「息を引き取られる神の子」

2026年5月31日礼拝式説教  
マルコによる福音書15章33~41節
        
主の御名を賛美します。

1、 エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ
主イエスは十字架を父なる神の御心としてつけられました。十字架につけられた時間は午前9時です(25節)。今日の場面の始まりは昼の12時ですので、十字架につけられてから3時間が経っています。全地は暗くなります。過越しの祭りは満月の日の夜から始まりますので、暗くなった原因は日食ではありません。

出エジプト記で、罪を象徴するエジプトからイスラエルが脱出する前に10の災いが下されました。10番目のエジプトの初子が打たれる前に下された9番目の災いは暗闇です(出エジプト記10:22)。罪を象徴するエジプトからの解放の前には暗闇が覆うことは、この場面と重なります。

出エジプト記の暗闇に用いられたのは砂嵐だったようですが、ただの自然現象ではなく神の御業です。出エジプト記での暗闇は三日間に及びましたが、この時に暗くなったのは3時間です。この暗闇は単なる物理的な暗さだけではなくて、霊的な意味として罪の裁きによる暗闇を象徴しています。

主イエスは十字架につけられてから6時間、暗くなってから3時間苦しまれています。主イエスは十字架の上で7つの言葉を話されています。しかし他の福音書でも同じですが、起こった出来事のすべてを書くのではなくて、内容を絞っています。

マルコは十字架の上での主イエスの7つの言葉の内の一つだけを書いています。それは主イエスが大声で叫ばれた、アラム語の、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」です。エロイは、「わが神」、レマは、「なぜ」、サバクタニは、「私をお見捨てになったのですか」の意味です。主イエスのこの言葉には、どのような御思いが込められているのでしょうか。

礼拝式を含めて聖書を朗読する時にどのように読むかについて話題になることがあります。淡々と平坦に読むか、それとも感情を込めて起伏を付けて読むのかです。特に台詞等です。皆さんはどちらがお好みでしょうか。東京聖書学院では平坦に読むようにと教えていました。

それはなぜかと言いますと感情を込めて読みますと、そこに朗読者の解釈が入るからです。そうしますと二つの問題が生じる場合があります。一つ目は、聖書朗読を聞く人がフラットな状態で神の声を聞けなくなることです。そして二つ目は、朗読者の感情を込めた解釈が説教者と同じであれば良いのですが、違っているとずれが生じることになります。

この、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」の読み方も解釈によって変わります。14:36のゲツセマネでの主イエスの、「アッバ、父よ」は父なる神への親しい呼びかけです。しかし、ここの場面では、お見捨てになられた者としての、「わが神」は少し距離のある呼びかけの感じがします。

全人類の罪を一身に背負われ、父なる神との交わりを断たれた隔たりの距離です。しかし神の前に、「わが」を付けて、なお神を信頼していることを表しています。その後の、「なぜ私をお見捨てになったのですか」という言葉はニュアンスの難しい言葉です。二つの解釈があります。

一つ目は、この御言葉が詩編22:2(P837)の引用であることに基づく解釈です。主イエスが詩編22全体を考えておられるとしますと、3節の聖なる方は罪を放っておくことはできません。詩編22編は十字架の預言の御言葉です。前回の箇所の預言である22:8、9、19等があります。

その結論は31、32節です。今日の34節の御言葉は、苦しみの中におられながらも、これが世々に語り伝えられる御業であることを意識されていると思われます。34節の御言葉を感情を込めて朗読をする場合に、詩篇22編との繋がりを意識しますと、救いを達成する勝利として大声で叫ぶことになるかも知れません。

二つ目の解釈としては、言葉の通りに見捨てられた者としての嘆きの言葉として受け止めることです。主イエスご自身は何も罪を犯されていませんが、すべての罪人の身代わりとして十字架についておられるのですから、見捨てられた者としての嘆きと考えられます。

ここは二つ目の解釈であると考えられていますが、微妙なニュアンスの場合もありますので朗読は平坦で良いのかも知れません。

2、息を引き取られる神の子
ここで、十字架で息を引き取られる神の子、主イエスに立ち会った三つのグループの人たちが描かれています。一番目は、そばに立っていた何人かです。その人々は、「そら、エリヤを呼んでいる」と言います。なぜ、突然にそのようなことを言うのでしょうか。二つのことが考えられます。

一つ目は、エロイをエリヤと聞き間違えたのかも知れません。二つ目はマラキ3:23の、「主の日が来る前にエリヤを遣わす」の預言に基づく考えかもしれません。そばに立っていた何人かのある者が走り寄り、海綿に酢を含ませて葦の棒に付けて主イエスに飲ませます。

これは23節の没薬を混ぜたぶどう酒とは違います。没薬は十字架の痛みを麻痺させる麻薬でしたので、主イエスはお受けになりませんでした。今回の酢は発酵が進んだぶどう酒を水で薄めたものでローマの兵士の飲み物です。今回は主イエスは飲まれます。

しかし酢を飲ませた者は親切心からそうしたようではないようです。「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」などと言っています。ルカ23:36によると侮辱して言った言葉です。一つ目のグループの、そばに立っていた何人かは主イエスに物理的にはそばにいますが、霊的には全くかけ離れています。

主イエスは大声を出して息を引き取られます。主イエスが息を引き取られる前に言われた言葉は、ルカ23:46によりますと、「父よ、私の霊を御手に委ねます」です。息と霊は同じ言葉です。息を引き取ることは霊を神の御手に委ねることです。

