「主に従い通す」
2026年10月4日礼拝式説教
ヨシュア記 14章1~15節
主の御名を賛美します。
1、ヨルダン川の西側
今日の箇所から13:7で主がヨシュアに命じられた、ヨルダン川の西側であるカナンの相続地の割り当てに入ります。相続は現代でも色々と問題が起こり易いものです。そこでこのときも、アロンの息子の祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエルの部族の家長たちと三つの立場の代表が関わります。
5節までの内容はこれまでにすでに語られていますが、大切なことなので繰り返します。九つの部族とマナセの部族の半数の相続地はくじで割り当てられます。くじはウリムとトンミムが使われたと思われます。相続地の場所はくじで割り当てられますが、広さは部族の人数が考慮されているようです。
13章にありましたように、モーセはすでにルベン族、ガド族、マナセ族の半数には、ヨルダン川の東側に相続地を与えています。彼らの間にはレビ人の相続地は与えませんが、住むべき町と、財産である家畜のための放牧地は与えました。
これはレビ人は牧畜を仕事にするのではなく、主に仕えるためです。ただヨセフの一族はマナセとエフライムの二つの部族になっていましたので、相続地の部族数は12部族で変わりません。
2、主に従い通す①
相続地の割り当てに際して、ギルガルのヨシュアのもとにユダの一族が進み出ます。ユダ族は民数記の人口調査で76、500人の最大部族です。そこでケナズ人であるエフネの子カレブがヨシュアに言います。ここでケナズ人のカレブとはどのようなことでしょうか。
ケナズ人はエサウの息子であるエリファズの息子ケナズを先祖とするエドム人です(創世記36:9~11)。イスラエルにとっては遠い親戚にあたり、差別していた異邦人ですがユダ族に吸収されたようです。聖書には同じ名前の別人もいまして、カレブはユダの孫、ペレツの子ヘツロンの子孫の説もありますが(歴代誌上2:5、18)、エドム人と思われます。
カレブはヨシュアに、「私とあなたのことについて、主がカデシュ・バルネアで神の人モーセに告げられた言葉を、あなたはご存じのはずです。主の僕モーセが、この地を偵察させるために私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。私は思ったとおりに報告しました。私と一緒に上って行った兄弟たちは民の心を挫きましたが、私はわが神、主に従い通しました」と言います。14章では、説教題である「従い通す」を3回使い強調します(8、9、14節)。
民数記13章でモーセはカナンの地の偵察に、カデシュ・バルネアからイスラエルの各部族の代表者12名を遣わしました。ユダ族からはカレブ、エフライム族からはヨシュアです。他の10名はカナンの地の先住民について、「あの民に向かって上ることなどできません。彼らは私たちよりも強いからです」(民数記13:31)と言い、民の心を挫きました。
しかしカレブとヨシュアは、「主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから」(民数記14:9)と言い、主に従い通しました。このことはヨシュアも忘れることなくはっきりと覚えているでしょう。
カレブは肉眼で見えるもので判断をせず、霊の目で見て判断をしました。カレブは「犬」の意味で、一見、余り良い意味に思えないかも知れませんが、忠犬ハチ公のように忠実に仕え、従い通します。
3、私の力は当時と同じ
カレブは続けて、「その日、モーセは『あなたの足が踏んだ地は、とこしえにあなたと、あなたの子孫の相続地になる。あなたがわが神、主に従い通したからである』と誓いました(申命記1:36)。ご覧ください。主は約束してくださったとおり、私を生かしてくださいました。主がこのことをモーセに約束された時から四十五年がたち、その間、イスラエルは荒れ野を歩みました。今日、私は八十五歳になりました」と言います。
当時、ニ十歳以上だった人たちは皆、荒れ野で死にましたが、四十歳だったカレブと少し年上と思われるヨシュアの二人だけは健在です。健在であるだけではありません。「今日もなお、モーセが私を遣わした日のように健やかです。戦いのためであれ、日常の務めであれ、今の私の力は当時と同じです」と言います。
綾小路きみまろさんはよく「あれから四十年」と言って、四十年経つと人は大きく変わると言います。しかしカレブは八十五歳の今も、私の力は四十五年前の四十歳の当時と同じですと言います。この言葉はどのように受け止めたら良いのでしょうか。二つのことが考えられます。
一つ目は、主が選ばれ、主の目的のために用いられる人には奇跡的な力が与えられます。アブラハムは百歳、サラは九十歳にして子どもが与えられました。またそのような特別な人だけではなくても、信仰者は日々、新たにされます。教会に通っている人は実年齢よりも若い感じがします。
