「恥辱を取り除く割礼」 

2026年7月12日礼拝式説教 ヨシュア記 5章1~15節

主の御名を賛美します。

1、西側の王たち

5章には四つの話があります。四つの話は一見すると別々の話のような感じもしますが、すべてが繋がっているものです。一つ目は、イスラエルがヨルダン川を渡ったことを聞いたヨルダン川の西側の王たちの話です。

2:9~11でラハブがイスラエルの二人の斥候に話したように、ヨルダン川の西側の人たちは、主がイスラエルに西側の土地を与えられたこと、イスラエルの前で葦の海の水を干上がらせたこと、アモリ人の二人の王、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを聞いて、心は既に挫けています。

しかし微かな望みもあったと思われます。それは今の季節はヨルダン川の水が岸まで満ちているので、ヨルダン川が自然の堤防となって、イスラエルの進行を留めるのではないかということです。しかし、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らしました。そして、彼らを渡らせたことを、西側のアモリ人の王たちと、海沿いにいるカナン人の王たちは皆、聞いて立ち向かう勇気を失いました。

2、割礼

イスラエルがエリコを占領する状況は整って来ました。しかし何か行動を起こす前には、まずは霊的な準備が必要です。二つ目の話は、割礼についてです。主はヨシュアに「火打ち石で小刀を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施しなさい」と命じます。

割礼は創世記17:11、12で、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしで、生後、八日目に受けるものです。「もう一度」というのは、イスラエルの人々が一斉に受けるのは創世記17章の一度目以来のもう一度という意味です。割礼を一度受けている人が、もう一度受ける意味ではありません。

しかしイスラエルの男は創世記17章以降、皆、割礼を受けていたのではなかったのでしょうか。40年前にエジプトを出た民は皆、割礼を受けていました。しかしエジプトを出てから途中の荒れ野で生まれた民は皆、割礼を受けていない無割礼でした。これはなぜなのでしょうか。

初めは、荒れ野で水が十分にないことが影響しているのかと思いました。割礼を施すには衛生上、小刀を水で洗ったり、割礼の後に水で流す必要もあるように思うからです。しかし、それだけの理由では大切な神との契約のしるしを施さないことにはならないでしょう。

割礼はお話しましたように、創世記17:11、12で、神がアブラハムと結ばれた契約のしるしです。この契約にはカナンの全土をアブラハムの子孫に所有地として与える内容を含んでいます(創世記17:8)。しかし、イスラエルは38年前にカデシュ・バルネアから十二人の斥候を送った時に神に逆らい、与えると約束されたカナンの地に行きませんでした。

そのために主は、イスラエルに与えると誓われた地、乳と蜜の流れる地を彼らに見せないと誓われました。その後の荒れ野での38年間は恵みも多くありましたが、エジプトを出た戦士の男たちが死んでいく期間です。

そのような状況の中で、生まれて来る子どもたちに、カナンの地を与える約束を伴なう割礼を施すことは御心に適わないとモーセには示されたのだと思われます。しかし、エジプトを出た、戦士であった男たちは、皆、荒れ野で死にました。時は満ちました。

そして主の命令によって、ヨシュアは割礼を施します。しかし、これから占領をしようとしている敵の近くで割礼を施すことはとてもリスキーな感じがします。創世記34章では、ヤコブの娘のディナがヒビ人のシェケムに汚されたときに、ヤコブの息子たちはたくらんでヒビ人に割礼を受けさせて、傷の痛みを覚えていたときに襲いかかりました。そのことを考えますと、このときのイスラエルはリスクを恐れず、完全に主に信頼しています。

民は皆、割礼を施された後、回復するまで宿営内の自分の場所にとどまりました。どの位の期間、とどまったのかと思いますが、4:19と5:10から考えますと三日間のようです。創世記34:25ではヒビ人は三日目でまだ痛みを覚えていましたので、今回は早い回復です。

主はヨシュアに「今日、私はあなたがたからエジプトでの恥辱を取り除いた」と言われます。そのため、その場所はギルガルと呼ばれ、今日に至っています。この文章はどのような意味なのでしょうか。「エジプトでの恥辱を取り除く」とはどういうことなのでしょうか。「取り除く」ことが割礼の意味と重なっていることは何となく分かります。

色々な説があります。代表的なのは、一つ目として、イスラエルは荒れ野で何か不満があると、エジプトにいたときの方が良かったと言って、エジプトに帰ろうとする恥辱の奴隷根性のようなものがありました。それが割礼によって、神によって取り除かれ神との契約が回復されたことです。

ギルガルは先週の箇所で、「円、輪」という意味とお話しましたが、元は「転がす」という意味の動詞に由来する言葉です。今回は「転がす」の意味の方で、割礼によって転がして、契約を回復します。

二つ目は、民数記14:16でモーセが主に訴えた、「諸国民は、主は与えると誓った地にこの民を連れて行くことができないので、彼らを荒れ野で殺したのだと言う」という意味の恥辱です。それが割礼によって取り除かれ、神との契約が回復され、約束の地に入りことによって恥辱を取り除くという意味です。

割礼は単に肉体に施すというよりも、申命記10:16で、「あなたがたの心の包皮に割礼を施し、二度とかたくなになってはならない」とあります通りに心の割礼が大切です。しかし、かたくなにならないように心に割礼を施すことは、人の力ではできないことであり、神に施していただく必要があります。その意味でも割礼に相当する現代のものは洗礼です。