創世記2:7で、神が人の鼻に息を吹き込み人は生きる者となりました。息を引き取ることは、その息を神の御手に委ねてお返しすることですので、何か安心な感じがします。ここの小見出しも、「イエスの死」ではなく、「息を引き取るイエス」の方が良い気もします。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けます。神殿には垂れ幕が二つあります。一つは聖所の入口にある幕で、もう一つは聖所と至聖所を仕切る垂れ幕です。この時に裂けたのは、内側の垂れ幕と考えられています。

これまで垂れ幕の内側の至聖所には、大祭司が1年に1回だけ入って、動物の血によってイスラエルの全会衆の贖いをしていました。その垂れ幕が裂けたことは二つのことが考えられます。

一つは神の子の血が献げられたことによって、動物の血による贖いの必要が無くなりました。動物のいけにえが必要なくなりました。もしも十字架が無ければ今も動物のいけにえが必要です。しかしこの後も神殿は約40年後の紀元70年に壊される迄はありましたので、ユダヤ人は動物のいけにえを献げ続けていたと思われます。

もう一つは垂れ幕で仕切られた至聖所は神のご臨在される場所で大祭司だけが1年に1回だけ入れました。その仕切りの垂れ幕が裂けたことで誰でも直接に神に近づくことが出来るようになったことを現します(へブライ10:19、20、P403)。それによりクリスチャンは祭司を通すことなしに直接、神に祈ることが出来ます。

3、向かって立つ百人隊長
息を引き取られる神の子、主イエスに立ち会った二番目は百人隊長です。百人隊長は主イエスに向かって立っています。ここは原語では、「主イエスに向かってそばに立っていた」と書かれています。一つ目のグループの何人かと同じで、「そばに立っていた」のですが、百人隊長は主イエスにきちんと向き合っています。

同じように、そばに立っていても、ただそばに立っているのか、それともきちんと向き合うかによって全く違って来ます。百人隊長は、主イエスが人々から侮辱をされても何も言い返されず、全地が暗くなる超自然現象が起こり、大声で神に叫ばれて、息を引き取られるのを見ました。

そこから、「まことに、この人は神の子だった」とはっきりと分かって告白しました。私たちも同じ所にいて、同じものを見ていても、きちんと向き合うかどうかで、見えるものが異なり、その後の人生も大きく変わります。百人隊長は救いに与り、新しい人生を歩み始めたことでしょう。

4、遠くから見守る女たち
息を引き取られる神の子、主イエスに立ち会った三番目のグループは女たちです。その中には、主イエスに7つの悪霊を追い出してもらったマグダラ出身のマリア(16:9)、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてヨハネとヤコブの母と思われるサロメがいます。

この女たちは、主イエスがガリラヤにおられたとき、その後に従い、仕えていた人々です。このほかにも、主イエスと共にエルサレムへ上って来た女たちが大勢います。ガリラヤから百キロ以上離れたエルサレムへ大勢の女たちが来て遠くから主イエスを見守っています。

実際にはヨハネもいましたが、マルコはなぜここで女たちのことだけを書いているのでしょうか。男性優位の社会で表に出て活躍するのは弟子たちのような男たちです。しかし、弟子たちでさえ自分の命の危険を感じて逃げてしまった恐ろしい状況でさえ、女たちは逃げません。

主イエスから離れずに遠くから見守る女たちの愛の強さを表しています。この愛は主イエスの墓を訪れる行動へと繋がって行き、女たちが初めに主イエスの復活を知ることになります。主イエスに従い、仕える人々には良い知らせ、福音が知らされます。聖書は女たちが果たした役割をきちんと伝えます。そのように私たちも自分に与えられる役割を果たすことを期待されています。

私たちのために十字架で息を引き取られる神の子、主イエスに立ち会った三つのグループの人たちがいました。主イエスのそばに立つことは大切ですが、ただいるだけでは意味がありません。きちんと向き合い、従い、仕えるときに、劇的な変化をもたらします。変化と言うよりも十字架の意味を知り、自分の人生の本当の役割、意味を見い出すことができます。

5、中心構造
聖書の中心構造について時々、お話ししています。福音書全体から見ますとどのようなことがあるでしょうか。主イエスがお生まれになられたときには、超自然的な現象として誕生を示す星が現れました(マタイ2:2)。東方の博士たちはその星を見て主イエスを探しました。

光が現れたということです。主イエスが息を引き取られるときには逆に全地が暗くなりました。誕生のときは星の光、息を引き取るときは暗闇ととても対称的です。また主イエスの誕生のときには東方の博士たちが黄金・乳香・没薬を主イエスに献げました。

十字架に際しても黄金・乳香・没薬に対応する3つの物が献げられている感じがします。黄金は王の象徴と言われますが、黄金に対応する物として主イエスの代価としてユダに与えられた銀貨30枚とも言えます(マタイ26:15)。乳香の豊かな香りに対応する物は、主イエスに注がれたナルドの香油です(14:3)。

没薬に対応する物は没薬を混ぜたぶどう酒と(34節)、没薬も添えて埋葬されます。やや強引な解釈の感じもしますが、ユダヤの文化を味わいながら福音書を楽しみつつ読みたいと思います。これは中心構造で福音書を書いたというよりも、そのような出来事が実際にありました。

これらの出来事や福音書を通してすべてが神の御手の中にあることを感じると思います。その中で、十字架で息を引き取られた神の子、主イエスときちんと向き合わせていただきましょう。きちんと向き合うならば、必ず聖霊が導いてくださいます。

そして主イエスに従い、仕えるように導かれ、一人一人がこの世で果たす役割を教えてくださいます。自分に与えられる役割を果たし祝福の道を歩ませていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは神の子でありながら、私たちの身代わりとして十字架につかれて、息を引き取られました。私たちはそのことにしっかりと向き合い、真実を悟らせてください。そして主イエスの後に従い、仕え、自分の役割を果たし、祝福の道を歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。