「心に書き記す律法」 

2026年5月24日礼拝式説教 
へブル人への手紙8章7~13節
     
主の御名を賛美します。

1、二つの契約
今日はペンテコステ、五旬節です。元々は小麦の初穂をささげる日です。ペンテコステはギリシャ語の、「50番目の」から来ていますが、大麦の初穂をささげる日から数えて50日目です。ペンテコステは神から恵みを賜る日です。

ここには二つの契約について書かれています。一つ目は、「あの最初の契約」であり、二つ目は、「第二の契約、新しい契約」です。8~12節の「」はエレミヤ31:31~34(p1221)の引用です。紀元前6百年位の預言です。最初の契約は、「私(神)が彼ら(イスラエル)の先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した日に結んだ契約」(9節a)です。

最初の契約は広い意味では旧約であり、その中心の内容は律法です。そして律法の中心は十戒です。ペンテコステはイスラエルの歴史的には、過越しによってエジプトの地から脱出して、そこから50日目にシナイ山で十戒を授けられ、神と契約をした日です。

シナイ山で契約をしましたのでシナイ契約と言われます。しかし、「もし、あの最初の契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかった」ということは、最初の契約には欠けがあります。

しかし、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」(ローマ7:12)ので、律法自体には欠けはありません。欠けがあるのは契約であり律法ではありません。それで欠けは何かといいますと、「彼ら(イスラエル)が私(神)の契約を守らなかった」ことです。

それによって、「私(神)も彼ら(イスラエル)を顧みなかった」と主は言われます。契約ですので契約の当事者の一方であるイスラエルが契約を守らなかったので、神も顧みられず、契約は不履行となってしまいました。

しかしここで疑問が湧きます。神は全知全能のお方なのですから、最初の契約を結ぶ前から、人間は契約を守らないし、守れないことをご存じのはずです。それなのになぜわざわざ人間が守れないと分かっている契約を結ばれたのでしょうか。

神は人間の思いをすべてご存じです。人間は原罪を持って生まれて来ますので、罪深く、傲慢です。大きな失敗を何度も繰り返さない限り、自分は何でも出来ると基本的に思っています。

今、講解説教で読んでいますマルコによる福音書でも、12使徒のリーダーであるペトロは、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」(14:29)、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」(14:31)と自分に対して自信たっぷりです。

しかしそのような自信は脆くも崩れ去ることになり、またそのような経験をすることは大切です。旧約聖書は人間が自分の力では最初の契約を守れないことを証明する大切な歴史でもあります。しかし人間は旧約聖書を読むだけでは中々、納得できずに、自分で律法を守れないことを経験しないと信仰を持つことは難しいのかも知れません。

ガラテヤ3:24は、「こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。私たちが信仰によって義とされるためです」と言います。律法によって私たちは自分が無力な存在であって、キリストにより頼まざるを得ないということが分かるようになります。それは紀元前6百年位に預言されていました。

2、新しい契約
そして、「それらの日々の後私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と主は言われて新しい契約の内容を説明されます。新しい契約は3つの特徴があります。一つ目は、「主は、主の律法を彼らの思いに授け 彼らの心に書き記す」ことです。

最初の契約では、律法は表面的な外側の行いの内容です。しかし、いくら行いを守ろうとしても、内側の心が罪深いままでは守り続けることはできません。そこで新しい契約では根本的な解決方法として主の律法を心に書き記します。

それによって、無意識の中でも律法に従うように導かれます。この導きを与えてくださるのが聖霊です。そして、この聖霊がこの世に降られたのが今日のペンテコステです。ペトロや他の弟子たちも福音書の時代には信仰的な失敗が多くありました。

しかし、ペンテコステに聖霊が降られてからは聖霊の働きにより信仰的に大きく成長し、御心に従うようになりました。それにより、私(主)は彼らの神となり彼らは私(主)の民となります。洗礼をまだ受けていない方に洗礼を勧める大きな理由は、すべての人は聖霊を受ける必要があるからです。

二つ目は、「自分の同胞や兄弟の間で『主を知れ』と言って教え合うことはない」ことです。それは、「小さな者から大きな者に至るまで彼らは皆、私(主)を知るから」です。聖霊が知らせてくださるからです。

三つ目は、「私(主)は彼らの不正を赦し もはや彼らの罪を思い起こすことはない」ことです。最初の契約では、3節にありますように、罪の赦しのために大祭司が供え物といけにえを献げます。しかし新しい契約では、大祭司である主イエスがご自身を供え物として献げられました。

そして、6節にありますように新しい契約の仲介者です。それで主イエスを信じるだけで罪を赦されて救われる、新しい契約が始まりました。それによって、もう古い契約の供え物やいけにえは献げる必要はなくなりました。

神は、「新しい契約」と言われることによって、最初の契約を古びたものとされました。年を経て古びたものは、間もなく消えうせますと言います。ここで古びたものとされたのは契約であって、律法ではありません。罪を犯したときに、供え物やいけにえを献げる契約は古びたものとされました。この手紙はどのような状況の中で語られたことでしょうか。二つのことが考えられます。一つ目は、この手紙には紀元70年にローマによってユダヤが滅ぼされ、神殿も滅ぼされたことが書かれていません。そのことから、神殿がまだ存在している状況と思われます。