二つ目は、カレブは元々自分の力に頼っていないということです。カレブは主にあって日々、新たにされていても、現在の八十五歳の力は四十歳のときと比べるとやはり落ちていると思われます。しかしカレブは四十五年前にカナンの地の偵察に行ったときにも自分の力に頼っていませんでした。
他の10人がカナンの先住民について言った、「あの民に向かって上ることなどできません。彼らは私たちよりも強いからです」の方が常識的な判断です。実際、イスラエルの人々はその言葉に心を挫かれてしまいました。
しかしカレブは自分の力は小さいけれど、主は全知全能であることを知っています。それでただ、「主に逆らってはなりません。その地の民を恐れてもなりません。彼らは私たちの餌食にすぎないのですから」と主に従い通しました。カレブの「今の力は当時と同じです」というのは、当時と同じように自分の力は今も小さいという意味と考えることができます。
全知全能の主の力の前では、カレブの元々小さい力が衰えても何の影響もありません。「健やかです」の原語の意味は「強い」です。それは主にあって強いということです。コリントの信徒への手紙二 2:19は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言います。
ここでもカレブは謙って従い通します。カレブが元気でも例え寝たきりになったとしても、全知全能の主が共にいてくださるなら力は何も変わりません。私も最近は自分の衰えを感じて、つい、年齢による衰え等を口にしてしまいがちです。
しかし、11節の御言葉が教えることは、自分の力の衰えを口にすることは、自分が何に頼っているかを表します。自分の力の衰えを口にすることは、私は自分の力に頼って生きているという不信仰の告白といえます。
私たちは自分の力に頼るのではなく、主の力に頼るのですから、堂々と、「今の私の力は主にあってニ十歳の当時と同じです。私の力は変わらず小さいですが、主にあって強いのです」と言いましょう。
4、主に従い通す②
カレブは続けて、「ですから今、主があの日約束してくださったこの山地をください。あの日、あなたも聞いたはずです。そこにはアナク人がおり、城壁に囲まれた大きな町が幾つもありますが、主が私と共にいてくださるなら、主が約束してくださったとおり、私が彼らを追い払います」と言います。
戦いと言ってもカレブ自身が直接に戦うのではなく戦いを指揮するという意味と思われます。カレブは四十五年前にヘブロンに行って巨人のアナク人を見ています。イスラエルを挫けさせたアナク人を何とかしなければという思いを持っていることでしょう。アナク人は今も、城壁に囲まれた幾つもある大きな町に住んでおり、イスラエルは占領をできていません。
カレブはそうであれば私を遣わしてくださいという申し出です。これは個人的に土地が欲しいという欲望というよりも、主が与えると約束してくださっているのですから、主の約束の御言葉の通りに自分の足で踏んで手に入れます。カレブが巨人のアナク人の町を占領することは、イスラエルの他の部族にとっても大きな励ましとなり、模範となります。
ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、ヘブロンを相続地として与えました。こうして、ヘブロンはケナズ人であるエフネの子カレブの相続地となり、今日に至っています。彼がイスラエルの神、主に従い通したからです。カレブは真っ直ぐに主に従い通し、主の祝福に与りました。
主の祝福に与るには、主に従い通す必要があります。そして主に従い通すには、御心に適うことに従い、御心に適わないことを避けます。それは誰もが望むことですが間違い易いものです。どのようにすれば良いでしょうか。
それはカレブがカナンの地に偵察に行ったときや、ヘブロンに住むアナク人に対するように、肉眼で見えるものに囚われずに、主に従って霊の目で見ることです。しかし私たちは生まれながら罪深い性質を持っていて、目の中に梁がありますので(マタイ7:3)、そのままでは御心に適う道が見えません。
そのような私たちを救うために主イエスが十字架に付かれました。それにより主イエスを信じる者の罪は赦され、聖霊が遣わされます。そして聖霊によって御心に適う道が示され、従う力も与えられます。主に従い通すことは、不器用で遠回りに感じることもあるかも知れません。しかし主に従い通すことが、最善であり、最短の祝福の王道です。
この後に聖餐を行いますが、私たちの救いのために主イエスが十字架に付かれたことを思い起こし、感謝し、聖霊の導きによって主に従い通す決意を新たにさせていただきましょう。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。カレブは肉眼で見えるものに囚われずに、真っ直ぐに主に従い通し、自分の力に頼ることなく、主の力に頼って主の祝福の道を歩みました。主イエスの十字架による救いにすべての人を与らせてください。私たちも聖霊によって悔い改めを新たにし、主に従い通し、祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
