主の憐れみと人の弱さ
2026年7月19日講壇交換礼拝式説教
ヨハネによる福音書5章1-18節 河野克也牧師(中山キリスト教会)
序:聖書の人物についての好き嫌い
聖書には様々な人物が登場します。ある人物には共感を抱き、別の人物には反感を抱くことがあります。聖書が神の言葉だからといって、出てくる人物のすべてをまんべんなく等しく好きになる必要はないでしょう。私が個人的に嫌いなのは何となく旧約の人物が多いように思いますが、例を挙げると、ヤコブとヨセフがまず思い浮かびます。新約聖書にも好きになれない人がいます(いました…?)。それが今朝の聖書箇所に登場する、38年間病気で苦しんでいて、主イエスに癒された男性です。
- 癒し(5:1-9a)
このエピソードはまず癒しが行われることになる場所と、癒しを期待する人々の状況を描写します。「羊の門」はエルサレム神殿の北側の回廊にあった門で、そこから犠牲として献げられる動物が搬入されていました。その門を抜けて80メートルほど行った先に、二つの長方形の大きな貯水池が隣り合って作られていました。おそらく一方が 90 x 50 x 15m で、もう一方が 90 x 60 x 15mだったようです。その貯水池からの水で、犠牲の動物を洗う洗い場が複数あったようです。貯水池を囲む回廊には、大勢の病気の人が癒しを期待してそこに横たわっていました。
主イエスは38年間そこにいる一人の男性に、「良くなりたいか」と声をかけます。彼は「良くなりたいです」と答える代わりに、自分を助けてくれる人がいないことを嘆きます。この男性の答えからすると、どうやら先着順で(先着1名様限定?)癒しの奇跡が起こったようです。彼は、声をかけてきた誰か知らない人物に、水のところまで真っ先に連れて行ってくれることを期待したのかもしれません。しかし主イエスは、「起きて、床を担いで歩きなさい」と命じます。9節は、「すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した」と報告します。 - 安息日律法の違反(5:9b-16)
9節後半はおもむろに、「その日は安息日であった」と告げます。そしてここからこの癒しのストーリーは大きく転換します。ここで登場する「ユダヤ人たち」とは、神殿の大祭司を中心とするユダヤ人の指導者を指すと考えておけば良いでしょう。彼らは床を担いで歩いているこの人に、「今日は安息日だ。床を担ぐことは許されていない」と告げます。つまり「お前は安息日の律法を破った」と告発しているのです。彼は「私を治してくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えます。つまり「悪いのは私ではありません。私に命じた人が悪いのです」と、責任逃れを試みているのです。神殿当局者は、それが誰かを問い詰めますが、彼は誰であるかを知りません。13節後半は8-9節の癒しの場面に遡って、「群衆がその場にいたので、イエスはそっと立ち去られた」と告げて、彼が自分を治した人が誰かわからないでいる理由を説明します。主イエスはおそらく目立たない仕方でこの男性に近づき、目立たない仕方で床を担いで歩くように命じ、そして目立たない仕方で立ち去ったのでしょう。安息日の立法に違反したことを責められたこの男性が、どのような処罰を受けたのかは記されていません。(おそらく、悔い改めた上で、律法に定められた犠牲を献げたのでしょう。)
14節は、この出来事からどのくらいの時間が経っていたかは不明ですが、「その後」、主イエスが神殿の境内でこの男性を「見つけて」(新改訳2017)、彼に「もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と警告したことを報告します。ここに出てくる「罪」が何か、また「もっと悪いこと」が何かは語られません。この男性は、「自分を治したのはイエスだと」知り、そのことを当局に通報します。「密告」と言っても良いでしょう(だからこの人物が好きになれないのです)。それを受けて、16節はイエスが当局から迫害されていたことについて、安息日に癒しを行なって律法を破っていたからだと説明します。聖書協会共同訳も新共同訳も、新改訳2017も、この人物が密告したことで当局が主イエスを「迫害し始めた」と訳します。しかし、原文のギリシア語は、「~し始めた」という意味よりも、「~していた」訳す方が正確だと思います。16節を私なりに訳すと以下のようになります。 だからユダヤ人たち(神殿当局者たち)はイエスを迫害していたのである。彼が安息日にそのようなことをしていたからである。 この訳だと、神殿当局者によるイエスの迫害がこの人物の密告で始まったわけではなく、主イエスが日常的に安息日に癒しを行なっていたので迫害していたのであって、このエピソードはその象徴的な事例だったと理解することができるでしょう。彼が自己保身のためにイエスを密告したことに変わりはありません。それでも、ヨハネ福音書のテクストは、ことさらに彼の責任を追求することをしないのです。 - 父なる神と独り子イエスの一致(5:17-18)
17節は唐突に、イエスと神殿当局者との問答に場面を切り替えます。「イエスはお答えになった」との導入句は、ここで主イエスが、それに先立つ当局者からの問いに答えていることを示しています。実は17-18節がこの記事の中心です。17節は、主イエスが安息日に癒しを行なっていること(16節に含意される)は、父なる神が安息日にも働いておられることと一致すると述べます。
父なる神の働きが何かについて、ここでは語られていませんが、19節以降の問答の続きから、それが永遠の命を与える働きであることがわかります。その発言を受けて、18節では神殿当局者たちが「ますますイエスを殺そうと付け狙うようになった」ことを告げます。18節の最後に書かれている、「イエスが安息日を破るだけでなく、神を自分の父であると言い、自分を神と等しい者とさ
れた」との言葉は、神殿当局者と主イエスの対立の真の原因が何かを端的に表現しています。その主イエスの自己理解を、神殿当局者たちは受け入れることができなかったのです。そしてこの後、主イエスと父なる神が一つであること、またその言葉と行いが一致していることをめぐって、繰り返し長大な論争が展開されます(6:22-59; 8:12-59; 9:40-10:21, 22-39)。
私たちはヨハネ福音書の冒頭にある「プロローグ」と呼ばれる部分(1:1-18)で、主イエスが永遠の言(ロゴス)であり、「父の懐にいる独り子である神」だという真理を知らされていますが、この福音書の中に登場する人々は、そのことを知らされていない中、主イエスへの応答が迫られることになります。あの病を癒やされた男性もまた、このことを知らないまま、神殿当局に
律法違反を咎められ、責任を追及されたことで、恐れて密告したのです。彼を待ち受けていた「もっと悪いこと」とは、恐れのあまり神殿当局者に協力することで、神に敵対する側にまわってしまうということなのかもしれません。「まことの光」(1:9)である神の独り子イエスを拒絶した「世」にとどまること、「光よりも闇を愛した」と言われる「悪を行う者」(3:19-20)の仲間にとどまることが「罪」ということになります。この男性への警告(5:14)は、私たちへの警告でもあります。主イエスは、「何が人の心の中にあるかを良く知っておられ」(2:25)、諦めることなくその弱い私たちを、光へと招き続けていてくださいます。