それでユダヤ人クリスチャンの中には、最初の契約で定められた、神殿への供え物といけにえを献げる必要があると考える人々がいたようです。それで主イエスの十字架によって神殿への供え物といけにえは必要でなくなったことを伝える必要がありました。

二つ目は、手紙の宛先であるヘブライ人はまだ聖霊を受けていなかったと思われます。そこで新しい契約の大きな特徴である聖霊の働きを伝える必要があったと思われます。

3、心に書き記す律法
現代を生きる私たちはこの新しい契約をどのように受け止める必要があるのでしょうか。2千年前に新しい契約の時代に入ったのですから3つの特徴の通りなのでしょうか。一つづつ考えてみましょう。一つ目は、「主は、主の律法を彼らの思いに授け 彼らの心に書き記す」ことです。

クリスチャンの心に書き記される律法の内容はどのようなものなのでしょうか。その中心は十戒と思われます。また十戒を纏めた二つの戒めである、「すべてを尽くして主を愛し、隣人を自分のように愛する」(マルコ12:29、30)ことや、霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22)である、愛、喜び、平和、寛容・・・等と思われます。

ここの箇所等で契約を古びたものとされたことを、十戒等を古びたものとされたと誤解する人もいますので注意が必要です。確かに人間は主イエスを信じて聖霊が与えられて、心に書き記される律法に従って歩む者とされます。

しかしこの世にあっては人間には罪の性質が残っていて、心に律法が書き記されても、律法に逆らう思いが出て来ることもあります。そこで、自分の思いが聖霊の導きに従う御心に適うものであるか、そうでないかを確認するためにも十戒等を覚えて確認する必要があります。

心に律法が書き記されますが、自分の思いがすべて完全に律法の通りとなることはこの世では難しいことです。ペトロはペンテコステの後は聖霊の力によって力強く歩みました。しかしガラテヤ2:12によると、ペトロは異邦人と一緒に食事をしていましたが、割礼を受けている人々が来ると異邦人から離れて行ったことによって、パウロから非難されています。

心に律法が書き記され、聖霊によって導かれますが、この世において完全な者になる訳ではありません。ただ失敗をしたときには、心に書き記される律法によって悔い改めに導かれますので、その時は素直に悔い改める必要があります。

二つ目は、「自分の同胞や兄弟の間で『主を知れ』と言って教え合うことはない。彼らは皆、私(主)を知るから」です。求道者と学びをするときにも、主なる神はこのようなお方ですと説明はできますが、完全に教えることは不可能です。直接に、主と出会い知る必要があります。

しかし教え合うことなしに、直接に、自分だけで主を知ることも難しいことです。この御言葉を文字通りにそのまま受け止めている教会の教会員と話をしたことがあります。その人は聖書は余り読まないと言っていました。必要なことは神が直接、自分に知らせてくれるので聖書は読む必要がないとのことでした。

キリスト教の教理で良く使われる言葉に、「すでにといまだ」があります。主イエスの十字架とペンテコステによって新しい契約は、「すでに」始まりました。しかし新しい契約は、「いまだ」完成はしていません。私たちはこの、「すでに」と「いまだ」の間にいることを正しく理解して、必要な対応を行う必要があります。

三つ目は、「私(主)は彼らの不正を赦し もはや彼らの罪を思い起こすことはない」ことです。主イエスの十字架による贖いによって罪は赦されますのでこれは事実ですが条件はあります。それは聖霊によって示される不正は行わず、行ってしまった不正は悔い改めることです。主は罪を思い起こすことはないから不正をして良いということでは勿論、ありません。

ペンテコステに聖霊が降られて、主の律法を心に書き記してくださり、導いてくださいます。聖霊の導きに素直に従うなら、聖霊の導きは強められて行きます。そして祝福の道を歩むことができます。しかし逆に聖霊の導きに逆らい続けると聖霊が離れられて、悪い方向に進んでしまいます。

今日のペンテコステから、私たちの教会では毎週の愛餐会の再開を計画しています。私も礼拝式の後に、皆さんと食事を共にしての交わりを楽しみにしています。新しいかたちでの愛餐会ですので、どうのようにしたら良いのか、改善点等も色々とあるかも知れません。

しかし目的は主にあって皆さんで共に交わり楽しむことです。ペンテコステに降られた聖霊が、私たち一人一人の心に律法を書き記し、力強く導いてくださいます。聖霊の結び実は、愛、喜び、平和、寛容等であり、肉の働きではありません。霊の実を結びペンテコステをお祝いいたしましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たち人間には最初の契約を守ることができませんので、主イエスが十字架につかれて私たちに救いの道を開いてくださいました。更に心に律法を書き記し、ペンテコステに降られた聖霊が御心へと導いてくださいますから有難うございます。聖霊の導きに従って霊の実を結び、喜び生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。