「罪の贖い」 

2026年8月2日礼拝式説教 
ヨシュア記 7章1~26節

主の御名を賛美します。

1、背信の罪

6章でエリコの占領は順調に進みました。しかし6:18でヨシュアが警告をしたにも関わらず、滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出して背信の罪を犯した者がいます。ユダ族のアカンです。アカンは、「災いをもたらす」の意味で、親が子どもにそのような名前を付けることはないと思われますので、本名ではないでしょう。

罪を犯したのはアカン個人ですが、「イスラエルの人々は罪を犯した」と言い、「主の怒りがイスラエルの人々に対して燃え上が」りました。聖書は個人主義ではなく、良くも悪くも家族も含む連帯責任です。6章でもイスラエルの二人の斥候をかくまったラハブは、本人だけではなく、連なるすべての者が救われました。

2、アイへの攻撃

そのようなことをまったく知らないヨシュアは、エリコからベト・アベン(「邪悪の家」の意)の近くのアイ(「廃墟」の意)に男たちを遣わして偵察を命じます。エリコにも斥候を遣わして上手く行ったので、今回もこれで良いと思ったことでしょう。人は順調なときほど、隙が生まれやすく、ミスを犯し易いと言います。

ヨシュアもエリコの占領が上手く行って、隙が生まれたのでしょうか。主に祈り、御心を聴くことをしていません。偵察から戻って来た男たちは、「すべての兵が攻め上るには及びません」と言います。「上って」と2節で2回、「攻め上って」と3節で2回言います。アイはエリコより千メートル位標高が高いので上ることになります。

そして、「二千人か三千人で攻め上ればアイを討つことができます。すべての兵に骨を折らせることはありません。彼らは少数ですから」と言います。標高千メートルを武装して上るのは大変でしょう。

アイの人口は8:25で一万二千人ですので、男は半分の六千人として、兵士の年齢の者はその半分の三千人位でしょうか。

エリコの占領が簡単だったので、今回もアイの兵士と同じ位の人数がいれば十分と考えたのでしょう。約三千人が攻め上りましたが、彼らはアイの兵士の前から逃げました。何かエリコのときとは勝手が違うと感じたことでしょう。アイの兵士たちはイスラエルの三十六人を打ち殺し、下り坂のところで彼らを打ちました。戦闘では高いところから低いところを攻撃をする方が何かと有利です。

イスラエルの兵の心は挫けて水のようになったと言いますが、日本語的にはピンと来ない表現です。「挫けて」という原語の言葉には「溶けて」という意味もありますので、「心は溶けて水のようになった」というと少し分かる感じがします。

3、ヨシュアの嘆き

ヨシュアにとっては思いも寄らぬ出来事で青天の霹靂です。上着を引き裂き、長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地に顔を付けてひれ伏し、頭に塵をかぶります。これは嘆きの表現で、ヨシュアは7~9節の言葉を訴えます。

これはヨシュアの正直な気持ちかも知れませんが、この言葉は主によってエジプトから救い出されたイスラエルが荒れ野で不平を言った、出エジプト16:3の言葉と似ています。終いには、「あなたは大いなる御名のために、一体何をしてくださるというのですか」と主の責任を問います。

私たちも何か不都合が起きると、取り敢えず誰か他の人の責任を追及して、自分たちには何か落ち度があるかも知れないとは顧みないものです。

4、主の指導

しかしそのようなヨシュアに主は優しく、手取り足取りの丁寧な指導をされます。初めにまず、「立ちなさい」と命じられます。それは、今は、ひれ伏しているときではなく、立ち上がって、するべきことがあるからです。二番目に、イスラエルの敗北の原因を、11、12節で説明されます。

主の命令を破るとはとんでもないことです。主が共におられることはすべての成功の秘訣です。逆に言いいますと、主が共におられなければ、何をしても上手く行くことはありません。直ぐに対応を取る必要があります。

三番目に、その対応策を13~15節で命じられます。対応策の一つ目は、民を清めることです。主は聖なるお方ですから、主に向き合うときには清める必要があります。3:5でヨルダン川を渡る前にも身を清めましたが、水を浴びる等の儀式を行ったと思われます。

二つ目は、犯した罪である、盗んだ滅ぼし尽くすべきものを取り除く必要があります。三つ目は、そのために、盗んだ人を特定します。主の指示に基づいて、翌朝、ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダ族がえり分けられます。

