「民を祝福するため」 

2026年8月9日礼拝式説教 
ヨシュア記 8章1~35節

主の御名を賛美します。

1、主の命令

7章ではアカンが滅ぼし尽くすべき献げ物を盗む罪を犯しましたが、イスラエルは主の命令に従って罪を取り除きました。そこで主はヨシュアに五つのことを言われます。一番目は励ましで、改めて「恐れてはならない。おののいてはならない」と、アイに打ち負かされて、恐れ、おののいているヨシュアを励まされます。

二番目は命令で、「戦士全員を率い、直ちにアイへ攻め上りなさい。あなたは、エリコとその王にしたように、アイとその王にしなさい」と失敗したことのやり直しを命じられます。三番目は約束で、「私はアイの王とその民、町と土地をあなたの手に渡す」です。

四番目は条件で、「ただし、戦利品と家畜はあなたがたのものとしてよい」です。今回はエリコのときと違って、なぜ自分のものにして良いのでしょうか。エリコは初穂としてすべてを主に献げる必要がありました。主は人の必要をご存じですので今回は自分たちのものとできます。

アカンはエリコで慌てて盗まないで、一回待っていれば、今回、堂々と戦利品を自分のものとして、自分たちの滅びも避けることもできました。私たちも焦って自分の思いを通すのではなく、神の時を待って恵みを得たいものです。五番目は戦術で、「町の裏手に伏兵を置きなさい」です。

2、アイへの出撃

ヨシュアは戦士全員を率い、主の命令に従って、直ちにアイへ攻め上ります。8章は良く分からないことがあります。戦士全員が文字通りですとイスラエルの兵役に就くことのできる戦士は約60万人います(民数記26:51)。ヨルダン川の東側に残っている戦士を除いても50万人以上います。

しかしアイの戦士は25節から考えてせいぜい3千人位です。約二百倍の戦士は多過ぎる気がします。ここの「戦士全員」は、4:12、13にありますイスラエルの先頭に立つ、ルベン族、ガド族、マナセ族の半数を合わせて約4万人のことかも知れません。

日本ホーリネス教団は、聖書の御言葉をそのまま信じる立場です。しかし旧約聖書はヘブル語でイスラエルの文化、習慣によって書かれていますので、日本の文化で日本語に訳した文章に拘り過ぎると誤解する可能性もあります。ヨシュアは三万人の力ある勇士をえりすぐって夜の間に送り込み、伏兵として、アイの西側、べテルとアイの間で待機させました。

次の10~12節の文章も良く分からないものです。普通の日本語の文章ですと、これは時間的に9節迄の内容の後の出来事です。そうしますと、ヨシュアはアイで一泊して、朝早く起きて、約五千人を伏兵に追加して、伏兵は合計三万五千人を町の西側、べテルとアイの間に置くことになります。

その夜、ヨシュアは谷へと降りて行きました。日本語訳ですと分かり難いですが、ここでこの日は終わり、ヨシュアはアイで二泊したことになります。主は、「直ちにアイへ攻め上りなさい」と言われているのに、果たしてのんびりと二泊もするでしょうか。

4章のヨルダン川を渡る話のときにもありましたが、一度終った話を、他の角度から見て、もう一度繰り返すことをしていました。もしそうですと、10~12節は3~9節の話を言い方を変えて同じことを言っていて、ヨシュアがアイに滞在したのは一泊だけと思われます。新しい註解書等はこの見方のようです。そして、三万人でアイに上って行って、その中から五千人を伏兵として、二万五千人が本隊のようです。

3、アイとの戦い

夜にヨシュアが谷へと降りて行ったことは、アイの王の気付くところとなり、町の兵士たちは急いで起きました。聖書協会共同訳ですと兵士たちは夜に急いで起きた感じがしますが、新改訳の、「兵はみな、朝早く起き出し」が原語のニュアンスで、翌朝のことです。

アイの王と全軍がイスラエルとの戦いの場へと出撃すると、イスラエルの全軍はアイを町からおびき出すために、敵に打ち破られたように荒れ野の道を退却します。アイは町の裏手にイスラエルの伏兵がいることを知りませんので、追い打ちをかけるため、町にいた兵もすべて呼び集め、ヨシュアの後を追います。

アイはこれは前回と同じで楽勝だと思ったことでしょう。人は一度上手くゆくと、何も疑わずに同じことを繰り返し、隙が生まれ易いものです。こうしてアイの兵士たちはまんまと町からおびき出され、アイにもベテルにもイスラエルを追いかけずに残った兵士は一人もいません。べテルも戦いに加わったようです。

主はヨシュアに、「あなたが手にしている投げ槍を、アイに向かって差し伸べなさい。私はあの町をあなたの手に渡そう」と言われます。ヨシュアが手にしている投げ槍を町に向かって差し伸べられるやいなや、伏兵が持ち場から立ち上がり走り出します。

投げ槍を差し伸べる姿は遠くからも見えたとも思われますが、若しくはすべての兵が直接に見たのではなく、投げ槍を見た兵が他の兵に伝えて行ったとも思われます。ヨシュアは、アイの住民を滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差し伸べた手を元に戻しませんでした。

