては最善には思えませんでした。
神のなされる最善ということを考えるときには良くローマ8:28の、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者のためには、万事が共に働いて益となるということを、私たちは知っています。」という御言葉が用いられます。
たとえどんなに悪いことが起きたとしても、そのことも働いて益となることは知っています。しかしその出発点となる悪い出来事自体が決して最善になる訳ではないように思えます。
先週の月曜日に一人で山を歩いていたときにふと、「神は最善をされた」という声のような思いが与えられた気がしました。私は反射的に、しかし子どもが亡くなったことは最善どころか最悪のことだと思いました。しかし同時に、もっと悪いことが起こり得たのではないかという思いが出て来ました。
亡くなった子どもは心臓の病気でした。それは神が与えたものではなく、何らかの人間の活動の影響だと思われます。原因は良く分かりませんが農薬や有害物質等の影響で、もしかするともっと悪いことが起こり得る状況だったのかも知れません。どうしても悪いことが起こらざるを得ないぎりぎりの状況の中で、神が最善をなしてくださったのではないかと思い至るようになりました。
このことが聖書が語っている神の御心であるのかどうかははっきりとは分かりません。しかし現時点の私にとっては、私たちに起こる最悪のことは、人間の問題や罪などによってどうしても悪いことが起こらざるを得ない状況の中で、神が最善をなしてくださっているように思えます。
しかしこれは私自身、自分の気持ちを整理するために考えることであって、苦しんでいる人に言うことではないように思います。あなたに起きた最悪のことは、それでも神の最善であると他に人に言われますと、私も何となくつまずいてしまうような気がします。
3、恐れることはない。ただ信じなさい。
会堂長の家から来た人々は、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言います。とても常識的な判断です。主イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と会堂長に言われました。ここでヤイロと言わずに会堂長と言っているのは印象的です。
ヤイロというのは特定の個人です。会堂長はこの当時の礼拝式を取り仕切り、平日は会堂で行われる学校活動を管理し、地域のコミュニティーセンターのような長です。信仰の篤さも求められることでしょう。しかしそのような信仰深い人でも娘の死を恐れ、信仰が揺らぎます。信仰を持っていても恐れてしまうすべての人に主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と命じられます。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけが付いて来ることを許されました。それは証人となる必要があったためと思われます。またこの後の6:7で12人は遣わされますので、それに備えて実際に見て学ぶ必要もあったと思われます。そうしますとこの後の内容は目撃したペトロが、マルコに伝えた内容のようです。
一行が会堂長の家に着くと、人々が大声で泣きわめいて騒いでいました。それはそうだと思います。人が亡くなるのはそれが誰であっても悲しいことですが、12歳の少女が亡くなるというのは余りにも惨いことだと思います。
しかし主イエスは、「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ。」と言われます。人々は主イエスを嘲笑いました。6:5にありましたが、主イエスを嘲笑う不信仰者がいますと奇跡を行なえませんので、皆を外に出しました。
4、さあ、起きなさい
主イエスは、子どもの父母とご自分の供の者3名だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれました。そして、ヤイロの願いの通りに、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われました。「タリタ、クム」というのはアラム語で、主イエスは普段はアラム語を話されていました。「タリタ」は「少女よ」で、「クム」は「起きなさい」という意味です。
主イエスの御言は出来事となって、12歳の少女はすぐに起き上がって、歩き出しました。この少女はなぜ生き返ることができたのでしょうか。それは私たち人間を造られる命の源である主イエスから命を与えられたからです。
このヤイロと娘の話は私たちにどのようなことを語るのでしょうか。ヤイロの娘のように、この世において死から生き返ることは現代では恐らくないと思います。これはこの後に主イエスがすべての人の罪の身代わりとして十字架に付かれて、復活されることの予型としての出来事と思われます。
しかしヤイロと娘の経験と似たような経験をすることはあります。ヤイロにとっての娘のように、自分にとって愛する大切な家族が亡くなることがあります。そのようなときに、私たちはどうすることも出来ずに、恐れ、うろたえてしまうものです。