聖書協会共同訳の「えり分ける」ですと、どのように、えり分けるのかが分かりませんが、正確には分かっていません。新改訳の「くじで取り分ける」と思われ、くじにはウリムとトンミム(出エ28:30)が使われたのかも知れません。

くじで範囲を狭めて行くのは効率的であるのとそのグループの連帯責任を覚えさせる意味があるのかも知れません。ユダの氏族、ゼラの氏族、ザブディ、カルミと狭められてゆくときにアカンはどのように感じていたのでしょうか。途中で自分が罪を犯したと告白することはしません。

若しかすると自分までは辿り着かないことを願い最後の望みを託していたのかも知れません。しかしアカンがえり分けられます。ヨシュアはアカンを責めるのではなく、「わが子よ。さあ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白せよ。そして、あなたが何をしたのか私に告げなさい」と、ただ正直に告白をして主に栄光を帰すことを求めます。

主によって自分がえり分けられ、ヨシュアに促され、アカンは正直に20、21節を答えます。シンアルはバビロンの古い名前で高級品であったと思われます。焼き払うってしまうなら貰いたいと思ったのでしょうか。しかしこれは、もったいないかどうかの問題ではなく、主の命令を守るか守らないかの大きな問題です。

シェケルは約11.4gですので、銀2.28kg(約78万円)、金の延べ棒570g(13百万円)です。

アカンが銀と金の正確な重さを知っているのは、関心を持って自分で量ったためと思われます。

アカンは、「見て、欲しくなって取りました」と言います。初めに罪を犯したエバも、神に食べることを禁じられた善悪の知識の木を見たために、食べるに良く、目には美しく、好ましく思い実を取って食べてしまいました(創世記3:6)。神が禁じられるものは初めから見ないことが、罪に陥らない知恵です。

ヨシュアが人を遣わし、天幕の中を確認するとそこに盗んだ物があったので、ヨシュアとイスラエルの人々のもとへ運び、主の前に広げます。ヨシュアはアカンが盗んだ物とアカンの息子、娘、牛、ろば、羊、彼の天幕と全財産を携えて、イスラエルのすべての人々と共にアコルの谷に向かいます。アコルは「災いをもたらす」の意味でアカンと同じです。

家族は連帯責任もありますし、アカンが天幕に盗んだ物を隠していたことは恐らく家族も知っていたことでしょう。イスラエルの人々は、皆、彼を石で打ち殺し、彼の全財産を火で焼き払い、石を投げつけます。彼の上には大きな石の塚が立てられ、今日に至っています。

ヨルダン川を渡ったときには川の真ん中の石をギルガルに立てました。主が御業をなされたときにも記念として石を立てましたが、教訓として覚える大切な出来事には石を立てました。それはその出来事を無駄にしない知恵なのでしょう。

主は燃える怒りを収められました。このようにして、その場所はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っています。出来事を地名にもして覚えました。

5、罪の贖い

アカンの罪による出来事は大きな悲劇です。そしてそのことを忘れないために石の塚が立てられました。しかし石の塚によって、アカンのような罪は犯されなくなったのでしょうか。多少の抑止の効果はあったと思われます。しかし細かい状況は違いますが、不正な横領は残念ながら現代でも世界中で見られることです。

もしもアカンのように横領を行った者をすべて殺し、石の塚を立てていったら、世界中が石の塚だらけになってしまうことでしょう。石の塚によってすべての罪を止めることができるなら、主イエスが十字架に付かれる必要はありませんでした。

石の塚ではどうしても人の罪を止めることができませんので、罪の赦しのために、罪の贖いとして主イエスが十字架に付かれました。主イエスの十字架がなければ、例えこの世では死刑になることがなかったとしても、最後の審判で滅びへと裁かれてしまいます。

またこの世でも神の御心に沿った正しい生き方ができるように、主イエスを信じる者には聖霊が働かれ導いてくださいます。石の塚を見て恐れて生きるのではなく、聖霊に満たされ、正しいことを喜びを持って行う人生に導かれます。罪の贖いを感謝し、主に導かれ喜びの人生を歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。アカンは出来心であったのかは分かりませんが、ふとしたことで罪を犯してしまいました。似たようなことは誰にでも起こり得ることです。そしてその結果は家族も含めた破滅という深刻なものです。主イエスの十字架の贖いが備えられていることを感謝します。すべての人が恵みの贖いを受け入れ、喜びの人生を歩めますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。