これは出エジプト記17章のアマレクとの戦いで、モーセが神の杖を手に持って、手を上げているとイスラエルが強くなるので、モーセが手を上げ続けていたことに似ています。これはヨシュアの投げ槍に特別な力があるというより、神の命令に従うことに神の力が働かれます。

伏兵が町を占領し、町に火を放ち、煙が立ち上るのを見ると、荒れ野に退却していたイスラエルの兵は、追っ手の方に向きを変え、アイの兵士たちを攻撃します。さらに、町からも伏兵たちが出撃し、前後から挟み撃ちにし、敵をすべて打ち倒します。これは戦術の一つでしょう。

その後、町を剣をもって打ち、倒れた者は、男女合わせて一万二千人、すべてアイの人々です。ただし、主がヨシュアに命じた四番目の条件の言葉どおり、イスラエルはこの町の家畜と戦利品を自分たちのために奪い取りました。ヨシュアはアイ(「廃墟」の意)を焼き払い、荒れ果てた廃墟の丘にし、今日に至っています。

4、主の祭壇

それから、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために祭壇を築きます。一見しますと、これはアイとの戦いとは関係の無い感じがします。しかし6章でエリコを占領しましたが、その中には7章のアカンの罪があり、そのためアイとの一度目の戦いには破れ、アカンの罪を取り除き、8章でアイを占領しました。

そこで終わりではなく、神への感謝の祭壇を築きます。エバル山はアイの北に直線で32km離れていて、道沿いですと50kmになり、シェケムの谷の北側の山です。祭壇は主が主の僕モーセを通してイスラエルの人々に、申命記27:5で命じられたとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石のものです。それは鉄の道具により人の手の業で作った物を偶像化しないためです。

人々はその祭壇の上で、主への焼き尽くすいけにえと、会食のいけにえを献げました。焼き尽くすいけにえは、レビ記の初めの1章に出て来るいけにえで、主に自分のすべてを献げる、献身を表します。会食のいけにえはレビ記3章に出て来るいけにえで、主への感謝を表すもので、献げる者は焼いた一部を感謝して共に食べます。

5、民を祝福するため

ヨシュアはその石に、モーセがイスラエルの人々の前で記した律法の写しを刻みました。律法の写しを刻む、「その石」はどの石なのかと思いますが、この箇所は申命記27:2、3でモーセが命じたことを実行しています。それによりますと、律法の写しを刻む石は、祭壇とは別の石に漆喰を塗った物です。

イスラエルのすべての人々は、主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司たちの前で、箱のこちら側とあちら側に立ちました。寄留者たちも含めて、その半分はゲリジム山の前に、また他の半分はエバル山の前に立ちました。ゲリジム山はエバル山とシェケムの谷を挟んで向き合い南側にあります。

申命記27:12、13で、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミンは、民を祝福するために、ゲリジム山の側に立ちます。そしてルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリは、民を呪うために、エバル山の側に立ちます。

ヤコブの12人の息子の部族が二つに分けられていますが、祝福をする6部族はヤコブの正妻であるレアとラケルの子どもの部族です。それに対して呪う部族はレアとラケルのそれぞれの召し使いのジルパとビルハの子どもの4部族と、正妻のレアの子どもですが長子の権利を失ったルベンとレアの末っ子のゼブルンです。丸で正妻の子と妾の子を分けるような、いやらしい感じもします。

しかし祭壇は召し使いの子どもたちを中心とする部族が民を呪うエバル山に築かれました。これは逆のような感じもしますがなぜなのでしょうか。これは主の僕モーセがかつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためです。

今日の中心聖句で、イスラエルの民を祝福するために、ヨシュアは祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げました。祝福と呪いを読み上げると言われますと、何となく聞く人は、祝福と呪いのどちらかを選ぶ、選択を迫られるような感じがします。

しかしそうではなく、祝福と呪いを読み上げるのは民を祝福するためであると言います。呪いは律法の言葉に違反する者に、そのままの状態ではどうなるのかを告げるものです。そして呪いを避けて律法違反の罪を贖うためには祭壇が必要です。そのために民を呪うエバル山に祭壇が築かれたようです。

新約聖書にも祝福と呪いが書かれていますが、それはどちらかを選ぶためのものではありません。

私たち人間を祝福するためです。主なる神は私たち人間を祝福することを望んでおられます。しかし私たち生まれながらの人間は生まれる時から原罪を持つ罪人ですので呪われる者です。

しかし、「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。・・・それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された(聖)霊を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:13、14)

聖書にある呪いの言葉は決して人を脅したり、脅迫をするためではありません。ただ律法に違反し、罪を犯しているとどうなるのかを事実として述べているものです。それは勿論、そこから離れて祝福の道を歩むことを望んでおられるからです。

私たちを呪いから贖い出すために主イエスは十字架に付かれました。主イエスを信じる者には聖霊が与えられ、御心を行う者へと変えられて行き、アブラハムに与えられた祝福が与えられます。主イエスの十字架を感謝し、受け入れて、祝福の道を歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。聖書には祝福と呪いが書かれていますが、それは民を祝福するためであることを感謝いたします。御言葉を読み、自分の罪に気付かされる時には、聖霊によって直ぐに悔い改めさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。