そのような私たちにも主イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と語り掛けられます。死がすべての終わりであると考えてしまうと、私たちは恐れてしまいます。今日はイースター(復活祭)です。イースターは主イエスが私たちの罪のために十字架に付かれて、三日目に復活された記念日です。
主イエスが死から復活されたということは、死が終わりではなく、死の先に続く永遠の世界があるということです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言いますのは、「この世の死を恐れることはない。ただ復活と永遠の命を信じなさい。」ということです。
ヤイロの娘は生き返ったけれど、私の愛する家族は生き返らないという思いはあるかも知れません。しかしヤイロの娘もこの後に長くて百年でこの世を去っているはずです。Ⅱコリント4:18の、「私たちは、見えるもの(この世のもの)ではなく、見えないもの(永遠の世界)に目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」の御言を覚えていましょう。
イースターは主イエスが十字架の死から復活された記念日ですが、それだけでは過去に起きた歴史のただの記念日です。自分とは余り関りが無くなってしまいます。聖書は過去の出来事をただ学ぶだけのものではありません。
4章の、「種を蒔く人」のたとえにありましたように、種である御言が私たちの中で、芽生え、育って実を結ぶためのものです。それは茨のようなこの世の死の恐れに塞がれずに、ただ復活と永遠の命を信じて、期待して成長することです。そこには豊かな実が結ばれます。
これは人の命だけに限ったことではありません。自分の人生や色々な計画が上手く行かずに、もうだめだ、終わりだと感じることもあるかも知れません。
人間の常識的な目から見ますと、たとえどんなに絶望的な状況であっても、主イエスの「恐れることはない。ただ信じなさい。」の御言に信頼していたいものです。
主イエスは人によってそれぞれ対応が色々と異なる場合があります。12年間、出血の止まらない女は自分から主イエスの衣に触れて救われました。しかし今回のこの少女は亡くなっていますので、自分からは何もしようがありません。
お父さんのヤイロの願いの通りに主イエスは少女の手を取られました。これは私たちが絶望の余りに倒れて自分の力では起き上がれないようなときにも、主イエスは私たちの手を取ってくださるということです。
私たちすべての人はこの世の死を経験します。しかしどのようなときにも主イエスは私たちの手を取って導いてくださいます。そして、「さあ、起きなさい」と声を掛けてくださいます。聖霊の導きの中で、その声に応えるときに、30節のように主イエスの力が出て行き、復活の永遠の命の力が働きます。
イースターは主イエスが復活されただけの日ではありません。今はたとえどんな状況にあったとしても、主イエスを信じて永遠の命を与えられる人が、主イエスに手を取っていただいて、「さあ、起きなさい」と声を掛けられて、起き上がる日です。イースターは私たちが主イエスの永遠の命に与って生きることを覚える日です。
起き上がって歩き出した少女を見た人々は卒倒するほど驚きました。確かに驚くことですが、これはこの少女だけのことではありません。夢も希望も失って絶望の中にいた人が、主イエスを信じるようになって起き上がり、復活の命に生きる姿に私たちは現在でも驚かされることがあります。
有名なクリスチャンですと、三浦綾子さん、星野富弘さん、水野源三さん等でしょうか。しかし、そのような有名な人ではなくても、すべてのクリスチャンは復活の命に生きるものです。主イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じられましたが、それは奇跡の話だけが信仰から離れて独り歩きをしてしまうことを防ぐためです。
主イエスは最後に、少女に食べ物を与えるようにと言われました。これは今日の話の本筋とは余り関係が無いような感じで、一見、触れなくても良い内容のようにも思えます。しかしこの後の6:30からの話でも主イエスは食べることをとても大切にされます。
それは信仰だけではなく、人間にとって食べることが生きる力を付けるためにも大切だからです。主イエスは私たちの必要をすべてご存じで備えてくださいます。神が与えてくださる食べることも楽しみ、力を付けて、復活の力に生きるものとさせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ヤイロの娘は死から生き返りました。私の愛する家族はなぜ同じようにはならないのだろうかという思いはあります。しかし主イエスはイースターに死から復活され、見える一時的なものではなく、見えない永遠に存続するものに目を注ぎなさいと言われます。
私たちの手を取って導いてくださる主にすがって起き上がり、恐れず信じて歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。