3、過越祭

イスラエルはギルガルに宿営していますが、その月(第一の月、4:19)の十四日の夕方、エリコの平野で過越祭を祝いました。三つ目の話は、過越祭です。ところで、「過越祭は祝おうとするならば、男は皆、割礼を受けなければなりません(出エ12:48)。」 

ということは、イスラエルはカデシュ・バルネアでの事件以降は割礼を施していませんので、過越祭も祝っていません。前回の過越祭は民数記9章のシナイの荒れ野でのことになり、それ以来ですから、実に39年振りになります。

過越祭は過越の小羊の血により裁きを逃れて、罪の象徴である奴隷の地エジプトから救われたことを記念する祭りです。割礼を受けて、過越祭を祝うことによって、40年間の荒れ野の旅が終わり、神との契約が回復したことを表します。割礼を受けた者が過越祭を祝うことは、現代では、洗礼を受けた者が聖餐に与ることと言えます。

過越祭の翌日には、彼らは土地の産物を種なしパンや入り麦にして食べました。それはこの地が正に、乳と蜜の流れる地であることの証拠です。ただこれらは自生の産物ではなく、カナン人が作った産物で、カナン人はイスラエルを恐れてエリコの城内に逃げたために残されていた物と思われます。

彼らが土地の産物を食べた翌日からマナは絶えました。荒れ野で食べ物のないときには、主はマナを恵みとして与えてくださいましたが、その必要がなくなると絶えます。彼らはその年、カナンの地で収穫された物を食べます。

主は人が主から与えられた賜物を用いることを願っておられます。人が賜物を用いて御心を行うときに、その手の業を祝福してくださいます。自分にどのような賜物(タラントン)が与えられているのか、またその賜物をどのように用いることが御心に適うのか、祈り求めつつ用いましょう。

4、主の軍勢の長

四つ目の話は、主の軍勢の長です。ヨシュアがエリコにいたときのことです。ヨシュアは2章で遣わした二人の斥候から、エリコの人々の心は挫けていると聞いています。しかしそうは言っても、エリコは堅固な城壁に囲まれています。どうように攻略をしたら良いかと思い巡らしていたのかも知れません。

ヨシュアが目を上げると、抜き身の剣を手にした人がこちらに向かって立っています。場所が敵もいるエリコですからヨシュアも驚いたと思いますが、抜き身の剣を手にした人に歩み寄るのは勇気がいることでしょう。ただこちらに向かって立ってはいますが襲って来る雰囲気ではなかったのでしょう。

そして、「あなたは私たちの味方か、それとも私たちの敵か」と尋ねます。私たちが関心を持ち易いことです。自分の見方か、敵かです。しかしその人は初めに、「いや」と答えます。それはこの世的な味方、敵といったレベルの存在ではないということです。

そして、「私は主の軍勢の長である。今やって来たのだ」と続けます。抜き身の剣を手にした主の使いは民数記22:31にも出て来て、雌ろばは気付いて道をそれましたが、雌ろばに乗っていたバラムは初めは気付きませんでした。旧約聖書では主と主の使いにはっきりとした区別がないことが多くあります。

ヨシュアは地にひれ伏して礼をし、「ご主人様は僕に何をお告げになるのですか」と尋ねます。まずは御心を聞くことが大切です。主の軍勢の長はヨシュアに、「履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる所である」と答えます。

この言葉は、出エジプト記3:5でモーセが、燃える柴の中から主の使いから言われた言葉と同じです。モーセとヨシュアは気付かないで、たまたま聖なる所に立ってしまったのでしょうか。そうではないようです。特定の所が聖なる所なのではなく、主の使いの前が聖なる所と思われます。

ヨシュアは主の使いを敬いそのとおりにしました。出エジプトの初めに主の使いがモーセに言ったのと同じ言葉を、カナン入国の初めに主の使いがヨシュアに言うのは象徴的です。ヨシュアとしては、これから先、自分たちが進む前を、抜き身の剣を手にした主の軍勢の長が先に進むのですから何と心強いことでしょうか。これは1:5の約束の実現です。

ヨシュアは一つ目の西側の王たちがイスラエルに立ち向かう勇気を失った情報は掴んでいたでしょう。しかしそこで驕ることなく主の命令に従って二つ目の割礼をし、主の教えのとおりに三つ目の過越祭を祝いました。すべて主の教えに従って行ったところ、四つ目の主の軍勢の長が姿を現しました。

このことは現代においても同じです。私たちは状況がいくら自分に有利であっても、驕り高ぶり、人の思いで進んではいけません。まず神の前に悔い改めて、心の割礼である洗礼を受けます。既に洗礼を受けている方は、悔い改めて、謙ります。

そして過越祭である聖餐により、自分は主イエスの十字架により罪を赦され、救われた者であることを覚えます。すると主の使いである聖霊が臨まれ、御心を示してくださいますので、履物を脱ぐ思いで謙遜に素直に聞き従います。

5章は1:7の御言葉の実践編と言えます。聖霊の導きに従って、聖書の御言葉を守り行い、成功の道を歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルは主によってヨルダン川を渡り、有利な状況にいましたが、ヨシュアは驕り高ぶることなく、主の御言葉、律法に従って一つ一つを守り行い、主の軍勢の長に会い、その言葉にも従いました。私たちも聖霊によって御言葉に従い祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。